Les Feuilles mortes

少し気取って仏語のタイトルとしたが、これはよく知られた「Autumn leaves」・・・「枯葉」のこと。
ジョゼフ・コズマ作曲、映画「天井桟敷の人々」で知られるジャック・プレヴェールの作詞になるシャンソンである。

コズマは、仏6人組の一人、ジョルジュオーリック同様劇伴音楽作曲家としても名高く、出身はハンガリーである。

フランスの指揮者ミシェル・プラッソンは、交響組曲《夜の門》と、「天井桟敷の人々」の付随音楽に基づくバレエ用管弦楽組曲《バティスト》を録音している。

本日の話題は
ハンガリーの若手JAZZメン:「カルトネッカー・トリオ」が演奏した「枯葉」ライブ録音である。
マイミクのakeminさんが強く推薦しているミュジシャンだ。

akeminさんによってMIXIで彼らの音楽の紹介と音源がリンクされていたので、ほんの少しだけ音を聞いてコメントをしたら、音源を提供していただき、昨日やっと・・・中越沖地震のせいで、せわしなかった心もどうやら落ち着きを見せてきたので、聴く気になったのだ。

ジックリ聞くのは初めてのミュジシャン、・・・そういうときに小生は大抵、スタンダード曲をどのように表現するのかを聞いて、その音楽性を感じるようにしていることが多い。

1時間弱のライブ収録の放送用音源からのものであったが、中に「枯葉」があることが分かり、収録されたすべてを数回聞いた後、なお「枯葉」だけを都合6回ほど聞いてみた。

いきなり8ビートで爽快に始まったのには少し面食らったが、このようなテンポの「枯葉」も悪くは無い。
先にも書いたが、「枯葉」はジョゼフ・コズマ・・・ハンガリー出身の作曲家の手になるもの。
彼らが「枯葉」を取り上げた理由の一つは、ライブが冬であったこともあるが、多分同郷の音楽家の作品だったこともあるのだろう。

4ビートで聞きなれた「枯葉」・・・(すぐ後でウイントンケリーの演奏を2テイク聴いたのだが)小生にはどうも古いほうが性にあっているらしい。

カルトネッカーの演奏は、「枯葉」以外でもそうなのだが、曲目のたびに演奏スタイルを変化させているようだ。
ビーバップ風に思うと、ファンキーとなったり、CTIレーベルによくあるクロスオーバー風となったりする。

今までのJAZZ演奏スタイルを相当なレベルで学んだと見られるし、ピアノのタッチは所謂バップ系のJAZZメンのそれとは完全に異なり、どちらかというとクラシック系のタッチの音を聞かせるところが見える。

JAZZのピアノに多い指の腹でキーを抑える奏法ではなく、クラシックピアノの素養を十分受けたであろう事は、ピアノの音の響き方が物語るようだ。

ヴァースが無い突然の始まりは小生の好みではないし、これといって変わったところがあるわけではないオーソドックスな「枯葉」ではあるが、ただ一点だけ気がついたことがある。

それは中間部のピアノのインタープレイにおいて、カルトネッカーがなんと「対位法」を駆使していることである。
JAZZにおいての対位法:カウンターポイントは、楽器間ではよくあること、例えばMJQにおいてのピアノとビブラフォン、様々なジャムセッションにおけるSAXとペットなどには「対位法」で曲を作っていくこともあって、聴くチャンスは多い。

しかしピアノソロにおいての「対位法」すなわち両手を使って、左右で異なるメロディを弾き、しかもそれがモードを超えたところの不思議なハーモニーを作る・・・
クラシック音楽では聞きなれたものだが、JAZZではこれは珍しいのではないだろうか?

キースジャレットやチックコリアでもそう簡単にやってないようなものを、カルトネッカーは、ここ一番・・・これを聞いてくれ・・とばかりに演っている。
2つの対旋律はいずれも「枯葉」の4つの主音メロディの分解音から出来ているが、少し聞いただけではオリジナルの姿は決して見えてこない。

「カルトネッカー」の「即興というよりは、作曲」であると言ったほうが的を得ているように思う。
これには感心するとともに、彼のの才能の片鱗を見たような気が強くした。

惜しむらくは、2つの対旋律が交差する音の響きが・・・例えばドビュッシーの「子供の領分」集一曲目「・・・パルナッスム」のように、もう一つの旋律を作り出すところまでには至ってないこと。
「枯葉」の曲想とアンマッチであるように感じたことであった。

ありとあらゆる「奏法の坩堝」的様相が垣間見え、彼らの持つ基本技術のすばらしさは十分認めなくてはならないが、聞き終わった後で、フト浮かんだ疑問。

果たして・・・これから彼らはどこに向かっていくのだろう?
ということだった。

彼らのテクニックに、すばらしいものがあるのは、認めたうえで21世紀のJAZZはどちらの方向へと向かっていくのだろう・・・どうしてもそのことが脳裏から離れない。

ほんのわずかだが認められた・・・非アングロサクソン、非ニグロ、非ヨーロピアン、非アメリカンJAZZとは何かが違う・・・それを安易な「民族性」だとは言いたくは無いが、東欧のしかもクラシック音楽の宝庫でもあったハンガリーの新進気鋭のミュジシャンの代表の一人でもある彼らが、音楽をやっていこうとするそのエネルギーを技術の鍛錬と卓越においていると、(そんなことは無いと希望するのだが)もしするならば、もう少しで行き詰る可能性があることだろう。

アイデンティティとオリジナリティをどこに求めるか、そしてそれによる表現をいかにしていくかを考えなければいけない時期に来ているのかもしれない。
自分の演奏様式を確立するのには、まだ時間がかかることでは有るだろうが、また様式を確立したと思われる音楽家は、害して若くして夭折していることが多いから難しさは承知であるが、一時の「凄腕のJAZZメン」だけで終わらない彼らを、いつの日にか見てみた気が多分にするのである。

JAZZの枠組みをはるかに超越したところ・・・他のジャンルを含めた伝統音楽、周辺の民族音楽などとの有機的結合にそのヒントは無いだろうか。

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by noanoa1970 | 2007-07-19 12:04 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)