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予想に反して◎のモーツァルト

モーツァルトを演奏することは、「簡単であるが難しい」。
それは例えるならば、「蕎麦」打ちにも似ているように思われる。
ここ10年ほどの間に、ある種中高年のブームとなった「男の料理」の中で、蕎麦好きがこぞって「蕎麦打ち」をやりだしたことがあった。
それまでは一流の蕎麦職人にしか美味い蕎麦は打てないと決められていたようなところがあったから、それまで料理の料の字も知らない、厨房に入ったことも無く、学生時代にインスタントラーメンを作った経験しかない男でも、少し鍛錬すれば、そこいらのそば屋で食べる・・・プロのそば屋が作ったものより数段おいしいものにありつけることがわかり、それをネタにしたハウツー本や体験談が世に出て、NHKで趣味の時間に「蕎麦打ち」が登場するにいたって、わが国の素人蕎麦職人人口は急激に増加したと思われる。素人蕎麦職人の技術コンテストさえ存在しているほどの世の中になったのであった。
しかしこの現象を少し分析的に見ると、片方では自然、有機栽培、健康などというキーワードが見え、片方では食への拘り世代の増加があり、もう片方では食文化への能動的取り組み症候群的欲求がある。
それはとりもなおさず「ファストフード」から「スローフード」への意識的、無意識的価値観の転換の仕掛けとともに出現したように小生は思っている。
そんな先達が団塊の世代の日と回るイ先輩によって始まり、いまや定年を控える段階の世代で華々しく咲こうとしている感もある。

事実「蕎麦打ち」は決して難しくは無く、独学でも十分おいしい蕎麦を打つことは可能である。それに蕎麦打ちの道具を入手しなければ打てないことも決して無い。
ただいえるのは品質の良い蕎麦、蕎麦粉をいかにして入手するかで、意外とこれが困難を極めることになる。

これさえ確保できれば、手打ち蕎麦屋と銘打つプロの蕎麦屋の蕎麦と比較しても勝るとは劣らない蕎麦にありつくことが可能である。(勿論少しの蕎麦打ち技術習得の上で)

素人蕎麦職人は「蕎麦打ち」だけにこだわっているわけでなく、「そばつゆ」にも拘りを見せ、醤油はどこそこ、昆布、鰹節どこ産の厚削りもの、水は〇〇山麓の伏流水や湧き水などなど、そのこだわりは果てしない・・・・果てしないといってもたかが「蕎麦」の範疇を超えないから、いずれも素人の・・・・逆に言えば、素人が十分手を差し伸べられる範疇に有ることになるから、その世界に入った人を小生も何人か知っている。そしてその中で数人が素人からプロの蕎麦職人となって開業した。

さて、モーツァルトと蕎麦にどのような関係があるのか・・・ここから話がまたもややこしくなるのだが、もう一度「簡単だが難しい」と最初に言ったことを思い出していただきたい。

素人転じて蕎麦屋となった2つのお店の話をすることになるが、少々我慢していただきたい。
その蕎麦屋はまだ40前の若い主人と奥さんが2人で、物流倉庫を美味く改造して概観と中では趣のガラリと変わった洒落た感じの店で、国産の蕎麦粉を使って100%で打つことを売り物にして、新しく開店した蕎麦屋だった。
開店数ヵ月後に行くことになって、蕎麦を注文し、待つことしばし出てきた蕎麦は切り口も程よく、やや細身の暗緑色の引きぐるみの蕎麦。
若い奥さんが丁寧に運んで来た、小生は最初に「そばつゆ」を少し味わうのを常としているから、その店でもそのようにするために、蕎麦猪口を口に運ぼうとした瞬間、蕎麦猪口の吸い口が少しだが逆三角に欠けているのに気がついた。
器は新しいものだから、恐らく洗浄時に器同士が触れ合って縁を欠いてしまったと推察された。
小さな欠けであったが、注意していれば・・・そばつゆを入れるときに、そしてデシャップから客席に給仕するときに気がつくはずのものと判断されたから、そばつゆも蕎麦も・・・・店主のこだわりの成果もどこかに消えうせてしまい、そばつゆを一口すすっただけで席を立ち、会計で対応した店の主人にそのことを指摘した。

この店も、素人出の蕎麦職人に割りと多い、「蕎麦打ち玄人オーナーシェフ失格」の典型かと、ひどくがっかりして帰ったことがあった。
世の中には、料理に対してこんな気遣いも出来無い、にわかプロが多い・・・特に蕎麦屋に顕著のように思うのは小生だけであろうか。

もう一つの蕎麦屋は定年退職し、田舎に引っ越してきて、古い民家を借りて、現役時代から趣味でやってきた蕎麦を中心とした料理をやっている店である。
主人は茨城県金砂郷出身で、幼いときから祖母や母親が打つ蕎麦や蕎麦掻を食べて育ち、その懐かしい思いから蕎麦打ちを鍛錬し、今に至った男である。
あるとき、いつも通る田舎道に、ひっそりと看板が出ていたので、探したが見つからずに時が流れ、偶然入った喫茶店の店主がその蕎麦屋に民家を貸していることを知って、場所を教えてもらってたどりついた店であった。

築100年以上たっていると思われる古民家、土間をあがると2間続きの部屋を客席にしていて、古そうな民具や掛け軸、大きな屏風が有し、ヒバついには隅がくべられ、鉄瓶からお湯が音を立てながら沸いている。
驚いたのはBGMにオスカーピーターソントリオのJAZZが流れていて、主人はJAZZをも趣味にしていて、ベースをやっていたという。

さらに驚いたのは、蕎麦を盛り付けた器と猪口。
古伊万里・・・・(幕末か明治期の)を使っていたので店主に聞くと、借りている民家には蔵があって、その中のものを使ってくれて良いと、大家さんが言うので使っていると・・・・
なんという贅沢だろう。JAZZが流れ、古い伊万里で蕎麦を食べることが出来る店など、どこを探してもありはしない。しかもこの店の主人はそんな凄いことをまったく自然に受け止めているから、これにも相当な驚きであった。

都会では「付加価値」となって大いに言いたがる、素材についても、水についても、器についても、関心が無いのかと思うくらい無頓着。
凄いことをさりげなくやる蕎麦屋であった。
ただ一点、古伊万里の皿の盛られた蕎麦の下に、お決まりのように竹の網が敷かれていたから、古伊万里好きの小生いてもたってもいられなく、店の主人に「せっかくの古伊万里の見込み(皿の中の絵付け)が見えないから、蕎麦を食べるにつれそれが見えてくるというのが良いんじゃないか、と言ってみた。

「蕎麦の水切りをしなくてはいけないから」などと理屈を言うのが通常だと思うのだが、店主は「そうですね、そのほうがいいですね」「良く水を切って盛ればすむことですから」そういって、すぐに竹の敷物を撤去したのだった。

なかなかの人物と思いながら、JAZZの話でもひとしきり、親しくなった来た時にはこの亭主の料理の奥深さを大観するところとなった。
この地方の山野の珍味・・・「アマゴの一夜干し」「野鳥の串焼き」「珍しいキノコの料理」「イノシシ、鹿などのジビエ」に至るまで提供することが出来る趣味人であることを知った。
あるときには「津軽三味線太棹で味わう蕎麦の会」に発展したし、チェロをやりたいから、誰か紹介してほしいなどの問い合わせももらったことがある。

さて素人蕎麦屋の例を、長々と2つ挙げてきたのだが、「料理」というものに向き合う姿勢が根本的に違う事実がそこに隠されていることを、お気づきになっていただきたい一心からであることをお許し願いたい。

こんなはずではなくもっと早くギレリスとコンヴィチュニーのモーツァルトに触れる予定であったが、長くなったので、本日はこれまで・・・・

ほんの一つの些細なことが欠如しているだけで、それが大きな瑕疵となってしまうことの怖さに気がついているか、いないのかには、雲泥の差があるのである。
モーツァルト演奏の簡単さと難しさは、その1点にあるのではあるまいか・・・・・
それではモーツァルト演奏で、「些細な(に思われる)こと」とは一体何であろうか。
そのあたりに言及できればいいのだが・・・・どうなることやら。

近いうちに、彼らのモーツァルト演奏についてアップするつもりでいます。

・・・さらに続く

by noanoa1970 | 2007-04-10 12:03 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)