荒れ野から山径へ・・・


冬のサナトリウム
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ほんの少しだけれど
陽が射し始めた
雪明り 誘蛾灯
誰が来るもんか
独人(ひとり)

荒野から山径へ
邂逅はまぼろし
弄びし夏もや
何が視えたんだろうか
抱擁て

十九歳十月
窓からたびたち
壁でザビエルも
ベッドで千代紙も
涙泣いた


突然、「あがた森魚」という変人シンガーが昔歌っていた「冬のサナトリウム」が浮かんだ。
「荒れ野」という語句からの連想からだと思う。

都会から離れた空気の良い、そんなには寒くない高原にある「療養所」で、結核の療養している、命短く失意のそこにあるような青年の心の中を歌った歌だ。
キリスト教系の療養所なのか、あるいは青年がクリスチャンなのか、「宗教的」雰囲気も漂う。
病気に絶望したのか、19歳で窓から旅立つ・・という悲劇を歌っていて、無にかしら心が打たれて沈んでしまう歌であった。

歌詞に使われる語句が文学的表現なので、歌詞なしで聴いたときには「荒れ野から山径へ」を「晴れの唐山みちへ」というように勘違いしたから、「荒れ野」という語句には思い出があった。

「あがた森魚」は70年代に「赤色エレジー」で有名となり、その後・・恐らく自身の思い入れであるかのように「大正ロマン」的雰囲気の曲をよく書いた人。
80年代には、「吉永小百合」主演のNHKドラマ「夢千代日記」で、ストリップ小屋の兄ちゃんを演じたこともある、異質なキャラの持ち主である。

話は変わるが、「荒れ野」といえばブリテン諸島スコットランドのハイランド、アイルランドには、「ヒースの茂る荒野」=「雑草の生い茂る荒野」が特徴的で、ドビュッシーは「前奏曲2集」でその名前をつけた曲を作っている。
予断であるが、有名なイギリス車レンジ・ローバー:Range Rover の「ROVER」とは、このあたりの荒れ野を「自由に走り回るもの」という意味である。

Bruyeres (Heather)は、きわめて難解な2集の前奏曲の中にあって、ケルトの匂いのする曲で、小生も好きな曲の一つである。

さて「ヒース」とは「HEATH」、元来はブリテン諸島の「荒地」を意味する言葉であるが、「荒地」に生息する丈夫な植物・・・エリカの花をさす言葉に転用されることもあるが、やはり「雑草」とするのが正しいであろう。

そして、原題には、Bruyeres (Heather)とあるから、これを「ヒースの茂る荒れ野」と訳すのは、少しおかしなことだと思われる。
むしろ、「ヒースの草むら」とでも訳したほうがよさそうだ。

また、「Bruyeres 」ブリュイエールとは、町の名前であり、恐らくその昔は、雑草の荒野であったのだろう。

またヒース=「エリカ」の花とするものも有るようだが、Bruyeres (Heather)とカッコつきだから、やはり「ヒースの茂る荒野」では重箱読みのようになってしまうし
まして、「エリカ」の花が咲いてしまっては、曲想と相反するから、「ヒースの草むら」というのが妥当かもしれない。

そしてこの場合の「ヒース」とは雑草であり、その雑草とは、恐らくは「SAGE」:セージではないだろうか。
かの地での発祥と見られる「フライフィッシング」の名ロッドには「SAGE」という名前の有名なメーカーがあって、小生もかつては「ハーディー」、「オービス」とともにこの「セージ」のロッドを使っていた。

そしてその名前の由来はブリテン諸島の荒地に生息する野生の薬草の名によるところのものである。「ソーセージ」に必須の香辛料・ハーブとしても、セージが使われることはご存知だろう。
しかし「セージ」には背丈が1mになり、その幹が硬い木のようになる種類もあるから、かなり手ごわいワイルドな植物であるし、標高1000mの寒い土地で、栽培しても十分育った経験を持つ植物でもある。

この音楽は、優しい雰囲気に包まれているという風に錯覚するが、実は「彷徨」・・・ブリテン諸島の荒れ野を彷徨いながら歩んでいく、ある人間の姿を想起することが出来るように思う。
1歩1歩思い足取りで、嵐の荒野を歩んでいくように、聞こえないだろうか。


さて、その人物とは誰だろうか。
小生は、その人物を「リア王」=「レア王」と、仮定したい。

シェークスピアの「リア王」第4幕に以下の場面がある。


絶望から正気を失ったリア王は、
ヒースの草むら=荒野をさまよい歩き、
グロスター伯の長男エドガーに向って問いかける。

リア   「合言葉は?」
エドガー 「スウィート・マジョラム」
リア   「よし通れ」

着目すべきは、「リア王」が「セージ」と同じ薬草・ハーブの「スイート・マジョラム」を合言葉としたこと。2つとも、悪魔よけにも、病の治療にも使われたという古代ローマからの「薬草」で、ブリテンハイランドの寒い荒野には「マジョラム」ではなく「セージ」の生息が妥当だからである。



ドビュッシーは未完の劇音楽「リア王(King Lear)」を1904~06に書き、1926出版する。(Orch版は、ロジェ=デュカス編)・・・であるから、ドビュッシーは、「シェークスピア」の「リア王」を、読んでいて、あるいは劇を見ていて知っていたのでは有るまいか。

そして「リア王」にとって、「荒れ野」とは、娘に裏切られ、半狂乱になって彷徨いながらも、「許しの境地へと覚醒」していく場所。
すなわち「ケルト」の「森」と同様「狂気」と「正気」、「現世」と「来世」、「人間界」と「魔界」、「人間」と「妖精」のマージナルする場所でもあり、「キリスト」は「荒れ野」で洗礼を受けたとも言われるから、それらメタファーが、ドビュッシーの中で、複雑に交じり合ったのではないか。
知識と感性の鋭いドビュッシーだからこそ、そこまでを見通していた可能性は有るのだと思う。

博学のドビュッシーが「オカルト」に傾倒していたという説があるが、それらしきものが見えてくる様相も、確かに感じることがある。

ドビュッシーは、一筋縄ではいかない音楽家で、~影響された、~インスパイヤーされた、~のオマージュ等などの記述が氾濫しているが、けっしてそんなに単純なものではないように思うことが多い。

葛飾北斎の富嶽三十六景 「神奈川沖浪裏」から大きな影響を受け、交響詩「海」がつくられた・・・などというまことしやかな流説が一時はやった例などは、その典型であろう。

ドビュッシーの音楽には緻密な計算と目論見があり、いろいろな仕掛けでそれを複雑にするから、正体を見破ることはきわめて困難である。
ドビュッシー自身、そのような仕掛けをすることで、ひそやかなる、「諧謔的楽しみ」を覚えていたのではあるまいかとさえ思われる。


舌を出しながら、ドビュッシーは天国で、こう言うかも知れない。


『私の音楽をわかってくれる人など、ほとんど存在しないんだよ。
だけど、わからなくても楽しめるようには作ったつもりだが・・・・
でも楽しむだけでは、私の本意に反しているのも事実。

世の中の人たちは私の音楽を「印象派」と規定するが、作品を作るきっかけや、中に盛り込んである音楽的仕掛けは、世の人が言うよりも、ずっと複雑なんだ。
何故って、考えてごらん
人間の思考や、感受性は唯一つのものからの影響だけで成り立つわけではないからだ。
音楽も同じこと。

私の作品を通じて世の中の様々なる事象を就いた意見していただければ、大変ありがたいことさ。』

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by noanoa1970 | 2007-05-09 07:45 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)