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追悼・その宗教性についての雑感

今日は広島に原爆が落とされた日。
「しょうがない」発言が頭の隅から離れない。
「しょうがない」は雨の日にだけにしてもらいたい。(小室等・・・雨が空から降れば}

しかしこの「しょうがない」発言に苦言を呈するマスメディア、政治家の諸氏は、戦後の歴史において、面と向かってアメリカに原爆投下の謝罪を求めたことがあったのか・・・?

多分それは無いと記憶するが、そうならば「しょうがない発言」に対する苦言は、「2枚舌」というべき以外の何者でもないような気がする。

「しょうがない」発言は、このようにわが国の、原爆投下に対してのアメリカに対する姿勢の根源的試金石・・(国内ではこういい、アメリカにはああいうことに対する)をはらむものでもある。

今日は追悼の式典が広島を中心に、全国各地でも開催されることだろう。

朝ネットで偶然見つけたweb版「正論」に、以下のような驚くべき記述があった。
これなどは、政府や与党の政治家達の2枚舌をバサリと切る一面はあるが、返す刀が完全に誤った文化、宗教論になってしまっているのには驚愕してしまった。

話の趣旨は、
戦後政教分離を標榜する政府与党などの政治家が、宗教をタブー視し続け、あらゆるところから宗教色を抜いていった。
追悼の儀式(人の死を悼むこと)は宗教儀式で、宗教抜きには考えられないことなのにもかかわらず、どこの式典でも宗教的なもの、・・象徴としての祭壇は一切無い。
一体何に向かって祈りを捧げるのか。

それなのに、式典では、キリスト教の宗教曲や賛美歌などを歌い演奏することを、行政が許すことは、明らかな政教分離の矛盾である。

・・およそ以上のようである。

筆者は以下のように書いている。

「日本の宗教伝統を排除し、あまつさえ異教にすり寄る結果をもたらしたのが、阪神淡路大震災十年の追悼式典である。」

(上の記述は、
モーツァルトの「アヴェ・ベルム・コルプス」を式典で演奏したことを指していて)

『絶対的な政教分離主義に立つ行政機関が主体的に関わる公的追悼行事で演奏されるのは矛盾も甚だしい」
と批判する。

行政の「2枚舌」があることは、小生も認めるところでは在るのだが、この筆者は最初から何か間違えている。
出だしの文章は以下のとおりだが、この文章は日本語になって無い。

「人の死を間違いなく宗教的行為で、英国の戦没者追悼儀礼が自国の宗教伝統に基づいて宗教色豊かに行われるのは当然である」

この「つかみ」で続いて展開するのが

「しかし日本政府は、戦前も戦後も厳格な政教分離主義の立場に立ち、とりわけ近年は公的追悼施設や追悼行事からの宗教性排除に奔走している」

この展開に大きな落とし穴的ロジックがある。
日本語として成立してない稚拙な文章ではあるが、読み解いて見ると、

人の死を悼むこと=宗教的儀式
宗教的儀式だから英国では、戦没者追悼は英国国教という伝統的宗教下で行われる
しかも宗教色豊かに
・・・そしてそれを当然であるという。

逆読みすると、わが国の追悼式典は宗教的色彩の一切無い、空虚極まりないものだから、こんな似非追悼式で追悼をしても決して死者の追悼にはならない。
よその国では国家宗教があり、それに基づいて儀式を行うのに、わが国では行政がそれを長く禁止して来た。

それなのにキリスト教・・・筆者には邪教や異教として映っているのか、の宗教的音楽を演奏するのを認めている行政は矛盾している。

以上のようになる。

しかしこの筆者の問題点は
人の死を悼む行為を宗教的儀式と規定したことで、
確かに宗教的では在るが、それはすなわち全てが宗教的儀式だとは限らない。

宗教色豊かなどということは、神官の祈祷やお坊さんの読経、それにキンピカの祭壇をしつらえ、その前で祈りを捧げることであるかのように、筆者はイメージしているようで、「祭壇も無い戦没者名簿の前で、祈ることは意に反する、天に祈るしかないではないか」と書いているほどだ。

明らかに追悼式は生存者のためにやる儀式と筆者は規定しているかのようなのだ。
そこにそもそもの大きな誤りがる。

筆者は国家神道や国家仏教ライクな物を頭に描いているのだろうが、日本人は昔から「いわしの頭も信心から」という格言のように、一草木にも神が宿るという自然神・・・八百万の神などの自然神をを信仰してきた。

このような筆者の誤った考え方を発展させると果たしてどうなるか
限りなく個人領域まで、あるいは限りなく文化領域まで踏み込んでこられそうで
とても気分が悪い。

このような批判の前に「自身の追悼とは」を是非語って欲しいものである。

モツレクでも、アベ・ベルム・コルプスでも古今東西の宗教音楽でも、それ以外の曲でも戦没者や被災による死者を追悼する思いがあれば、それらは許容範囲であり、大きく間違ってはいない。

筆者の理屈では、追悼にふさわしい楽曲などは、この世には存在しないから、楽曲は一切なしの追悼式となる。

追悼は追悼する人たち、すなわち生存者のためにある行事ではない。
あくまでも死者を追悼する、死者のための儀式なのだから、ましてその中には無宗教者も、宗教者・・・プロテスタント、カトリックも、ユダヤ教徒も、神道も、仏教も、イスラム教徒も、あらゆる宗教者がいても不思議は無い。

自分達を心から忘れることなく、いつまでも覚えていてくれれば、死者は決して文句は言わない。

行政の「2枚舌」批判の気持ちはよくわかるが、例に挙げたのが余りにもお粗末。
この筆者の「追悼儀式」についての根本的な勘違いに唖然としてしまった。
「正論」というには、余りにもおこがましい。

モーツァルトは250年記念もあって、取り上げられたのだろうが、恐らく十中八九聞いていた人は、異教徒の宗教音楽としては聞いていない。
たその音楽に、追悼の念を重ね合わせただけであろう。

それほどまでに美しく崇高な・・・そこらにある宗教的なものなどを、はるかに超越したところに在る音楽。
そのひとつに「アヴェ・ベルム・コルプス」がある。

恐らく筆者は、この音楽「アヴェ・ベルム・コルプス」を真摯に聴いてない、小生はこの文章を読んでそう強く確信した。

黙祷 死者に捧げる無宗教儀礼の一考察
新たな国家宗教を創る政府
戦前も戦後も宗教を理解できない日本の知識人たち
ジャーナリスト 斎藤 吉の記事より


 

by noanoa1970 | 2007-08-06 09:12 | トピックス | Comments(0)