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DRAC興亡史・・・1967~71その2「1967年春」

1967年春≫

一浪して入学した小生、実は同志社大学より他に、密かにいきたい大学があった。
将来何になりたいなどということは、其れまで考えたこともなく、ただ「大正教養主義」の権化のような父親から、大学は「国立」、学部は法か経済と勝手に決められていて、しかも一浪をするはめになった身では、国立→私立大学受験の許可をもらうだけで精一杯だったが、それでも中学生時代から、近所の遺跡や窯跡を探す毎日だったから、化石や古い土器の発掘に興味を抱き、当時まだ珍しかった「人類学部」があって、学長もその権威であった名古屋の南山大学をひそかに目指した。

小生の父親は、子供の将来を、自分の意のままにしようとするようなタイプの典型だった。

例えばこのような思い出がある。
小学校の3年のとき京都の伯父(上野音大卒で高校の音楽教師だった)の影響があったのか、バイオリンを弾きたくなって、習いたいといったが、父親は学校の成績が落ちるからといって許可してくれなかった。

「滑り止めだから」といってやっと受験を許可された南山大学の試験に受かると、入学金は払ってやるが、ここに行くのは反対だ、「今頃学校の先生などになってもメシは食えない」と、人類学専攻の学生の将来は、学校の先生でしかないと勝手に捉えていたようで、(その頃父親はトヨタ系のNO2の会社で人事の責任者をやっていた)せいで、ずうっと国立(しかも旧帝国大学)の、そして文系なら法学部か経済学部を出なければ、使い物にならないと、経験的にあるいは勝手に思い込んでいたのだろう。

ちなみに当時の父親の勤務していた会社では、名古屋の国立の大学と同じく国立の工業大学出身者が多かったとみえ、続いて東京・大阪、京都の国立大学出身者で固められていたようである。

父親は・・・恐らく、たまたまその新卒の出来が良くなかったのか、一流とされる私大出身者の会社での能力をいつも話題にし、小生に国立行きを仕向けるのだった。

あいにく父親の期待むなしく小生は、見事国立受験に失敗し、予備校生となって、ようやく世の中や大学のことなどを見聞きできる環境におかれた結果、自身のタイプは「狭く深く」。
国立大学向きの「広くそこそこ」というタイプとは根本的に違っていることに気がつくこととなった。

それで、途中から意識して国立受験の教科をはずし、英語、国語、世界史の3つに絞り込み、特化して勉強した。(数学が大の苦手のせいもあったのだが)
おかげで3教科の成績はそこそことなっていったが、
しかしこのことが父親にいつかバレる事が怖いので、周囲を・・母親を先ず説得にかかり、母親から父親を説得させる戦術を練った。

母親は京都出身だから・・・「本当は京都大学にいけるといいんだけれど、僕の実力ではどんなに頑張っても無理だ、でも京都の私大なら何とか合格できそう・・・・
京都に下宿したら、いつでも好きなときに京都にこれるし、おばあさんの墓参りも遠慮せずにこれる」・・・などとくすぐったのが幸いして、母親の応援の結果、京都の私大を受験する許可が降りた。

次に目論見の人類学部の南山大学だが、「一浪して、京都の大学は多分大丈夫と自分では思うが、もしものときと、経済性のことを考えて、地元の大学を滑り止めに受けたい」といってみた。

しかし、この南山大学という大学も、中部地区では一番の優秀私学だったから、受かる可能性は100%有るわけなどはないが、なぜか父親の会社にこの大学出身者が居て、割と優秀だったらしく、記憶にあったのだろう、「滑り止めに」の言葉を信用してというか、うまく騙してやっと受験したのだ。

本当に自信があったのなら、京都の私学をワザト失敗して「滑り止め」しか受からなかったという理屈で、目指す大学に行く事とができ、今頃は人類学者だった(笑)のに、われわれの世代・・・1学級が60人もいて、1学年のクラスが物凄く多い時代に育ち、過酷な受験戦争下にあった小生、しかも一浪しているから、万が一を考えると、もう後がない。

そんなときだから、考えてはみたことは有っても、そんな余裕などは勿論ない。
入学試験は全部死に物狂いでなければ、ボブディランではないが、「どこにもいけない」のをやはり恐れていたのだ。
結果、残念なことに、受験した全ての大学に受かってしまった。(苦笑)

中に東京の超有名大学もあったが、小生以外の家族の選択は、(父親はこの期に及んで、もう少し勉強しておけば(国立に・・・・などといっていたが)当然のように、また致し方なく、京都行きに表を投じるのだった。

結局最後になって自分の息子の能力に気づいたのか、「学校より学部が大切」だからなどと、自らを納得させ、息子の国立大学進学をやっとあきらめたようだった。

というわけで、小生は決して行くのがイヤというわけではなかったが、希望の上では2番目の、同志社大学法学部、おまけに政治学科という所に入学することになった。

・・・法学部法律学科の募集は700人ほどだったが、小生は150人ほどの募集の政治学科を選んだ。
(南山大学にいきたかったから、落ちた結果南山大学進学という期待と、やはり受かっておかないと後がどうなるか分からないという不安の元に、リスクの多い募集の少ない学科であったが、政治学科を選択した。

父親は、旧帝大の法学部出身だったから、私学を嫌っていたが、それでも法学部を受験ということで安心したのか、あきらめたのか、それ以上口出しすることはなかった。

同じ大学の経済学部も受験するから、どこかで引っかかるし、運がよければ目指すところへの道が開けるようにした、つまり将来のことなど何も考えないで、ただ大学進学が「良いことである」という浅はかな、そして打算的考えによるものだったのは間違いない)

入学時のことで話が満杯になり先に進めなかったので、残り(残りのほうがが遥かに多いが)続きとする。

多分5話以上の長編となる予感。

by noanoa1970 | 2007-08-21 08:30 | DRAC | Comments(0)