どこもかしこも「空騒ぎ」

「原爆」の夏の日は過ぎ去ってしまった。
そして今再び、学生時代に読みふけった「福永武彦」の小説「死の島」「廃市」を思い出す。

小生はかつてブログ「死の都」・「廃市」http://sawyer.exblog.jp/2758156
そして
文学における「12音技法?」・・・福永武彦「死の島」http://sawyer.exblog.jp/2009610にて、「コルンゴルト」と「ラフマニノフ」の音楽と福永武彦の小説について書き、いまここでそれらとそしてその底辺に流れる「原爆投下」後の「日本」の一こまを想起する。

とりわけ、「死の島」と「広島」の語感の類似性は、福永の小説のリアリティを増すものであったし、柳川と長崎・・・県こそ違うが、いずれも戦後の混乱期には「廃市」の状態であったであろう。

わが国は、いまだに戦争のレヴューが政府によってキチンとされてないから、戦争の「虚と実」は、様々なところで、いろいろな形となって、亡霊のように出たり消えたりしている。

総理大臣の説明なき・・・恣意的、意図的「勝手な思い込み」あるいは「勘違い」による続投は、敗戦のレヴューをキチンとしてこなかったこれまでのわが国を象徴するもののようだ。

この逆境を耐え忍んで、再び国民の支持を得るための方法論は、ほとんど無いのだろう。
「起死回生の・・・」は、どう考えても期待できないが、最近顕著な「安倍おろし」
の政治内外の風も、マスコミのかなり表面的な見方、メディアリテラシーの余りにも無さ過ぎる国民感情からだけの批判を見ると、やはりここは再信任を得るための解散総選挙が望ましいのだと思ってしまう。

「本当とは嘘、嘘とは本当」・・・シェイクスピアの喜劇に「空騒ぎ」という作品がある。
何が真実か分からない・・・・
考え方、物の見方によって複数の解釈がなりたち、どちらも正解であるし間違いである。

シェイクスピアの作品はそのような、人間が根本的に持つ「狡賢さ」「合理主義的価値観」を揶揄するものが多い。

もしかしたら、安倍総理に続投させておき、大臣を総入れ替えすることでお茶を濁し、あわよくば自分が大臣のポストに・・・なんぞ思っている輩がいないとは限らない。

また一方で、このままでは自民党が危ないと危惧するものも、そして時期衆議院選挙で自分の当選が危うくなるのを危惧するだけの自己中もいるだろう。

国民の支持を回復しようとし、本当にわが国の国策と国益を考えるなら、挙党一致などという誤魔化しはやめて、思い切って各党から大臣を選んで再組閣したらどうだろう?
「万人があっと驚くようなこと、今までの発想では考えもつかないこと」をやらなければ、国が大混乱になり、何をやっても収拾がつかない状態に陥る可能性がある。

同じ混乱なら未来に向けて可能性を秘めた混乱でありたいものだ。

こういう茶番がバレバレなのに、もっともらしく理屈を付けてくれると、TVの「恋のから騒ぎ」での、いまどきの若い娘の言動とソックリ同じものを見てしまう。

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今日は
「コルンゴルト」の没後50年ということが分かったこともあって、
指揮: アンドレ・プレヴィン、ロンドン交響楽団の演奏で
組曲「空騒ぎ]op.11 を聞くことにした。
以下の4曲からなり、映画音楽的美しいメロディラインがとてもこの時期の作品とは思えないが、耳に馴染みやすく好感が持てる。

花嫁の部屋の乙女・・・チェロが奏でるイントロのメロディとタンゴのようなリズムは、ビゼー(ギロー)の「アルルの女」ファランドールを髣髴させる

ドグベリーとバージェス・・・夜警の行進・・・プロコフィエフの「3つのオレンジへの恋」の行進曲風。コルンゴルトとプロコの関係は興味がわく。

間奏曲・・・やはりビゼーのアルルの女、「メヌエット」のよう。ハープとビオラがハイライトされとても優雅で美しい。最後のトライアングルの「チン」が印象的。

仮面舞踏会・・・開始のファンファーレ後繰り広げられる舞踏会、ユッタリした舞踏会というより、踊り狂っているような雰囲気が漂う。
激しくくるくる回るような踊りは、アイルランドの「リール」「ジグ」を思わせるものを持つ。
疲れ果てて最後には、だんだん人々が踊りの場から去っていくような感じが、この後の物語の予感を思わせる。(空騒ぎの象徴か)

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by noanoa1970 | 2007-08-10 08:48 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)