50年前・・・・

正確には52年前の1955年、小生は小学校に入学した。
生まれは実家の、当時愛知県愛知郡鳴海町字宿地というところで、今の名古屋氏緑区という簡素な住宅地であった。
東海道五十三次の鳴海宿であるから、歩いて数分のところにある商店街の通りが、旧東海道で、宿地とは恐らく昔本陣などがあった地区であると考えられる。
鳴海という名前どおり昔は旧東海道あたりまで海が迫っていたのだろう。
汐田という地名が、今は国道1号線のすぐ南に存在する。1号線と、旧東海道の距離は、最も接近したところでは、わずか300mほどである。

小生が生まれたころ、6人兄弟の長男である小生の父親は、それまでの家系が役人あるいは教師ばかりであったのに、民間の会社に勤めることになって、その頃から隆盛の兆しを見せつつあった「トヨタ自動車」等の業界を支える「鉄鋼」の製造会社「A製鋼」に』就職していた。

A製鋼は今の東海市にあり、現在すぐ隣にはS日鉄も進出しているところだが、当時は海岸を埋め立てたところに会社があり、会社の脇で海水浴駕でき、牡蠣や蝦蛄が取れルほどの環境であった。

父親は就職して結婚すると、会社の近くの農家の離れを借りてすんだ。小生を出産するために母親ともに、実家にしばらく滞在したのだろう。
長い坂道を下って、海岸のほうにしばらく行くと、両脇に大きな(奈良の大仏よりも大きい)大仏さんと弘法太師が山裾に見えた。

小生はその地の保育園にいくことになり、やがて小学校に入学するのであるが、その小学校が「平州小学校」である。

「平州」とはあの「細井平州」・・・・『江戸時代の儒学者で、米沢藩中興の祖と言われる上杉鷹山の師。享保13年、尾張国知多郡平島村に農家に生まれた。鷹山は、平州の教えを実行して、人づくりを通して農業や産業を振興し、窮乏を極めていた藩財政を一代で立て直し、名君とうたわれた。平州と鷹山の終生かわらぬ師弟の交わりは、現在も語り継がれている。』

平州の以下のような言葉は、彼が農家の出身であることを思わせるところがあって、得意稀な合理的精神の持ち主であったことをうかがわせるものと思う。。

「平生躬行正しと申す内にも生まれつき窮屈片気なる人は人の師には致し難し。人の子を教育するは菊好きの菊を作る様にはすまじく、百姓の菜大根をつくる様にすべきこと。百姓の菜大根を作るには一本一株も大切にし、上出来も、へぼも、よきも、わるきも、食用にたてること。知愚、才不才、それぞれ畢竟よき人にさえできれば宜し。」

小生は平州小学校の名のいわれを、そして平州の偉業を何かにつけて聞かされてきた。当時の小学校では、並み居る先生達が、ことあるごとに平州を賞賛し、平州
のような人間になれ!とばかりに、あらゆる行事で、あらゆる場所で言っていたような記憶がある。

小生はこの小学校には3年と4ヶ月しかいなかった。
父親の転勤で、(知多の田舎から見れば)大都市名古屋でも有数の文教地区、東山動物園の近くにある東山小学校に転校することになったからである。

ここからが本日の話題であるのだが・・・・
昨日フトあるメロディーが浮かんだ。それはかなりハッキリしていて、遠い日に聞いたメロディーであったような記憶があったので、その正体を必死に思い出そうとするのだが、思い当たるものはあるのだが、いずれも明確な答えは得られなかった。

それでもどうやら「校歌」らしいと推測し、記憶にあるものを探っていると、予想に反し、それは小学校3年生まで通った「平州小学校」の校歌であることが判明した。
最初はこのメロディーを、高等学校の校歌だろうと思ったのだったが、(今考えると、かなり似通ってはいた)意に反して50年以上も前に通った小学校のそれであった。

歌詞は・・・・
「丘はなだらか、野は広い・・・・」までがやっとであるが、なぜかメロディーは全て覚えていた。
つい懐かしくなってHPで探してみると、わが思い出の「平州小学校」は今も健在で、HPには校歌が記載されていたので、早速コピーしておくことにした。

小学校3年間で校歌を何回歌ったのか・・・恐らくそんなに多くの数ではないと思うし、音楽の時間に「国歌」同様、教えてもらった記憶も無く、自然に覚えたと思うのだが、覚えやすいメロディーであるとはいえ、よく全てのメロディーを今なお覚えていたものだと、われながら感心した。

ちなみに、東山小学校や、中学校の校歌は、残念ながら、そのメロディーをほとんど覚えていない。それに比べて高等学校の校歌と、「平州小学校」の校歌は、よく覚えている。
2つの校歌が似たところがあるせいなのか、幼いときの記憶が鮮明なのか、平州の逸話と供に校歌を歌う機会が多かったのか・・・その要因が良く分からないのだが、50年以上前のメロディーをハッキリ覚えていたことは事実であったから、これには少々ビックリしたのであった。

小生の名前は祖父が命名したと聞いている。「上杉鷹山」の「鷹山」はいわばニックネームで、本名は「治憲」・・・つまり「上杉治憲」で、小生の名前と同じである。
「細井平州」の地で過すことになる小生と、平州が「鷹山」=「治憲」の師であることを、祖父が知っていて、小生にこの名前をつけたのか、この年が日本国憲法施行の年に近かったせいなのか、それとも他の理由だったか、今となっては分からないのだが、ともかく小生の名前の由来にも迫れるような思いがして、有意義な時を過すことが出来たことに感謝するとともに、近いうちにその場所を訪問しようと決めることにした。

ちなみに、平洲が1749年に興した「明倫堂」という塾の初代督学(校長)が細井平洲。
1782年徳川宗睦が再興し1783年開校されたのが 現・愛知県立明和高等学校である。

「平州小学校」
愛知県東海市荒尾町片坂1番地
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by noanoa1970 | 2007-03-02 11:09 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)