たんぽぽ繋がりで、・・・

昨日作った「タンポポの酒」、少し足りなかった「ホワイトリカー」を継ぎ足して仕込み終了。
1970年代の半ば、小生はそれまでのホテル修行をやめて、OA機器の製造販売会社に転職した。
息子が生まれて半年の地に、およそ6ヶ月の研修をし、赤坂にある本社勤めが決定する地お富に、東京都保谷市に住まいを移すことになった。
西部池袋線で池袋まで行き、地下鉄丸の内線に乗り換えて、赤坂見附まで、およそ80分の通勤時間は、それまで過した地域では体験できない通勤地獄で、なれない間は会社につくとヘトヘトに疲れる毎日だった。

それでも会社の仲間のうちでは、通勤時間80分は、まだましな部類で、90分以上かけて通う連中がざらであったのには、「これが聞きしに及ぶ東京の通勤事情か」と、改めて認識を新たにした。
フレクスタイム制度が出来たのは、90年代のことであった。

大手写真フィルム会社と、米国に総元締めがあり、イギリスの企業と合併した「複写機」で有名な会社の合弁会社・・・外資が入っている会社であったが、経営はかなり日本的で、中途採用の人材を多く採用した時期だったから、「日興証券」、「高千穂バロース」、「オリベッティ」、等一流企業からの転職者や、地方の「郵便局」で配達をしていたもの、街頭で大声を張り上げる修行でひところ話題となった「ルーちゃん餃子」にいたもの、車のディラーにいたもの、そして小生のようにホテルにいたものなど、全色のジャンルを問わない採用姿勢が、置く戦力を期待していること、中途採用者に6ヶ月もの研修期間を設ける、社員研修教育の熱心なこと、すなわち人材を重視する企業姿勢はかなりうかがえる会社であった。

複写機がメイン商品であったその時代に、小生が同期2里とともに、配属になったのは「ビジネスシステム営業部」という直轄部隊。
通常なら全国の営業所に配属となり、会社相手に主力商品の「複写機」を販売する担当となるのだが、出来が悪かったのか、社内でもマイナーな存在の営業部門に配属となった。
おかげで赤坂の本社勤務となり、東京の中枢の地域で仕事をすることが出来たのだが、その話はまたいずれ・・・・

さて小生が東京に赴任して住んだ地が「保谷」。
この「保谷」というところは、関東ローム層の上にある武蔵野台地の土地で、駅前の道を挟んですぐが「練馬区」だった。
一度家に電話をしようと、道を渡ったところの公衆電話から電話をかけるが一向に通じない。
後にわかったことなのだが、練馬区の公衆電話から電話していたため、市外番号を回す必要のあることにまったく気づかなかったのだった。
大きくない道路の向かいが東京都練馬で、こちら側が保谷市であることをやがて知ることになるのである。

保谷と吉祥寺はそんなに遠くは無く、バスに乗れば30分ほどで、あの「吉祥寺」にいけることもわかり、その頃はまだ昔の面影を残している吉祥寺の商店街をよく散策したものだ。

風の強い日には、洗濯物がローム土埃で、真っ黒になることを除けば、保谷は静かな田舎、住居はまるで畑の中にあるかのようであった。
春には花々が咲き乱れ、野には「たんぽぽが咽ぶ」・・・ディランⅡの歌のような風景がそこにあった。
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「武蔵野たんぽぽ団」は、吉祥寺を根城としたが、保谷のほうがより似合いそうな雰囲気があった。
メンバーの「シバ」が、(我が家の愛犬柴犬の名前は、芝居犬・・・1歳まで楽屋で飼われていたことから、と柴犬、そして武蔵野たんぽぽ団のシバから取ったもの)
貧乏生活を送っていたときに、公園に生えていた「たんぽぽ」を食べて空腹を満たしたという伝説からのネーミングとされるが、1970年代半ばなら、武蔵野台地には、まだたくさんのタンポポを見ることが出来たことだろう。

「たんぽぽ」からの繋がりで、今日は「武蔵野たんぽぽ団」の「武蔵野たんぽぽ団の伝説」を聞いてみた。
「高田渡」、「若林純夫」、「いとうたかお」、「シバ」、「友部正人」、「なぎら健壱」、「佐藤GWAN博」、「林ヒロシ」、「林亭」(佐久間順平・大江田信)、「山本コータロー」、「中川イサト」等が入れ替わり自由参加。
中津川フォークジャンボリーで、「ジャグ・バンド」武蔵野たんぽぽ団を編成「吉祥寺フォーク」の第一人者的存在になったバンドで、彼ら自身の録音は、2つしかのこされていない。
しかし高田渡のバック演奏としても活躍した。

高田さん若林さんはすでにお亡くなりになってしまった。
英語の歌詞を日本語に訳したものを歌うのには非凡さが見える。

「若林」の「サンフランシスコベイブルース」「いとうたかお」の「明日はきっと」再び「若林」の「その朝」=「永遠の絆」は加川良の邦訳を歌ったもので、見事な歌いっぷりが光る。
「長屋の路地」は「木山 捷平」の詩に高田渡が米国の民謡をつけたもの。
「シバ」の「もしも」の、幻滅するこの世界に対する空想物語も、時代を反映するとともに、共感を得るところ多し。

途中、高田やメンバーが「岬めぐり」の「ソルティシュガー」を解散した山本コータローを、イジルのが面白い。
高田は、「あんなもの要らない」・・・と、よく公衆の面前で、山本コータローのことを言っていたが、本気か冗談かは、いまだにわからない。

つまりは、「ジャムセッション風」の、このアルバムの全てが「下手であるが素晴らしく良い」という結論になるのであった。

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by noanoa1970 | 2007-04-25 16:05 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

Commented by drac-ob at 2007-04-25 21:54 x
武蔵野タンポポ団の話も懐かしかったですが、保谷の話はまた一段と懐かしかったです。保谷に行くはずが豊島園に着いてしまい青ざめて駅員に道を聞いたのがつい昨日のようです。大勝軒のラーメンも食べたし、「いせや」で焼き鳥も食べたし、今思えば夢のような2ヶ月でした。あの時買ったCDや本を一度整理してブログにアップしてみるつもりです。しかしコータローは宮崎の都井岬をモデルに「岬めぐり」を作ったので、あまり悪く言いたくないのですが、どうにも「偽善者」ぽくて好きになれません。
Commented by sawyer at 2007-04-26 08:23 x
>しかしコータローは宮崎の都井岬をモデルに「岬めぐり」を作ったので、あまり悪く言いたくないのですが、どうにも「偽善者」ぽくて好きになれません。
高田が子とあるごとに、コータローをいじったのは、そんな雰囲気を感じていたからなのでしょうか?ところで、「岬めぐり」の舞台、てっきり北海道だと思い込んでいました。1970年の秋北海道一週のたびをしたときに、YHで流行っていたのが「旅の終わり」という曲。小生はYHのミーティングで「風船の」「母の生まれた町」を歌っていたことを思い出しました。当時はギターを弾きながら歌っていると、女の子がいつの間にか集ってくる、そんな状況が北海道の旅にはありました。