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伝・魯山人の皿

北大路 魯山人という人がいる。
一過言ある料理人で、偏屈な陶芸家として、1980年代「美味しんぼ」という漫画でもおなじみの、「海原雄山」という人物モデルになった人だ。
話のテーマとしての・・・「究極の・・・・」という言葉は、一世を風靡した。

小生は学生時代・・・1960年代後期に、この人を知ることになった。
それは、
小生がバイトをしていた「白沙村荘」
・・・・現在の「橋本関雪記念館」という、京都は銀閣寺畔にある、日本画家「橋本関節」の屋敷内に、1969年に「お菜ところ」という
関雪の息子、節哉の嫁である田鶴子おばさん自ら腕を振るった、京の「お晩材」を、食べさせるお店を開くことになり、その手伝いとしてお世話になったことが、きっかけであった。

「お菜ところ」は、関雪が残した、あまり大きくはないが、それは素晴らしい総檜作りの和風の画廊の建物を、ほんの少し改造してのことであった。
そこには夜ともなると、京のいたるところから、文学、芸術関係の、あるいは大学や美術館、博物館のいわゆる知識人、有名な織物会社、造り酒屋、漬物屋、お寺の管主、映画演劇関係、ありとあらゆる文化芸術族たちが集って酒を飲みながら、ある種サロン的な雰囲気をかもし出している不思議な空間であった。

おばさんと呼んでいた「田鶴子」さんの手料理は、関雪の墓がある山科の、
・・・おいしい「精進料理」を提供することで有名になった「月心寺」の庵主さんの手ほどきだから、その味はすぐに評判となり、関雪の名前も手伝って、ゆかりの人々が、入れ替わり立ち代り、「お菜ところ」を訪れた。

観光客が引く夜ともなれば、やってくるのはいつの間にか、顔見知りとなった人たちばかりで、バイトの身でありながら小生は、お酒のそしてお話の相手をしたものだった。
お酒は地元伏見の「月の桂」の「にごり」を、朱に塗られた古くて大きな「方口」にデカンタして、ぐい飲みについで飲んでもらうのが好評で、ぐい飲みは竹篭に入れた十数点の中から、好きなものをチョイスしてもらうというシステムで、今では珍しくもないことだが、当時としては、このような事をやっている所はなかったと言っていいほどのことであった。

ある夜のこと、お客の引きが早く、そろそろ店じまいしようかという時のこと、「月の桂」にごり酒の一升瓶が、残り2・3合を残すのみ(にごり酒はなるべく飲み切らないと、発酵が進みすぎて
酸味がまして美味しくなくなる)となったのに気づいたおばさんが、一杯飲もうといって竹篭からぐい飲みを取るようにいうので、小生はその中から、中ぶりで、持ち味のよい物を選ぶと、それがなんと「魯山人」だといい、自分は「小山富士夫」・・・彼女は「先生」と、非常に親しげに読んでいた・・で飲むといった。

この2人のことを知って小生は仰天し、このような一品をさりげなく、そして何の説明も、講釈もないままに、器として使用する、この浮世を超越した「空間」・・・「白沙村荘」の恐ろしいほどの奥行きの深さに唖然とし、このようなところでバイトができることを、誇りにさえ感じたものであった。

これが小生の「初魯山人」体験になり、出版されていたあらゆる文献を読み漁り、展覧会にも通うこととなって、さらに「料理」と「食器」・・・「用の美」についても触れていくこととなった。
このあたりが後の「NOANOA」開設、そして古い陶磁器への興味を助長させる元になったのだと思っている。
古い焼き物への興味への歴史は中学時代にさかのぼり、その原点は、「須恵器」の発掘にあるのだが、「考古学」から「食と器」への興味へと発展させたのは、やはり「白沙村荘」でのバイトであったと確信を持っている。
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アップした写真の焼き物は、小生が魯山人好きであることを知った家内の父が、北陸のどこかから・・・知人や友人に頼んだのであろうか・・・探してきてくれたもの。
志野風の化粧に呉須で「萬歳の夢」とかかれたもの。
大きさは25cm四方ほどであり、この器を見ていると、料理を盛ってみたくなるような、そんな気がする雰囲気を強く持つ。

形状や雰囲気は「魯山人」を感じさせるところはあるが、どこにも「銘」が見当たらない。
筆の勢いも書道をやっていた人のように、一気呵成のようなところがあるから、箱書きがなくても、小生は「魯山人」の作品だと思っていたが、しばらくして、どうもあれは「魯山人」のものではないようだ、すまん事をした・・・・・といってその代わりにと、今度は魯山人の墨絵の軸を渡してくれた。(これについてはいずれアップします)
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話を聞いて整理してみると、富山の女子学園の学長の蔵からでたもので、本人は「魯山人」作と思い込んでいたのだが、それはどうやら勘違いだったらしく、その人の蔵にはほかにも魯山人の作品がかなりあるという話だ。
さすが北陸は魯山人が食各として長く逗留して、陶磁器、書画を残しただけに、かなりのものが残されているはず。
大量生産前の作品も残っていると推されるから、いっそうその価値は高まるはずであろう。
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しかし小生の目には、この作品、見れば見るほど「魯山人」に見えてしまう。
色、形、文様、筆文字いずれをとっても「魯山人」が好みそうなものに仕上げてある。
どうも渡されるときに、友箱から出してわざと入れ替えたらしく、違う箱に入れられた状態だったが、皿を包んだ布には、墨でこの皿の素性のようなものが書かれているが、ハッキリとは読めない。
福井県福井市と記されていることは、何とか読めるから、布と作品が同じ素性であれば、この皿は「福井」の人物が最初の持ち主なのだろう。
しかしそれ以上のことはわからないまま、義父はすでに亡くなってしまった。
貰い受けたという富山の高等学校の学園長も、すでにこの世を去っているから、
真実は闇の中である。

小生は魯山人が開発した「ジンジャーエール」の作り方をまねて実践したことがある。
また魯山人風すき焼きは「白沙村荘」では、当時すでに当たり前のようになっていて、この作り方は、我が家の「すき焼き」に引き継がれている。
すき焼きはこれに限る。

by noanoa1970 | 2006-11-01 09:20 | 骨董で遊ぶ | Comments(2)

Commented by drac-ob at 2006-11-01 23:34 x
ブログ復活おめでとうございます。
復帰第1弾が魯山人とは、流石格調高いブログですよね。当方、無学なもので「美味しんぼ」程度の知識しかありませんが、そのような偉人と接点があったとは驚きです。これからもいろいろ興味深いお話をお願いします。
Commented by sawyer at 2006-11-06 10:59 x
ありがとうございます。まだ本格的な回復には至っていませんが、だんだん調子がよくなってきたように思います。休みの間にネタをたくさんためておこうと思ったのですが、音楽もあまり聴かずにいたので、試みは見事に失敗でした。またよろしくお願いします。OBブログのほうもよろしく。