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DRAC興亡史・・・1967~71 「インテルメッツォ2」

軽井沢から新潟の旅の夏は、アクシデントがあったとはいえ先輩達とともに過した貴重な経験の始まりとなり、毎日のように通った洋食屋「のらくろ」は遠くなるが、数ヶ月後に下鴨の下宿を引き払い、K出副幹事長のいる上賀茂の賄いつきの下宿にT海林幹事長とともに移り住んだことで、ますます結びつきが強くなっていった。

下鴨の下宿は大家さんもいい人だったが、一つだけ問題があった。
其れは大家さんの亭主が夜勤だったため、日中は音楽を鳴らせなかったこと。
何かと世話を焼いてもらったが、心を鬼にして下鴨糺の森の下宿を去ることにした。

上賀茂の下宿は半分アパートのような下宿で、8人ほどの住人がいたが、その内DRACのメンバーが3人もいたから、少し大きな顔ができ、音楽を鳴らすこともできた。
いつも大抵誰かが来て、酒を飲んだり、マージャンをしたり、音楽を聴きながらいろいろ談義をしていった。
グループリーダーのF田も、K嶋も、O田でさえこの下宿にやってきていた。

小生の同期の連中は、先輩がいるのでやはり来づらかったのか余りこなかったが、なぜか1年後輩の連中はそれでも、時々やってきていた。

そんなわけで、新入生の中でも取り分けて執行部の先輩たちと親しい関係にあったから、いろいろ教えてもらったり、情報を与えてもらったり、執行部の考え方をいち早く理解できる立場にあったから、コミュニケーションが希薄な新入生たちの、執行部に対する誤解・・・とりわけ幹事長に対する誤解、の解消に回ることもたびたび有った。

夏季合宿が終わり、晩秋となって同志社大学の文化祭EVEの企画の折には、副幹事長のK出さんが中心となって大々的なオーディオフェアを実施した。
この企画は事前にK出さんに、それとなく「やりましょう」といったところ、即座に賛同してくれて、執行部で音楽喫茶の開設とともに企画に載ることになったものである。

大阪のオーディオメーカーとのタイアップ企画で、宣伝したい自慢の機器を無償で借り受け、切り替えBOXを作成し、所々切り替えながら観客に音質の評価を聞くというもの。

これには名だたるオーディオメーカーが、こぞって参加してくれて、10組以上のスピーカー、アンプ、レコードプレイヤーが勢ぞろいし、東京晴海でやっていたオーディオフェアのミニ版の様相を呈することができ、学生の間で評判となった。
運搬中に落としてスピーカーの角を傷つけたらしく、メーカーに謝りに出向いたこともあった。

もう一つのイヴェントとして、学生会館ホールでのレコードコンサートがある。
これも「クラシック音楽普及」の一環としてまだうら若き頭で考え出したもので、ポピュラー音楽とクラシック音楽の・・・つまりポピュラー音楽になったクラシック音楽と、そのオリジナルを聞いてもらおうというもので、知恵を出し合ってベートーヴェンとザ・ピーナッツ、ポンキエルリとナンシーシナトラ、バッハ、モーツァルトとスイングルシンガーズなどなど、ポピュラー音楽になってヒットした、クラシックのオリジナル曲を集めたコンサートだった。

このようなクラシック音楽の普及などという大それた命題も、そしてその実施方法も、かなりこじ付けだったが、当時はそれでもかなりまじめに取り組んだものだった。

「文化創造」という大命題は、かなり重くのしかかったのである。

夏季合宿、そしてEVEを経験しその間に「水コン」、機関紙pocoapocoの発行に寄せる記事を書いたりしながら新入生達は、大きく2つのグループに分かれていくのであった。

2回生も新入生の片方も、「お楽しみ音楽鑑賞サークル」人間は、そのころにはすでにBOXに来なくなっており、当初女性を含め約30人以上いたDRAC新入生は、半数近くに減っていた。
そして新入生が2回生になろうとする春、其れは起こったのだった。

by noanoa1970 | 2007-08-27 16:22 | DRAC | Comments(0)