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DRAC興亡史・・・1967~71 「インテルメッツォ1」

こうして入部したDRACだが、どのグループに所属するか散々迷った挙句、
今年から創設されて、キャンバスで小生を勧誘したF田さんが、国民学派を廃止して立ち上げることとなった「日本音楽G」に入ることとした。
彼の強い勧めで入部したことだし、彼は小生のことを覚えてくれていたらしく、「俺のグループに来い。日本人が日本の音楽について何も知らないではいけない」などといって半ば強引にグループ入りを要請した。

彼は茨城県水戸の出身で、自らを水戸ッポといい・・・あの徳川御三家の1つで昔から尊王攘夷気風のある町で育ったから、水戸藩の藩校であった弘道館・・・現茨城中学校・茨城高等学校出身で、「日本」を常に意識した教育を受けてきたからのようだ。

他のグル-プが音楽史的な研究アプローチをせざるを得なかった頃、すでに日本人の西洋音楽需要の歴史と、明治以来戦後までの日本の作曲家たちの西洋音楽模倣から自己確立の動向、そして主な作曲家の音楽的特徴とその文化時代背景と作品についいて、市場に出ている数少ない音盤を入手しながら、研究対象とした。

その頃唯一世の中に出ていた「日本の西洋音楽」に関する文献も入手し、その中でも一番効果的だったのは、現在邦人作曲家が何を考えているのかを探るための邦人作曲家100人ほどに、アンケートを送り帰って来たものを集計し分析を実施したことである。

今ではNAXOSなどが積極的に、邦人の作品の録音に取り組んでいて、その気になれば誰でも邦人の作品を享受できるし、音友などの雑誌である程度のことは読み取れるが、1960年代ではそのような環境には到底なく、このアンケートは画期的なことだった。

いぶかしがって答えてくれなかった作曲家達もいたが、それでも今聞けばそうそうたる作曲家達が真摯にアンケートに答えてくれたことに驚いた。
その頃はまだ、大学のネームヴァリューは、世間でもそんなに価値観を失ってはいなかった。

日本音楽Gには小生を含め新人が4名入ることとなった。
I藤、KM谷、K田、である。そしてこの4名は後に全員が役員となる。
リーダーとして会計役員でもある2年先輩のF田、そして渉外役員のN道、女性で編集役員のM村、技術役員のY内、いずれも3回生で構成され、2回生は誰もいなかった。

同期の新入生達は、お互いのグループのこと、いやそれ以上に諸先輩についてあれこれ情報交換をし合っているうちにいよいよ夏が来た。

毎年実施するという夏季合宿の予定地は「小豆島」。
なんでもオーディオ装置一式を担いで島に渡り、公民館を借りて夕方レコードコンサートを開き、島の人にクラシック音楽を聞かせるという目的だ。

その頃の活動方針の一つに「クラシック音楽の普及」という、今では少しずれているような方針があった。
しかし当時の環境では学生や、まして田舎の地に住む小学生中学生が、クラシック音楽を聞く環境などは殆どなかったであろうから、学内の「水曜コンサート」の遠隔地版として、実施する意義はあると、当時の執行部が考えてのことであった。

新入生達は、全員で重いオーディオ装置を担いで、大阪南港からフェリーで小豆島に渡った。
公民館で装置の設営を終えると、各自がビラを配りに小豆島の公民館付近の家庭を訪問し、レコードコンサート来場を呼びかけた。

今なら誰も来ないことだが、当時はそれでも老若男女が30名ほど集ってくれ、コンサートは無事終了した。

新入生の中には、こんなことやりたくないというものや、普段の幹事長のやり方に不満を持つものもいて、次の夜、打ち上げをかねた余興の寸劇で、幹事長や執行部批判めいた芝居をしたことがあった。

文連の「文化創造」という大命題の元、サークル活動理念を再構築した当時の執行部は、それまでの「音楽鑑賞お楽しみサークル」からの急激な脱皮が必要とされたから、人身を入れ替えてでも新しいDRACに変貌を余儀なくされた。

T海林幹事長は、その中にあって自ら決断したようで、新入生達がBOXに集ってワイガヤをしながら、誰かがレコードを掛けていると、何も言わずにその音楽を止めてしまうのだった。

「乍に音楽を聞くのではない、DRACでは音楽は研究対象だ、楽しみたければどこか他所で、あるいは自宅で聞いたらよい」
それが幹事長の持論であった。

中には反発する新入生もいて、幹事長がBOXに来ない時間を見計らって音楽を鳴らす不届き者もいた。

そんなこんなで、夏休み直前のある日、水戸のF田先輩から話があって、その内容は、今度軽井沢でT海林、K出、河嶋達と集まるから、お前とK田は来るようにという内容だった。
執行部三役と、DRACで同期の商学部の気の合った連中が集まるというわけだ。

仙台、新潟、京都、そして小生の名古屋、K田は静岡で、そこから軽井沢は遠いのだが、そこは学生、時間はタップリあるし、鈍行を使えば旅費もそうはかからない。
何より憧れの涼しいハイソな「軽井沢」だから、先輩の誘いに乗って、軽井沢行きをに2つ返事で乗っかった。

F田は、水戸の目抜き通りの商店街で、大きな紳士服の店を構えている、お金持ちの家の息子(といっても、かなりシッカリしたタイプであるが)
軽井沢の千ヶ滝というベストポジションに別荘を持っていて、その別荘に集るのだ。

初めての体験の軽井沢は、今のように人が溢れてなく、古い別荘地はとても静かだった。
アイススケートや温泉で楽しみ、夜はお決まりのBBQを庭でやって、2日がたって帰ろうとすると、新潟から車で来た副幹事長のK出さんが、一人で新潟に帰るのが寂しかったのか、もっと遊びたかったのか、「三国峠を越えたらもうすぐ新潟だ、ここからすぐだから俺の家に来いという」。

そこで幹事長のT海林、小生、K田の合計4人は、軽井沢から新潟を目指した。
初めての行き先で、しかも車だから延々走り続けた記憶ばかりが残っている。
当時K出さん以外に運転免許所有者はいなかったから、だいぶ苦労しただろう。

新潟の大きな屋敷に着き、名物の鯉料理をご馳走になったり、新鮮な枝豆を堪能しながら美味しいビールを飲んだりして次の夜は、マージャンの手ほどきを受けることとなった。
小生マージャンは今までやったことがなかったが、先輩は勿論現役入学のK田が少し知っていたのには驚いたが、好奇心旺盛なときだったから、半ちゃん2回ぐらいで、何とかついていくことができた。
初めて天ぱった高い手が二コ二コ、(チートイツ)だったので、待っていると、待ち牌が出たので喜んで上がると、手の中に同じ牌が4個あるというミスを犯していた。
二コづつ集めればよいと聞いていたので、同じ牌が4個あっても2個と2個に分けることができると思い込んだのだった。

そうこうするうちに外はだんだん雨脚が激しくなってきて、物凄い集中豪雨のようになってきたのが、雨戸を締めてマージャンを続行した。
そして次の朝、雨戸を開けると、そこに見えたものは・・・・
全員が仰天の光景を見ることになり、徹夜マージャンの眠気も疲れも、いっぺんに吹き飛んだのだった。

窓からの景色は、昨日までは少し低いところに川が流れていたのだが、今朝見ると川がない・・・其ればかりか周囲が全部、まるで大きな池か湖のようになっているではないか。
よく見ると、昨日見えていた川にかかっていた橋の上を、水がゴウゴウと流れている。

大水害が発生したのだ。
われわれはこんな大事の最中に徹夜マージャンをやっていたというわけだ。
TVラジオで情報を得ると、この地方はかなりの被害が出ていて、鉄道も不通になっているという。

それから2日たってようやく鉄道が回復して、幹事長は仙台に、小生たちは東海道線に乗り継いで、それぞれ実家に帰ることとなった。

by noanoa1970 | 2007-08-27 16:20 | DRAC | Comments(2)

Commented by drac-ob at 2007-08-27 22:01 x
「水曜コンサート」という単語に反応しました。何だったか、どんなものだったか覚えていませんが、確かにボックスで聞いた単語です。記憶が甦ったらまたコメントします。

しかし、大義名分が「クラシック音楽の普及」というのは凄いですね。60年代というかポール・ニザンの匂いがします。続きを楽しみにしています。71,2年くらいになると、僕のDRAC体験ともっとシンクロするかもしれません。
Commented by noanoa1970 at 2007-08-28 09:15
「水コン」は貴君の頃にはすでに形骸化していたと思われます。「クラシックの普及」は、今では陳腐な概念ですが、当時はそのようなことをマジで頭の中だけで考えていたこともありました。しかしこれはその後、意味のないことと分かっ的多様で、「それでは国民全てがベートーヴェンを聞くようになれば、いいと(文化創造やクラの普及などの大義名分のことを指す)思っているのか」という問いに対して誰も答えられなかった記憶があります。サークルの形態を、体制を維持しようとする執行部も、それに反対するような楽しく音楽を鑑賞するサークル派も、それ以上に新しく根源的なサークル論、活動理念を創造することができなかったのも事実です。プレイヤーのほかのサークルからみれば、所詮は道楽者の集団と目に映っていたのでしょう。