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DRAC興亡史・・・1967~71その15「新執行部・グループ誕生」

≪新幹事長誕生秘話≫

新幹事長HS川は、毒気が全くない性格で、嫌われることがない性格の持ち主であった。

強いリーダーシップこそないが、素直でまじめであるという理由で、これぞという人間不在の中から選定した。
というより、なり手がいないときに、彼だけが手を上げたのであった。

リーダーシップが取れる可能性のある人間は、ほんの数人いたが、いずれも個性が強すぎて、灰汁が強いと思われるところがあったのか、あるいは彼らが牽制しあったのか、結局は波風が立ちにくいHS川に落ち着き、多くのメンバーが納得したようであった。

このことは、稚拙な組織形成においては、よくあることで、中学や高校で学級委員を選定する過程とよく似ていた。

行く先が困難なことが分かっていたから、新執行部を新2回生で占有することは、総論では賛成だが、各論になると急に積極性がなくなってしまう。
このことはDRACのわれわれ世代の特徴の一つで、其れは今でも少しも変わっていないのが面白い。

何でも言いたがるが、いざというと尻込みして、なかなか腰を上げようとしない。
このことは、非プレーイングサークルの特徴のようにも思える節がある。

所謂「評論家」という、それである。

そんな中でHS川は、「それじゃあ僕がやってもいい」・・・と手を上げた貴重な存在でもあったのだ。

この時点で新執行部体制・・・特に重要ポストの副幹事長、会計は決めておく必要があり、副幹事長には小生が、そして会計にはK田が内定したまま選挙が行われた。
M畑は恐らく副幹事長をやりたいと思っていたのだろうが、(またその素質は多分あったと思うが)普段のHS川との接し方や、自分が工学部に在籍ということで、身を引いたのだろう。
M畑は、小生に「お前が副幹事長をやるやろ」とある時期言ったことがあった。

新執行部役員は
幹事長:HS川、副幹事長SY野、会計:K田が三役となり
渉外:M畑、庶務:HS川A(幹事長もHS川Kだが異なる人物)、技術:Y田:A馬、編集:I藤、文連委員:M
という布陣であった。

グループリーダーは以下のとおり
「古典」をHS川K、ロマンをI坂(後に同志社の文学部教授となる)、現代をM畑(自らグループ創設を希望)、日本音楽はK田、小生が特別講座として「音楽美学」(音楽史的グループ編成の緩和策として)を受け持った。

ここに今までの音楽史的グループ編成は、「日本音楽」の継続と新たに「現代」を創設し、そして「音楽美学」の創設で旧来との違いを出したが、少し変わったとはいえ、相変わらず音楽史的な流れは残り、新人達の80%は、古典とロマングループに入った。
他のグループには、5名以上新人の加入があったが、「日本音楽」「現代音楽」には1名づつの参加にとどまったと記憶する。

しかしそれは半年あたりを過ぎた頃、徐々に変わっていき、途中からグループを変えて編入してくるものも存在した。

この頃から音楽史的グループ編成による「研究」は、実態を失っていったようで、翌年になると「日本音楽グループ」には、後輩の可愛い女性が2人そろって入るということになり、古典やロマンと掛け持ちで、日本、現代、そして小生の音楽美学(もともと特別講座的に開設した)に参加する者が増加して行った。

執行部はこの現実に気がついてはいたが、グループ編成を具体的にどのように変え、「研究」という概念をどのように捉えるかという合意には至らなかった。
それは今考えれば、恐らくグループのリーダーとしての資質が、個人の技量(知見、良く音楽を聴いていること)の枠組みを超えられなかったことによるもので、総合的に「芸術・文化」が語れる人間はそう多くはいなかったから、どうしても限界があったのだろう。

「現代音楽」や「日本音楽」は、殆どのサークル員の未知の領域であったし、音楽美学などもその類であったろうから、それらの音楽を聴きたいという欲求よりも、知的好奇心から、人気が出たに過ぎないのだと思っている。

by noanoa1970 | 2007-09-07 07:26 | DRAC | Comments(0)