“Nous n'iron plus au bois”

いきなり仏語が登場したが、タイトルは、「もう森には行かない」という意味の言葉である。
「ボブ・ディラン」の「どこにも行けない」は、怪我の性だったが、「森に行かない」のは「いやな天気だから」・・・今日のように「雨降りだから」・・・とされることがあるこの正体は、「フランスの童謡」にあり、ドビュッシーは、死後発見された作品、「忘れられた映像」第3曲で、『もう森へは行かない”による諸相』
「Quelques aspects de “Nous n'iron plus au bois” parce qu'il fait un temps insupportable」を作り、後にそれを『版画』第3曲『雨の庭』に改作したといわれる。

「aspects」を「諸相」と訳し、邦題がついているが、「aspects」とは「時間の流れの中で、ある事柄が起き、続き、終わる、そのことの表わし方」であるから、これを「印象」「残像」「~想起されるもの」などといってもいいのかもしれない。
「諸相」では、余りにもレスコミュニケーションだろう。

それはさておき、問題の「フランス童謡」「もう森には行かない」とは一体どのようなことを歌っているのかが気になったので、調べてみると、それはどうやら日本で言うところの「通りゃんせ」や「縄跳び」のようなものに近くて、少女達が集ってこの歌を歌いながら、一人一人が1つのサークルの中に参加していき、好きな人にキスする・・・というようなもので、ある種の仲間を増やしていく遊びのための歌のようだ。

話のパターンはいくつもあるようだが、最後のフレーズは必ず以下のように締めくくられる。
そして話のパターンは主なものを揚げると以下のようになる。

・森のローリエ(月桂樹)を刈ってしまった
・森のローリエが枯れてしまうから順番に行って集めよう
・森に行って、「セミ」が寝ていたら、サヨナキドリの歌声が、聞こえて、「お目覚」 になるまで起こしてはいけません
・ナイチンゲールの歌声が聞こえて「お目覚」になり優しい声のウグイスも、一緒にや ってくるでしょう
・ジャンヌは羊飼い、白いカゴ持って、イチゴと野バラを摘みに行くところ
・セミよ、セミよ、歌ってください
 森のローリエがまた芽をだした

以上の主なパターンの最終部に必ず
「お入りなさい、見てごらん。
跳んだり跳ねたり、踊って、好きな人にキスなさい。」
という語句が歌われる。

恐らく長い間に歌詞の種類や内容は変形されていると思われるが、どうやら1駒ごとの最後には「お入りなさい・・・・キスなさい」という定型句がつくことは確かであろう。

他愛ない童謡であり、ドビュッシーが引用した理由はわからないが、この同様は相当古くからあり、そして恐らくドビュッシーの生きた年代においても、翼少女達が歌うのを耳にすることが出来たのであろう。

シャンソン歌手の「フランソワーズアルディ」も編曲はしているが「もう森には行かない」というアルバムの中で、歌っているから、現代においても懐かしい少女時代の遊び歌だったのかもしれない。

小生がこの童謡で着目したのは、
「ローリエ」を刈ってしまった。・・・だから「もう森には行かない」
ローリエが枯れて萎れてしまうから(その前に)ローリエを集めに「森に行こう」
と歌われることである。

「ローリエ」(月桂樹)によって象徴されるものを想像するに、それは非常に「大切なもの」と読むことが出来、「ローリエが刈られてしまった森には行かない」というローリエのある森とは、すなわち子供達にとって安心安全な・・・つまり「魔物」達の住む森から子供達を守ってくれる、強い力のある薬草・・ハーブだから、このハーブがあるうちは子供たちも、森に行き遊ぶことが出来るが、刈られて無くなりつつあるときには、魔物が怖く、守ってくれるものがいないから、「森には行かない」ということなのだろう。

このあたりに、古代ギリシャなどから受け継がれてきた「月桂冠」や「ハーブ」の「自然神」的な効用の歴史が見えてきそうで面白い。
キリスト教によって「悪魔」とされた古代ケルトやゲルマンの神々は、森の奥深く幽閉され、不用意に森を侵略したり、汚そうとするものに災いを及ぼす。
薬草は厄除けの働きをもするから、古代人達は腰にハーブをつけて、未開の土地に赴いた。

非キリスト教によって養生されてきた「薬草」の科学、信仰はキリスト教に引き継がれ、キリスト教以前の「魔除け」は、キリスト教によって、それを司ってきた、民族国家を「悪魔」とし、彼らが培ってきた魔除けの文化を、逆に彼らに利用したのである。

ドビュッシーの「雨の庭」、「春のロンド」を聞き、MIDIで童謡「もう森には行かない」を聞くと、やはりおいしく料理されていて、ドビュッシーの天分がうかがい知れるが、オリジナルらしき童謡を何度か聞くうちに、あるものを思いついた。

一つはこの童謡がブリテン諸島の伝統童謡歌「London bridge is falling down」、仏童歌「ARE YOU SLEEPING BROTHER JOHN?」との類似性についてであるが、この話はまたいずれすることにして、次に
この音型が何かに似ていると思って、いろいろ当たってみると、グレゴリオ聖歌のミサ曲第8番「天使ミサ」の「キリエ」ソックリの音型であることがわかり、思わず興奮を覚えたのである。

童謡「もう森には行かない」の譜例を示しておくことにする。
ドビュッシーの「雨の庭」「春のロンド」、「天使ミサ」の「キリエ」を聞き比べてみるとよくわかる。

管弦楽のための「映像」から「春のロンド」

対位法的感覚が鋭く、管楽器の表情をよく表出していて、色彩感のが強い「ロザンタール」盤・・ストラビンスキーを思わせるようなところを感じることがある。
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管弦楽のまとまりやバランス感覚に優れ、全体を見据えた中で、個々の音楽の特徴を際立たせた演奏の「クリュイタンス」盤
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童謡「もう森には行かない」の譜例
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この類似性はやはり、仏童謡「もう森には行かない」の源がグレゴリオ聖歌であったことを物語るのではないだろうか。
そして果たしてドビュッシーはそのことを知っていて、このモチーフを引用したのだろうか。

ウキペディア情報によると、ドビュッシーはこのモチーフを4つの楽曲に使用したという。
忘れられた映像より:「もう森へは行かないによる諸相」
版画より:「雨の庭」
管弦楽のための映像より:「春のロンド」
歌曲:「眠りの森の美女」

以上とされるが、「歌曲」と「諸相」は未確認である。
なにがそうさせたのか、なぜこのように「森には行かない」に拘泥したのか、このあたりは詳細な文献を紐解かなくてはならないだろうが、すくなくとも「グレゴリオ聖歌」・・・すなわち「教会旋法」が、古代ギリシャからローマを経てキリスト教文化に馴染むその変遷の一つの象徴として、「童謡」「もう森には行かない」を見ていただろうことを、そして単旋律であるがゆえに、「対位法」のドビュッシー的発展のよき素材となるであろうことを、想起したことが「音楽家ドビュッシー」から見えてくるような気がするのである。

ひょっとしたら、仏童歌「ARE YOU SLEEPING BROTHER JOHN?」も、ブリテン諸島の古い童謡、所謂「マザーグースの歌」の「ロンドン橋落ちた」という歴史的童歌の音型出自は、「森には行かない」のように、「グレゴリオ聖歌」の中のいずれかによるものかもしれない。

そして、「もう森には行かない」・・・その理由を「いやな天気だから」とする通説があるが、童謡から見えてくるのは、怖い森から子供達を守ってくれる「ローリエが刈り取られてしまったから」であることから、「いやな天気だから・・・」という語句は、ドビュッシー自身がつけた言葉で、・・・「いやな天気」だから、(ボブディランのように、どこにも行けないから・・・前のエントリーで少し触れた)童謡「もう森には行かない」から「aspects」された音楽を作った・・・という解釈があるのを発見したのだが、小生もこの解釈に賛成するものである。

森に行かない理由は「魔物が住んでいるからであり、行くときに身に着けるお守りのローリエ(月桂樹)が、刈り取られ、今はもう無くなってしまったからなのであろう事のほうが、「天気が悪いから森には行かない」と解釈するものより、随分とと説得力がある。

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by noanoa1970 | 2007-05-06 18:26 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)