タンホイザー雑感

ワーグナーの初期の作品に、有名な「タンホイザー」というオペラがある。
来年「東京オペラの森」で小澤が演奏するらしい。
演出は現代劇風というから、果たしてどのような解釈がなされるのか、興味がわくところでもある。

以前のブログにて小生は「オランダ人は何故彷徨うのか」「宗教戦争とローエングリン」、そして「パルジファル」について思うところを書き連ねた。
最近「タンホイザー」について考えるチャンスがあったので、久しぶりに楽曲を見聞きしてみた。

CDでは
LPで聞いていた時代から、もう30年のお付き合いとなる、小生の一番長いお気に入り
CDで復刻され、聞くのに便利になった、コンヴィチュニー入魂の音盤のひとつ
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ハンス・ホップ (タンホイザー)
エリーザベト・グリュンマー (エリーザベト)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ (ヴォルフラム)
ゴットローブ・フリック (ヘルマン)
マリアンネ・シェヒ (ヴェーヌス)
指揮:フランツ・コンヴィチュニー
管弦楽:ベルリン国立歌劇場管弦楽団
録音年:1960年[録音] '60.10
「フリッツ・ブンダーリッヒ」が(フォーデルワイデ)役で出演している。

コリン・デイヴィスは、普段小生あまり親しまない指揮者なので、彼の演奏を聴くことは、あまり多くないが、映像では、これしか当時商品化されてなく、シブシブ購入した覚えの
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サー・コリン・デイヴィス指揮、ゲッツ・フリードリッヒ演出/バイロイト祝祭管弦楽団、合唱団、ハンス・ゾーティン(ヘルマン・Bs)、
ベルント・ヴァイクル(ヴォルフラム・Br)、
ロバート・シュンク(ヴァルター・T)、
ジョン・ピッカリング(ハインリヒ・T)、
フランツ・マツーラ(ビテロルフ・Bs)、
ハインツ・フェルトホフ(ラインマル・Bs)、
スパス・ヴェンコフ(タンホイザー・T)、
ギネス・ジョーンズ(エリーザベト/ヴェーヌス・S)、
テルツ少年合唱団員
・・・・赤毛のギネスジョーンズのヴェーヌスが、とりわけすばらしい。

これらを、見聞きしながらあることを思った。
このオペラを「女性の愛、による救済」の物語とする説が一般的であるが、どうも小生には納得がいかない。
またプロテスタント・・・カルヴァン教徒?のカトリック(ローマ皇教批判」であると説くものもある。
しかし小生は次のことから、この物語の歴史的背景に「キリスト教」の新旧の抗争以外のものを感じるのだ。

「タンホイザー」の名前の由来を「榛の木の家に住む人」であるという説がある。
「榛の木」とは、樫木同様、古代から利用価値に優れた樹木だったから、古代ケルト人のトーテムとして、例えば「ドルイド教」の賢者≒主神として祭られていた自然信仰の対象であった。
さすれば「タンホイザー」の出自は、「北方ゲルマン」あるいは「ケルト」といってもよかろう。
彼らは「キリスト教社会」とは別の文化や信仰を持った民族であったが、長い歴史の流れの中で、キリスト教的社会、経済、文化に侵食され、中世ではすでに一部の少数民族や、地域の風土や風習、昔話・・・民話や古謡、伝説、神話の中にしか存在しなくなっていた。

また以前「「流刑の神々・精霊物語」・・・知られざるハイネのもう一つの顔」と題して、「キリスト教社会は、徹底的に古い伝説や信仰を排除し、それを迷信や邪教、あるいは異端として、いままでの民衆の土俗的な心というものを押しっぶしてしまった。ゲルマンの自然宗教を押しっぶしたばかりでなく、ギリシア・ローマの神話をさえ排除し魔女だとか小人だとかの異端的世界に封じ込めました・・・・」との紹介文を書いた。

小生は「タンホイザー」の物語を、かつて・・・キリスト教社会以前に存在した「母権社会への憧れ・郷愁」の反映であると捉え、邪悪な存在とされる「ヴェーヌス」=「ヴィーナス」こそが、その象徴であると考えている。
「どうしようも無いときにはいつでもここに戻ってきなさい」といって「タンホイザー」のキリスト教的「擬似道徳心」のような、ヴァルトブルク回帰願望=キリスト教社会への復帰を許すヴェーヌスは、キリスト教的父権社会の象徴である「エリザベート」の・・・・自己犠牲による他人への思いやり、すなわちキリスト教的「愛」の実践者とは、決定的に異なる。

自分を犠牲にしての「愛」というものは存在できるのだろうか?
そのような「愛」であればそれは、そうされた側から見れば「苦痛」の何者でもないではないだろうか。
自分(女性)の「死」によってのみ他人(男性)を幸せに出来る・・・このように誰かにとって都合よい社会的通年は、いかにもキリスト教によって醸成されてきたもののようだ。

「タンホイザー」がヴェーヌスの祠で祈るのは「聖母マリア」であって、「キリスト」では無い、そして愛しているとされる「エリザベト」でも無かった。
「タンホイザー」が真に愛したのは、かつての母権社会の象徴で、キリスト教支配のために彼らが編み出した「非キリスト教宗教に対しての懐柔策」=「聖母マリア」≒母権社会なのだろう。
「母なる・・・・」の宗教観、歴史観、習慣、タブー、諸々から来るところの「アンチキリスト教」措置として、本来あるはずの無い「女性像信仰」、そのシンボルとしての「聖母マリア」が登場する。

「タンホイザー」は、「聖母マリア」を通して、「ハイネ」がいみじくも伝え解く・・・遠くギリシャ、あるいは北方ゲルマンやケルトの母権社会の宗教や文化風俗、習慣へと回帰しようとしたしたのであって、決してヴァルトブルク=キリスト教社会への復帰を望んだのでないことは、もうひとつの民話を使った「歌合戦」を見ればわかることであろう。

教皇の杖に決して新しい芽が出ない・・・キリスト教では当たり前であることだが、自然神信仰の社会文化においては文化の民族の信仰のでは、十分ありえること。
元来「杖」というものは、それをトーテムとする民族のシンボルであり、杖を持つ人が民族の「長」であった。樫木をトーテムとする部族の「長」は、手に樫木で作られた杖を持つ。
これが権威と、賢者の証だ。
その地位につくことが出来るのこそが「王」だったのである。

STAFFという言葉は「杖」を意味する。そして杖はそれを持つものを支える存在でもあるからSTAFFとは支える・・・ということの代名詞にもなった。
「杖」は古代からそのような存在で、それを持つものの権威の象徴とともに、手助けをする道具でも合った。
キリスト教は、それをも権力・権威の象徴として引き継いだ感がある。

このような大昔の残像が、この話の中に潜んでいることがも指摘できるのである。
キリスト教社会では「神」の前に「タンホイザー」も「エリザベト」もその命を絶って召されなければ幸せは来ないと解き、ゆえにキリスト教の神に対する「信仰心を持て」ということになる。
しかし、かつてはそのような信仰などと異なる、抹殺された「自然神信仰」の母権社会の歴史が
あったことを偲ぶことが出来るというものである。

ワーグナーは、「ハイネ」の著作をかなり読みある中、恐らく「ハイネ」の「タンホイザー」をも読んだに違いないと推測する。
ワーグナーの中には、「北方ゲルマン」や「ケルト」の「神話」を、単なる「神話」ではなく、隠された史実として扱ったような形跡が少しではあるが読み取れる気がするのは小生だけのことであろうか?
ワーグナーは「アンチクリスチャン」だった・・・・このような推測さえ思い浮かぶのである。
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by noanoa1970 | 2006-12-19 14:45 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)