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DRAC興亡史・・・1967~71 「インテルメッツォ3」

その話に移る前に当時の3回生を思い出せる限り書いておくことにする。
執行部三役にはかなり触れてきたので、まだ登場してない方を少々。

OK田は、大山崎というところに住む電線会社社長の息子で、仲間からは「OKぼん」と呼ばれていた。所有の音盤も、オーディオ装置もかなり凄いものがあったらしいが、小生とは余り個人的な付き合いのなかった人だった。
とても気がいい人間で、確か庶務の役員をやっていたように記憶する。

S田は、ダンディ男の典型で、かなり気取っていたように目に映った。ロマン派のピアノ音楽に精通していて、シューマンの「蝶々」を好んでいたと記憶する。OK田もS田もどちらかといえば、楽しい鑑賞サークル派だったから途中からBOXに余り寄り付かなくなった。

S下という人は理論派でT海林幹事長と気が有っていたらしい。楽しい音楽鑑賞派ではないものの、執行部の恣意的なようにみえる「研究サークル」理論に苦言を呈していて、小生が一目置く存在であった。後に自分で書いたものを出版して、70年代の半ばにBOXにやってきて、小冊子をおいていったと聞く。

Y田は、小生と同期で同じグループのK田が強く憧れを抱いたフランス音楽のエキスパートで、その頃はすでにDRACを辞めていた、3回生の知的美人で活発な女性M木をF田と奪い合って、結局Y田が勝利をおさめたという噂が立った人物。
自らピアノを弾き、他のサークルメンバーを小バカにしたようなところがあった。いつも不真面目なところを自分で演出していたから、小生は余り好きではなかったが、時々ハットするようなことを言うことがあった。
K田とキャンバスを歩いていると、Y田に出会ったことがある。
するとY田は「お前らまだあんなショウもないDRACにおるんか、早く辞めたほうがいい」と嘯くのだった。

M木にもキャンバスで行き会った事があって、K田がよせばいいのに、「DRACってどのように見えますか?」などと質問すると、M木ははっきりとした口調で「なんや、マスターベーションをしてるみたい」と言い放ったことがある。
小生とK田は美形の女性がそのような言葉を堂々と使ったのにビックリ仰天、そういわれてしばらく開いた口が塞がらなかったことがあった。

IN上はとてもオペラが好きな人で、モーツァルトは勿論、フンバーディングなども当時から聞いていて相当知っていたが、何しろ「楽しい鑑賞派」の典型だった。
それでも結構BOXに来ていて、われわれとよく話す機会があった人だった。
後に同志社大学の文学部教授になった。

O田は当時文連の常任委員を後輩KM田に譲ったが、DRACでの活動よりも他での自己アイデンティティを見出していた人で、寮に住んでいたからか活動家達との面識があり、セクトには加わらなかったが、後にDRACから出た活動家のMが捕まったときに救対活動
に加わったり、同志社新聞局がつぶれた後、小生と一緒になって新聞局を再建した男である。
総会のときに「緊急動議」と叫んで執行部に前年度のレヴューを催促したこともあった。
哲学専攻で7年間在籍したが、現在音信不通となっている。
なかなか味のある男であった。文筆活動を盛んにやっていて「やはり」を「矢張り」といつも書くことが特長だった。(小生は、彼の引越しの手伝いで、トラックを借りて運転手をしたことがあって、よくお邪魔をしたことがある。奥さんが美人だった。)

K嶋は妙心寺の裏手に住む京都が実家の商学部の男、執行部三役は全員商学部だったことや、実家の裏の別棟に一人で住んでいたから、マージャンをやるのに都合が良かったらしく、そこでの集まりが多かったから、小生との接点も多かった。
彼は音楽サークルとしてDRACを捉えているのではなく、違う何かがあるような感じが常にしたが、いまだに其れが何であったか分からない。面倒見もよく気がつく人でもあり人気が有った。
後に佐賀出身で、ダダイズムを標榜し、それに影響を受けた諸氏も多かったS井を入部させたのも、K嶋の手配だった。低迷のDRACに新風を吹き込ませるのが目的だったとはK嶋の後日談である。

M村はグループも一緒だった女性の先輩で、何しろ怖かったのを覚えている。
女性というより、怖いお母さんという感じで、いい加減な言動をすると、こっぴどく怒られたものである。良妻賢母タイプの古い日本の女性像を絵に描いたような人で、編集の才能は類稀だった。

HI口はなぜか小生を当時から高く買ってくれていて、DRACの新入生の中でものが分かっているのはお前だけだ・・・なんてことを言ってくれるから、とてももうれしかった覚えがある。
彼はどうしてかは分からないが、ある日突然、左翼政党の青年組織で活動するようになっていて、文連の執行部役員からDRACはどうなってるんだと評判になって非常に困惑していると、DRAC出身の当時の文連委員長KM田がボヤいていたのを記憶している。

N道は小生と同じ日本音楽Gに所属して、渉外の役員でもあった。なんにでも気がつく非常に面倒見のいい人で、会合や合宿の手配、外部との接触交渉は、彼の手腕になるところが大きい。神戸出身で彼は現在もOB会の常連である。

当時4回生は余りBOXに来ることはなかったが、それでも現れたときには、3回生の先輩諸氏も緊張していたから、われわれは直立不動状態だった。

K寺さん、AK石さん、M谷さん、YS田さん、まぶしいぐらいの2人の大人の女性、NKさんとAS岡さんが時々顔を見せた。
彼らは雲上人であった。
NKさんは背が高くとても愛くるしい人で、笑うとできる靨が印象的な人だった。
SA岡さんは、小柄で少しはにかみやだが、いつもニコニコして可愛い女性であった。
NKさんとはネットで再会し、彼女自身のブログも紹介していただいて、今もやり取りをしているし、M村さんは小生のブログを見てコンタクトを取ってくれた。
他にM田さん他3名の先輩女性がいたが名前を思い出せない。
おととしのOB会で、K寺さんとは40年ぶりで再開したのだが、当時と全く変わってなく、小生の名前をいまだに覚えていてくれたのには驚いてしまった。

かくして、われわれ新入生が2回生になろうとする春に、其れは起こった

≪新3回生追放事件の始まりである≫

by noanoa1970 | 2007-08-29 08:59 | DRAC | Comments(0)