DRAC興亡史・・・1967~71その17「試練」
1968年春、こうして新執行部が誕生し、新しい体制の元で新入生が10人ほどDRACに入部した。
彼らの特徴は総体的に「大人しい」人種のようで、変に納得するもの達が多く、個と集団の境目のない(つまり非個性的かつ集団的パワーのない)ような者が多かったように記憶している。
しかし2回生でありながら執行部を握ったわれわれ役員や、グループリーダーたちを、いつも監視し、値踏みしているように思われるふしが有った。
このことは、われわれが新入生のとき、すぐ上の先輩達を事あるごとに値踏みした感触と同じで、しかもわれわれの時代には、強力な2年先輩の3回生が執行部を握っているのに対し、彼らにとっては、3回生の存在はなく、いきなりすぐ上の1年先輩が執行部の先輩で、4回生がいるものの、彼ら新人にとって雲上人の存在でもあったろうから、何かにつけて彼らの視線は直接われわれに向かった。
この状況において、恐らくわれわれの内部では、1年後輩の差別化を自身が要求するところとなって、密かに・・・音楽以外のいろいろな知見を得るために、主には読書で情報を収集しようと努めた者が多く、小生もその一人であった。
音楽美学、音楽社会学、哲学書、芸術文化についての著作、フルベンの音楽と政治、そして様々な芸術論や主義主張について、など先輩そして執行部、グループリーダーとしての自身の位置づけを守り存続させようと必死に読みふけった。
大学の状況をも知らないわけには行かなかったから、文連委員会や文連主催の合宿に小生も積極的に参加して情報を得ようとした。
小生に刺激を与えてくれたのは、2浪して哲学科専攻生となり、普段は余り発言しないが、彼が発言したときは、いつも重量級の重みがあり、DRACでの特別な友人の一人となるMの存在であった。
当初文連委員は幹事長のHS川が兼任したが、余りにも荷が重かったのだろう、途中でMに交代した。
時々行方が分からなくなるが、Mとも長い付き合いで、下宿には良く来ていたし、実家にもお邪魔して泊めてもらったり、深夜のバイトのお金を全部使って神戸の夜を案内してくれたり、小生の頼りになる友の重要な一人になった。
後にMは、あるセクトに入り、かなり危険な役を引き受け、最後は救対が必要とされる身となった。
DRACの諸氏でこのことを知る者は余りいないが、東大安田講堂で、最後まで旗を振り続けた男、其れがMである。
ルカーチ、ブロッホ、ゼーガースの「表現主義論争」、「マックス・ウエーバーの音楽社会学」、ジルバーマンの「音楽社会学」、ハンスリック、ヘーゲルの「音楽美学」など・・・理解できたかどうかは怪しいのだが、こういうものを読んでいることが、ある種ステータスでもあったのは事実で、理解度は2の次というのも、今考えれば面白いことであった。
それらの本を抱えてBOXに行くことが、見栄でもあり形式的でもステータスであった。
当時は、音楽に関連するもののあらゆるものを見つけてよく読んでいて、「福永武彦」やSFのF・ホイル「10月1日では遅すぎる」などにまで、あらゆるものを音楽と関連させていた時代があった。
講義には余り積極的に出席することはなかったが、文学部の講義に「音楽美学」があることを知り、受講資格はなかったが、こっそり出席をしたりもした。
そのおかげなのか、今までとは違う知見が急激に身についてくるのを実感し、同輩や後輩との丁々発止にも耐えられるようになってきて、そのことが自信にもつながっていくのであった。
「先輩、ヨゼフ・スークという人知ってますか?」と、ある日突然後輩達が集るBOXで、意味ありげに質問してきたヤツがいた。
その頃法制のお気に入りのLPの一つが「スークトリオ」のシューベルトのピアノトリオだったから、「あぁ知ってるよ、ドヴォルザークやスメタナを得意とするチェコのバイオリニストだろ」と答えると、「あぁやっぱり、SY野さんでも知らなかった」と、半分バカにした口調で言う。
よく聞くと同じ名前の、彼の祖父に当たる「ヨゼフ・スーク」についての質問で、これは明らかに意図的な引っ掛け問題であった。
いまでこそ、このスークの室内楽は、音盤にもなっていてクラシックの愛好家ならば、祖父と孫の同姓同名のスークがいて、祖父のスークは作曲家権バイオリニストでもあったことは既定の事実であるが、当時は発売されている音盤はごく少数で、とてもこの作曲家の作品を聞けた人は少なかったはずだが、この男は東欧の作曲家の勉強をしたのであろう。
そして同輩に聞くも恐らく誰一人答えられなかったことをいいことにして、それでは先輩を試してみようと思ったのだろう。
このようなことに日常さらされるから、先輩としても面子をそう簡単につぶされるわけには行かない。
だから必死に勉強したことがDRACの知的水準を押し上げる結果につながったのだった。
新入生の殆どは、1年あるいは2年しか違わないにもかかわらず、マージャンをやるものは数少なかったし、酒を飲んだり美味いものを食べに行ったりする様子も、われわれの年代に比べズット少なかった。
今思えば、新入生の多くは自宅通学者が多かったようで、公私共に付き合えた新入生は、下宿組みで、しかも彼らが2回生になってからであったように思う。
コンパが終わって2次会に突入しようとしても、「すみません、電車がなくなるのでもう帰ります」といって返っていく人間はいつも相当数いて、2次会の席の話題の一つに、「何故すぐに帰ってしまうのか、先輩の下宿に泊めてくださいといえばいいものを」ということが必ず出たほどであった。
そういうわれわれも、下宿組みと自宅通学組みではその雰囲気が大きく分かれていて、自宅通学組みが時間に制限があるのに比べ、下宿組みはそれがなかったせいか、よく集って飲食やマージャンをすることがあった。
ちなみに旧執行部三役は全て下宿組みで、そういう先輩から公私共に指導を受けていたから、その影響が強かったのだろう。
彼らは本当によく面倒を見てくれて、特に小生は、一宿一飯の恩義どころか、百宿百飯の恩義を受けてきた。
先輩の実家にお邪魔したり、また小生の実家に来てもらうなど、公私の区別ないお付き合いがあったのに、なぜか同期の自宅通学者がサークルの友人達を実家に招いたということは聞いたことがないし、一部を除けば自宅に招かれるなどの交流はなかった。
そうなると必然的に、特別なことでもない限り、日常の付き合いの深さがサークルでの交友関にリンクするから、浪人と現役という図式もさることながら、他に大きいのが下宿組みと自宅通学組み差であったように思う。
サークルでは勿論のこと、サークルを離れてはマージャンをし、夜ともなれば誰かが誰かの下宿を訪ね、泊り込んでは、ああでもないこうでもないと夜を徹して話すのが日常だったから、お互いの気が知れてくるのは当然で、ますます結びつきが強まってくるのであった。
下宿組みは、それぞれが何か寂しさのようなものを常に持っていて、其れを紛らわし、その寂しさに身をおくのがイヤで、寄り集まった(団塊となった)こともあったのだろう。
小生なども、今思えば人一倍友人の下宿で過した時間が長いほうであった。
幹事長のHS川は、その頃下鴨一本松から右に入ったところの蓼藏町の離れに下宿していて
気兼ねが要らないから行くことが多かったし、K田は荒神口から左に入った古民家の下宿で、部屋までかなり長い間歩いた。
酒を飲んだときなど、トイレが遠くて苦労した記憶が今でもある、そんなところに住んでいた。
「しゃんくれーる」というJAZZ喫茶はすぐ目の前で、梶井基次郎の短編小説「檸檬」の八百屋「八百卯」は下宿の入り口近くにあった。
小生はその頃下鴨糺の森・・・下鴨神社に沿って、家庭裁判所の重厚な古い建物があるところから、一本加茂川に入った老夫婦の下宿屋にいた。
「のらくろ」という洋食屋には近くて、DRACの連中をもよく連れて来たが、(小生の下宿から程近いところにいたT海林幹事長に紹介したところ、彼も気に入って大分通った)何しろ夜勤の主人がいて、少しでも音を出すと嫌な顔をされたから、ヘッドフォン(当時は最高級のSTAX SR-1を親に泣きついて合格祝いとして入手したもの)では満足していたが、それでもスピーカーからの音が聞きたくなると、彼らの下宿を訪ねるのだった。
それでやむなく、2回生になる少し前に、先輩T海林と一緒に、副幹事長K出のいる上賀茂の下宿に移ることにした。
by noanoa1970 | 2007-09-09 14:09 | DRAC | Comments(0)