DRAC興亡史・・・1967~71その11「今だから話せること」
しかし、エキスパートに憧れを持ち、DRACでの自己アイデンティティを限りなく保とうとして、得意分野を見つけるべく特化することに努力をつ続けたそんな一部のサークル員達も、同志社女子大学から入部を希望してやって来たY木という1年後輩の女性の出現に度肝を抜かれることになった。
彼女の音楽の知見と、聴いている音楽の量と質は圧倒的で、特に室内楽という、ほとんどのサークル員が不得意な分野についてもよく知っていたし、コンサートにも欠かさず通うという、当時の女性としては本当に珍しい存在だった。
1960年代の後半は、どんなに頑張ってもどんなに努力しても、聞くことが可能な音盤の音楽にはいろいろな意味で限界があった。
幸か不幸か、小生は中学時代にコロムビアから発売された「クラシック音楽大全集」という50枚組みのセットを、聞き飽きるぐらいに聞いていたので、音楽史的な配列になる所謂通俗名曲はほとんど聞くことができたから、その頃DRACの中で聞けた音楽は、旧知のものが多かったが、Y木の知見は、小生の其れをはるかに凌駕するものであった。
自宅から通えるものと比べ、下宿の身ではオーディオ装置を所有できたものはそれほど多くはない・・・といってもそこはDRACで、下宿人でも音楽を聴ける環境はかなりの人・・・半数以上はいた・・・が持ったようで、小生は自作のレコードプレイヤーづくりをよく手伝ったりもしたことがあった。
下宿代が5000円か6000円で済んだのに、音盤は2000円以上したから、月に1枚買うことができるかどうかがやっとで、この点は・・・だから音盤の保有枚数は、自宅から通っている人には、到底かなわうものではなかった。
幸いなことに、昔からグラモフォンとキングレーベルは、サークル活動使用という名目で、メーカー直で購入すると30%OFFとなり、十字屋では全てのレーベルが20%OFFとなったが、それでもレコードの購入はままならなかった。
そんな中、DRACの「庶務」HA役員は、大阪のレコード会社グラモフオンとキングに行き、学内コンサートでの使用として「見本盤」を持ち帰ってきた。
これは前任の執行部役員OK田から引き継いだことで、DRAC庶務の役得として、暗黙の了解のようになっていたらしいが、
水コンに使用して学生に聞かせ其れがレコード会社の宣伝につながるから、見本盤を提供してもらっているのに、活用は十分でなかったように思う。
何しろこの時代の世間は学生には大甘で、特に京都の町は観光と学生で持っていたから、学生はかなり優遇された。
所謂「学生はん」である。
by noanoa1970 | 2007-09-02 09:04 | DRAC | Comments(0)