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DRAC興亡史・・・1967~71 その16「1968年遅春」

小生が執行部副幹事長となった2回生の遅い春のある日のこと、BOXで編集書記の「I藤」と機関紙POCO A POCO発行の話をしていると、突然BOXのドアをノックして、入部を希望する女性が入ってきた。
それが新入生の女性Y木であった。

最初われわれの同期には、女性が数人いたが、皆途中でいなくなってしまい、1年先輩の美女たちも、あの事件の後全員が辞めてしまっていたから、新しく入部した1年後輩の女性T村一人がいるだけだったので、勿怪の幸いとばかりに申し込み用紙を出して記入してもらった。

記入された文字を来て「Y本さんですね」というと「いえ、Y木です」と、ハッキリと答える姿に、眩しさを感じたのであった。
少し迷ったようだが、彼女はロマン派グループを選択した。

学部は英文科であったが、聞けば同志社女子大の新入生だったので、I藤は小声で「まずいですよ、女子大にも同じサークルがあって、先輩たちは女子大のサークルと時々交流会をしていたらしいから」といった。
いずれ女子大とのサークル交流があった場合、女子大の新入生をわれわれが入部させたということがわかるのを恐れたのであろう。
「キザオ」というニックネームが付けられたI藤らしい気の使いようだった。

しかし小生は、その言葉をさえぎって、本人が希望してワザワザここまで(といっても、すぐ隣が女子大だったが)やってきてDRACに入部を希望したのだから、いいじゃないか・・・「分け有ってDRAC入部を希望した」のだろうから、・・・そういって「後は俺が責任を取るから」などと格好をつけて、役員会などを通さずに彼女の入部を許可した。

後にY木から聞いて分かったことなのだが、女子大のサークルは、楽しい音楽鑑賞サークルそのもので、最初はそちらに行って説明を聞いたのだが、ピンと来るものがなかったそうで、DRACへの入部を希望したということだった。

しかし女子大生入部で問題になることは無かったばかりか、彼女は研究サークル員として貴重な存在となったし、知的な可愛さと希少価値で、もう一人の伏見の酒造メーカーの娘「T村」と人気を二分した。
Y木は、鹿ケ谷に住んでいる大学教授の娘、T村は伏見の老舗の酒造メーカーの娘、どちらも今時の女子大生からは、到底考えられないほどの、気品らしきものがある女性であった。

新幹事長HS川は、
小生とは同郷で、彼の高校時代の仲間が小生の中学の後輩ということが分かってから、急に親しくなった。
同じ法学部ということもあって、下宿を行き来し、名古屋に帰ってもお互いの昔の友人達と一緒に(中学の同窓)集って過すことも有った。

またHS川とは、名古屋の繁華街から少し離れたところにある有名な輸入レコード店、I田レコード店に行ったことがあって、そこの店主は国産のレコードと輸入盤を比較し、国産をメチャクチャに貶すのだった。

ある種の怪しい商売風のトークに、小生は途中で「絶対に買わない」と決めていたが、HS川は、@4000円という大金を払って、輸入盤を1枚入手した。

確かに音の違いはあることは分かったが、店主のオーディオ装置がいかにもプアーで、しかもボリュームを、音楽の音量にあわせて自分で上げ下げすると言う無茶をやったから、それを見た瞬間これは怪しいと踏んだのだった。

しかし今考えれば、あの頃のLPレコードの輸入盤と国内盤の録音レベルの差は、ハッキリとその違いが認識できるから、あのI田レコード店の親父の言っていた事は、まんざら嘘ではないと思っている。



by noanoa1970 | 2007-09-08 11:57 | DRAC | Comments(0)