ドビュッシーのアメリカ
先日起きた地震で思わぬ拾い物をした。
半年以上行方不明となっていた「ジャン ピエール アルマンゴウ」が弾くプレルードの全集盤だ。「ARTS]レーベルの優秀盤で、「ギーゼキング」「サンソン・フランソワ」以上に、聞いていたもので、あきらめていたのだったが、棚の隅に追い込まれていたのだろう。
崩れ落ちた中にあったのを発見したのは喜ばしいことであった。
「NOVA友」ならぬ「猫友」の「てつわんこ」氏が、ちょうどプレリュード一集、12曲についてエントリーしていたこともあって、再発見した録音を改め、聴きなおしてみることにした。
「デルボイ・・・」および「亜麻色・・・」については、少しばかり角度の違う視点よりのエントリー先にしたが、11曲と12曲・・・最後の2曲について、書き置いてみたいと思う。
12曲、「ミンストレル」は、「てつわんこ」氏ご指摘の「ミンストレルショー」からの音楽的印象を表出したことは、ほぼ間違いの無いことであろう。
さてこの「ミンストレルショー」とは一体どのようなものだったのであろう。
「ボードビリアン」「タップダンス」「黒人の真似をした白人」「黒人そのもの」それらのキーワードで語られることが多いが、「タップダンス」のルーツは、アイルランド人の踊りで、それが移民とともに、アメリカに入って、当初は「木靴」で、音を立てながら踊る様は、今でもアイルランドの「リバーダンス」やブルーグラスで「ビルモンロー」がフィドルなどをバックに愉快に踊る様は映像で見ることが出来る。
このように、ミンストレルショーで見られる、タップの起源は、イギリスの伝統的なクロッグダンスとアイルランドのジグダンスが、移民とともにアメリカに渡り、黒人部族の音楽リズムが融合したものであるといえる。
1828年にはこれらのダンスを取り入れた最初のミンストレルショウ(白人が顔を黒く塗り黒人のまねたショウ)が行われたとの記述もある。
興味深い記述として
『1800年代の後半には黒人ダンサーもミンストレルショーに加わり、バラエティに富んだショウは、当時、アメリカの最もポピュラーなエンターテイメントであった。その大切なツールであるダンスシューズは、木靴を履いて踊る"buck-and-wing"とあまり音のならない革靴で踊る"soft-shoe"の2つに分かれていたが、その後、それらは徐々に融合し1920年代に革靴底のつま先と踵に金属製のチップを取り付けたタップシューズが誕生したと言われている。』
当初、白人による黒人差別的な雰囲気のあったミンストレルショーに、やがては黒人そのものが参入したということは注目である。
「ビル・ロビンソン」やタップの父と言われた「ジョン・バブルス」は黒人タップダンサーとして知られるところ。
「フレッド・アステア」、「ジーン・ケリー」など白人のハリウッドスターも跡に続くことになる。
小生が好きな「ジェリー・ジェフ・ウォーカー」というアウトロウの歌い手が作った「Mr. Bojangles」は、「NGDB」がカバーし「アンクル・チャーリーと愛犬テディ」というアルバムに収録し、 大ヒットしたことをご存知の方も多いと思う。
歌詞の中に、ボードビリアン、ミンストレルショー、タップダンスというキーワードが出てくるので、紹介しておく。
参考までに、ジャケットの写真を添付した。ここでは「ジェリー」自身が黒人に扮しててミンストレルショーに出演する様子を写している。
「ミスター・ボージャングルス」
ボージャングルという男を知っていた
擦り切れた靴をはきダンスを踊ってくれる
白髪頭でくたびれたシャツにダボダボのパンツ
それにあの古ぼけたはき心地のよい靴で
彼は高く跳んだよ とても高くね
そうして軽やかに着地したもんだ
ミンストレル・ショーやフェアーで踊って
南部中を回ってきた
15年間 彼と彼の愛犬が
どんな旅をしてきたかを
涙ながらに話してくれた
その犬は年老いて死んでしまった
そう、年老いて死んでしまった
20年も昔のことなのに
今もまだ悲しいんだそうだ
「いまも機会があれば 酒とチップを目当てに
安キャバレーで踊るんだ」と彼は言う
「でも今は こんな田舎のムショ暮らしさ
ちっとばかし飲み過ぎるんでね」
タップダンスは、アフリカ=黒人の音楽リズムが、アイルランド伝統の木靴ダンスと、米国南部で結びつき、やがて靴底に、金属の「タップ」を貼り付け、あのタカタカという独特の音を踊りながら出す音楽である。
そして、タップダンスのダンスシューズは、木靴を履いて踊る"buck-and-wing"とあまり音のならない革靴で踊る"soft-shoe"の2つに分かれていたが、その後、それらは徐々に融合し1920年代に革靴底のつま先と踵に金属製のチップを取り付けたタップシューズが誕生したと言われている。
「ボージャングルス」は、恐らく"soft-shoe"のタップダンサーであったのだろう。
ミンストレルショーはタップダンサーやボードビリアンなどが寄せ合って成り立つ、見世物で当時の米国随一のエンタメであったというあったという事から、この旅芸人一派が海を越えてヨーロッパにもわたって活動したことは、大いに推測可能なこと。
フランスのカフェや酒場、あるいはイベントなどに出演していたのをドビュッシーは見たのだろうか。
「ミンストレル」のほかに、「ゴリウォークのケイクウォーク」「風変わりなラヴィーヌ将軍」も、ミンストレルショーのボードビリアン音楽からの発想かもしれない。
・・・・・・・11曲「パックの踊り」に続く
by noanoa1970 | 2007-04-21 12:59 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)