サティ、ドビュッシーと古代ギリシャ音楽

エリック・サティが1888年に作曲した「3つのジムンオペティ」を聞いた。

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次にそれをドビュッシーが1895年ごろに1曲目と3曲目を管弦楽に編曲したものを、久しぶりに「ルイ・オーリアコンブ」指揮、パリ音楽院管弦楽団の演奏でも聞いてみた。
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オリジナルのピアノも、管弦楽編曲のものも、なかなかのもの。
特に管弦楽編曲の3番、ドビュッシーが、ハープと鳴り物を入れての編曲は、この曲の素性を示すものと思われるようなできばえである。

さて「ジムノペティ」とは、古代ギリシャの・・・正確には、古代スパルタの祭りの名称で、ギリシャ語ではγυμνοπαιδιαι(gymnopaidiai)。
ギュムノパイディアイ=gymnosは「裸の」、paisは「少年」という意味で、裸体の少年が踊ったり運動をしたりする祭りである。・・・という説があり。
サティは、この光景が描かれた「壷」を美術館で見て、「本来激しい踊りであるのを、ユックリした、厳かな音楽へと変身させた」という記述もある。

また、左手の反復するリズムは、古代ギリシャの詩の韻律の一種イアンボス・トリメトロスを模倣したもので、音節の長短を組み合わせてリズムが構成された、ギリシャ悲劇での対話の部分はすべてこのイアンボス・トリメトロスの韻律だとも言う。

確かに古代ギリシャにおいて「詩」の位置づけは重要で、小生は「シューベルト」の作品における「詩と音楽」を、そしてシューベルトの音楽的特長を、古代ギリシャの「詩」の韻律と関連があるのではないかというエントリーをかつてしたことがある。
「長・短・短」というシューベルトの音楽的特長は、いたるところ・・・「グレート交響曲」のホルンの出だし、「死と乙女」冒頭、「未完成交響曲」第1.2主題等など、シューベルト以前では余り使われなかった「長・短・短」は、シューベルトに至って満開となるのである。

サティの場合は、シューベルトの「長・短・短」では無く、ギリシャ悲劇詩の韻律「短・長・短・長」を採用したことはこの「ジムノペティ」のピアノの左手の伴奏を聴けば一目瞭然であろう。

面白い記述があるのを発見した。
それは以下のようである。

>『1892年、WeilとReinachが、アポロンの聖地デルポイにあるアテナイ人の宝庫跡で大理石に刻まれていた音楽の断片を発見した。
デルポイでは、オリュンピア祭に次いで重要なピュティア祭が開かれ、アポロンを讃える歌が競演されたが、これらの曲はそこで賞を得たものらしい。
前138年ころの作。


『アテナイ人リメニオスが前128年ころ作曲し、ピュティア祭で歌われたもの。現存する40行は、定型にしたがい、まず、アポロンのことを歌うようムーサ神に呼びかけ、大蛇射殺などのアポロンの事績を叙述し、最後に、アポロン、その妹アルテミス、その母ラトナにローマの支配権の永続を祈って終わる。』

・・・・これら2つは「デルポイで発見された二つのアポロンの讃歌」として世に知れることとなったのだが、それを知っている一般人はいないであろう。

発見の年に着目すると1892年、そして発見場所が「デルポイ」=「デルフォイ」・・・すなわち「アポロンを祭る祭殿」の有る地で、かのドビュッシーはピアノ前奏曲集の最初に、「デルフォイの舞姫」という曲を書いた。

>『古代ギリシアの音楽は、詩とともに、総合芸術ともいうべき悲劇や喜劇の構成要素であって、これらはみな市民的な祭事・祭典の行事として、ポリスの管理のもとに行われたのである。特に多数の都市国家が参加するオリュンピア、ピュティア(デルポイ)、ネメア、イストミア(コリントス)などの競技には、体技とともに、必ず音楽の競演(agon)が行われ、その賞を得るのは高い名誉であった。』

・・・上記の、卓越した古代ギリシャの音楽・芸術の需要状況を指摘する記述は、大いに参考になるところが多いので、紹介しておく。

再びサティ・ドビュッシーの「ジムノペティ」そしてドビュッシーの「デルフォイの舞姫」について触れる必要がある。
サティの「ジムノペティ」作曲の経緯については、

・古代ギリシャの美術品の中に描かれたものからの想起。
・裸体の男児が踊る姿を「本来は激しい踊りであるのに、サティがそれを、静かなるものと取り違えて、あのジムノペティのように、静的、聖的、宗教的風に仕上げてしまった。

このような解説文を見かけることが多いが、これは小生には納得できかねるところである。サティはジムノペティを美術館で見たことは間違いの無いところではあるけれど、よく言われるように、絵画や美術品を見て「インスパイヤされて作曲」などという、短絡的な記述を見かける(小生も使ってしまうことがあるが)が、これらの表現は「とんでもないこと」で、しかも「何も語ってはいないこと」であると、小生は思っている。

それらは曲作りのきっかけとはなったであろうが、曲想とは必ずしも一致しないことが多いから、「絵画などによって、インスピレーションを呼び起こされた」という表現には要注意で、この言葉にひっかかってはけない。

WeilとReinachが1892年に発見した「デルポイで発見された二つのアポロンの讃歌」を、ジムノペティを作った1988年サティは知らなかったが、1883年、Ramseyが小アジアのレストランの石柱に刻まれているのを発見した最も魅力のある「Seikilosの歌」の存在を知っていた可能性が有る。

ギリシャで韻律とともに発達してきた、幾多のモード=旋法について学習したサティが、Ramsey発見の「Seikilosの歌」の存在と、その音楽的内容を知らなかったはずが無い。
「Greek Music」というサイトに30篇のMIDIがあるので、興味ある方は聞いてみて下さい。
中にある下の2つに注目すると面白いと思われる。
・Athenaios, Paian128 BCInscription from Delphi. Missing notes supplied by the author of this page.
・Limenios, Paian and processional128 BCInscription from Delphi, fragmentary

さらにジムノペティとの類似性を指摘できるものが、存在していることにも注目したいところである。
下降する音型がギリシャ音楽・・・旋法の「賛歌」における特徴という指摘も有るのにも注目したい。
ドビュッシーの「デルフォイの舞姫」との類似性も、見えそうである。

そして
ジムノペティの語源「裸で踊る少年」とドビュッシーのデルフォイの「舞姫」の関連性にも、そしてドビュッシーが「デルフォイの舞姫」を作り、サティの「ジムノペティ」を管弦楽に編曲した意図も、何かしら透けて見えてくるような気がするのである。

ギリシャの都市国家=ポリスにおいては、神々への畏敬の念を、神殿に祭る神々の前で、市民が集う中、詩の朗読、音楽、そしてスポーツ競技が行われたという。
神々への供養とともに、市民の娯楽でもあり、参加するものの帆頃でもあるこのような催しは、きっとポリスの市民達の生活の一部となっていたと思われるのである。

アポロンを祭るデルフォイの神殿の広場には、こうした文化芸術、スポーツの祭典が行われ、音楽はそれらと密接なかかわりを持つことになる。
それは神への供養であり、集うものたちへのサービスであり、参加する者たちへの鼓舞でもあった。
神への供養と祈りには、歌と踊りを伴い、それらの時期からそれはソフティスケイトされた、ある種の「儀式」となっていったのでは無かろうか。

「リラ」が奏でる音楽に合わせて歌い踊るもの・・・その中には「美少年の集団」・・・(一説に、ギリシャでは「衆道」が盛んであったという)・・・もいれば、美少女達の踊りも有ったに違いない。
それらは「儀式」の一環として祭典の前後に施されたと考えられないことは無い。

「ジムノペティ」も「デルフォイの舞姫」も静かで、少し荘厳な趣のある楽想。
自らの音楽語法を探るべく、サティもドビュッシーも「新しき音」を追求するに当たり、ギリシャの旋法に目を向けたことは想像にたやすい。

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WeilとReinachそしてRamsey達が発見した「アポロン賛歌」そして「Seikilosの歌」のインパクトたるや、サティやドビュッシーにとっては恐らく歴史的な音楽的大遺産であったことだろう。

サティ、そしてドビュッシーがそれらの大いなる遺産を参考にし、自曲に取り込んだことは想像に難くは無い。
「デルフォイの舞姫」を「巫女」であるなどして、神がかりでトランス状態になり、神々の神託を受ける役目等の記述を見かけることがあるが、恐山の巫女や卑弥呼ではあるまいし、政治文化両方にわたって近代国家といっても決して過言ではない古代ギリシャの都市国家では、そのような呪術的な信仰の痕跡は無いから、思わず失笑してしまう。

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by noanoa1970 | 2007-04-15 10:18 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)