DRAC興亡史・・・1967~71その5 「再び1967年4月」
≪再び1967年4月≫
前置きが長くなったが、小生はその頃オーディオにも目覚めていたから、DRACの露天ブースに設置された、自作と思しき大型スピーカーと真空管だらけのアンプ、そしてプリアンプが一体となって収容されるこれも自作のプレイヤーと、そこから出てくる音の前で立ち止まった。
其れが同志社レコード音楽研究会:DRACとの出会いとなった。
露天のブースには長机が置かれ、上に勧誘のためのパンフがおいてあったので、手にとってパラパラと見たのが運ののつき。
後ろから突然「君は音楽が好きそうだね」という声がした、振り返るとそこには、ダークスーツ姿も決まった「目黒祐樹」ソックリの男がいた。
眉毛の濃さ、くっきりとした濃い顔立ちは、目黒祐樹を小柄にしたような感じでビックリしたが、目黒は1948年生まれの同志社高校出身だそうで、同志社大学に進学していたかもしれないことを後で知ることとなった。
この男が3回生の「F田」さんで、その後小生が所属することになった「日本音楽G」のリーダーであり、新執行部3役の一人、会計を務める人だった。
おおよその話は聞いたしオーディオGもあり,今後スピーカーなどを新しくする予定もあるという言葉に釣られ、簡単な入部手続きをすると、F田さんは、この後すぐに学生会館裏の4回のBOXに行って幹事長に顔を見せて来いという。
実は小生昨日、同志社交響楽団に仮入部手続きをしてBOXと呼ばれる活動の拠点の部屋に行っていたが、同響の隣がDRACだというから、少しバツが悪かったが、とにかく行ってみた。
ドアをノックすると、返事ががあったのかなかったのか、聞き取れなかったが、それらしきものがあったので、恐る恐る入ると、そこにいたのが幹事長のT海林さん。
分厚いめがねの奥で、今にも左右がくっつきそうな眉毛の下のギョロメがくりくりと動いていた。
by noanoa1970 | 2007-08-24 07:16 | DRAC | Comments(0)