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DRAC興亡史・・・1967~71その3「1967年4月」

≪1967年4月大学キャンパス≫

こうして小生は京都の同志社大学に入学することとなった。
学部ごとの入学式だったが、それでも生徒が満杯で入りきれないほど。
学長と法学部部長の挨拶があった後、学友会委員長の「矢谷暢一郎」が、甲高い裏声を思い切り出しながらアジテーションの挨拶をした。
彼は英文科の2回生で、小生と同じ町に住み彼をよく知っているESSというサークル出身の女性と偶然話す機会があったのだが、それによると彼は、最初は学友会などには顔を出すようなタイプではなかったのだが、お伊達に乗ってしまって、気がついたら委員長に担ぎ上げられていたそうである。

恐らくほとんどの活動家達は矢谷と部類なのだろう。
ある日突然世の中の、あるいは大学の矛盾に気がつく。
教室に入りきれないほどの入学を許可することなどは、合格しやすさは有っても、とても学問の場であるとはいえない。

私立の大学は当時どこでも、定員の倍ほどの入学許可を与えたと思われる。
しかし大学の意図どおり、はじめは全員の学生がとても入りきれなかった教室も、半年を過ぎる頃には、出席する学生の数が70%ほどとなっていた。

体育と外国語以外のほとんどの一般教養の講義は、出席を取らずに行われたが、これは学生の数が多すぎるからであり、そのことを知っている学生は、講義に出席しないでも、単位さえ取れればよいという考えが働き、大学側の思惑と学生側の思惑が変なところでかみ合っていたようであった。

矢谷はその後も今出川の各校舎の前に拡声器を持ちながら立って、相変わらずの甲高い声でアジテーションをし続けた。

入学式の直後の大学批判という、思いもしなかった洗礼を受けてからすぐに、Orientation:「オリテ」というガイダンスとそしてサークル勧誘のための出店のような者がキャンバスに犇き、今出川キャンパスは人手溢れ返っていた。

まるで休日の・・・河原町三条か四条以上に溢れる人ごみを、掻き分けるように進んでいくと、向こうのほうから音楽それもクラシック音楽がざわめきの中から聞こえてきた。

by noanoa1970 | 2007-08-22 13:41 | DRAC | Comments(0)