世界は、深くゆっくりと暖かな呼吸をしていた。
桜が満開だ。
しかし地面には今年も「たんぽぽ」が顔をのぞかせている。
小生はなぜか「緑と黄色」の取り合わせが好きで、「山吹」、散歩中に見つけたがたわわに生る「柑子」の木(みかんではなくこの表現が良い)、あるとき「レモントリー」を発見したときには心が躍るほどだった。
どうも、これは少年時代「みかん山」を遊び場にしていて、収穫を見逃して残された「蜜柑」を探しては食べた経験があるからであろうと思っている。
この時代、少年達はいつもお腹が空いていて、仲間と一緒になって「何か食べるものは無いか」と、いつも食べ物にありつく惨澹をしていたのだった。
後に、兼好法師の「徒然草」の来栖野の柑子の木の章を読んだとき、その意を解釈するより、たわわに生る柑子の「緑と黄色」の色彩と、甘酸っぱい香りのイメージで頭がいっぱいだった覚えある。
「西洋たんぽぽ」全盛ではあるが、ソロソロあたり一面、たんぽぽが咲き出す頃となったことは喜ばしいことだ。
「たんぽぽ」で思い浮かぶのは、以前エントリーした「たんぽぽ咽ぶ春の野原・・・」
ディランⅡの歌であったが、今日は「タンポポのお酒」だ。
「タンポポのお酒」で昔読んだ「ブラッドベリ」のSF小説・・・・といってもこの話の内容はSFというより、「過ぎ去った時の流れを、今に留め置く」ような、かなり叙情的なものであったと記憶している。
1960年代後半に順次20巻ほど出版された「世界SF全集」という分厚い単行本を集めだしたのだが、8冊手にしただけで、後が続かなかった。
「ヴォクト」「ウインダム」「ウエルズ」「オールディス」「クラーク」「ハインライン」「バラード」「レム」「ベリャーエフ」は今も手元に残っている。
特に「フレッド・ホイル」の「10月1日では遅すぎる」は、現代音楽作曲家が登場するシテュエーションで、ギリシャ・ローマの旋法との作曲法上の絡みが面白かった。
ブラッドベリは以下の主な作品があることは知っていたが、いずれも未読だ。
「十月はたそがれの国」はタイトルに引かれるものがあり、「ウ」と「ス」のいかにもユーモラスなそれに心惹かれるものがあったが、どうしてだろう、読んではいない。
その中にあって、「たんぽぽのお酒」だけはブラッドベリの作品で唯一読んだもの・・・いかしその内容といえば、余りにも時が流れ過ぎてしまったのか、ほとんどそのイメージしか残っていない。
「スタンド バイ ミー」のようにも、テネシー州の小都市ノックスビル(メンフィスの近郊)での子供の頃の思い出を語った「ジェイムズ・エイジー」の散文詩(A death in the familyという題の本にある)にバーバーが音楽をつけた曲「ノックスヴィル:1915年の夏」のような印象をも持つ。
・火星年代記
・十月はたそがれの国
・ウは宇宙船のウ
・スは宇宙のス
ブラッドベリのSF小説と同じ題名の曲1970年代半ばに登場た、知る人ぞ知る・・・
余りメジャーとはいえない所謂日本のフォークといわれてきたジャンルの歌。
作者自身「佐藤(GWAN)博」が歌ったもの。
1980年代後半に小生がとりこになった「フライフィッシング」・・・フライマンのバイブル本の一つ、リチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』を翻訳した「藤本和子 」がブラッドベリの小説からインスパイヤされて作った詩に佐藤が曲をつけたのが「タンポポのお酒」である。
詩も曲も所謂フォークというものを超越しているようで、とてもシュールで叙情的である。
「1975ホーボーズコンサート」には高田渡など、錚々たるメンバーが登場していていずれも味のある歌を聞かせるが、中でも佐藤博の「直ちゃん」と「タンポポのお酒」は飛びぬけてよい。
70年代半ば、「6年2組は・・・・」というNHK少年ドラマの挿入歌として「タンポポのお酒」が使われたというから、記憶の有る諸氏もおられるかもしれない。
「タンポポのお酒」は、ほろ苦い青春の味がするのだろうか・・・・
藤本和子 作詞
佐藤(GWAN)博 作曲・歌
「タンポポのお酒」
野に咲くライオンの誇り
きらめくタンポポの花
遠くの氷売り
小麦畑のにおい
あたたかい雨だれ落ちて
お酒になるたんぽぽ
冬の地下室に
6月の冒険
たんぽぽのお酒
溶けた太陽の涙
きらめく黄金の花びら
谷間の町の中
黒い稲妻
今見つけたほてりと
森の暗闇
雪は降りしきる
輝いて燃える
タンポポのお酒
by noanoa1970 | 2007-04-05 09:45 | 季節の栞 | Comments(2)