今聞いておかなければならない音楽・・・大木正夫「人間を返せ」
8月は特別な月である。「原爆」投下から「敗戦・終戦」そして「お盆」があり、旧「七夕」があり、京都では「五山の送り火・・・大文字が行われる今夜、お盆が過ぎると秋の色がだんだんと近づいてくる。
迷いに迷った挙句、今改めて聞いておかないと、永久に聴く機会を失ってしまうことになりそうである・・・との懸念に襲われたので、久しぶり・・・実に40年ぶりに「大木正夫」のグランド・カンタータ「人間を返せ」を聴くことにした。
今までなぜ聞くのをためらっていたかというと、それは1967年、小生が大学生になって入部した「DRAC」というサークルの「日本音楽G」でこの曲をはじめて聴いた時、その音楽から受けた強烈な印象・・・日本語の、すさまじい、原爆の、悲惨さが、余りにもストレートに、・・・伝わってきて、パート1そしてパート2の2枚に分かれたLPの1枚目のA面を聞くのがヤットで、後はその場では聞けず、後に個人的に聞くこととなったこと。
そして当時この曲は不幸にも、歌声運動、労音、政治t団体、などとの結びつきの中でみていて、当時のわれわれの多くが反「社会主義リアリズム」・・・を含んだ「政治と芸術」の結びつきを毛嫌いする傾向の中で、この作品と、「ショスタコーヴィッチ」には否定的な空気があったこと。
この2つの外見的なこと・・・今考えてみれば、なんとも若気の至りであるのだが、作品そのもののよりも、それを取り巻くものによって、作品そのものの価値や評価を決め込んでいたのは確かで、これはその時毛嫌いしたある政治政党による文化政策と同じことだと言うことに、気づかなかったことによるもので、ショスタコーヴィッチにいたっては交響曲5番、7番・・・そして10番及び11番を聴いていればかなり聴いていた方であり、小生はカンタータ「森の歌」を聴いていたからそれで十分と思っていたのである。(最も現在のように演奏会でも録音でもその数はものすごく少なかったのは事実)
大木正夫の「人間を返せ」はそのような時代のほんの少し前1961年に1部がそして63年に2部が作られた。その頃勢いがあった「労音」の依頼で作曲され、原爆詩集で有名な被爆者でもあり、36歳という短い生涯を閉じた、「峠三吉」の詩をテキストにして作られた作品である。
大木正夫は「われわれの芸は、日本語で語れなければならない」という心情を持ち、記紀、万葉集、民謡、浄瑠璃、長唄、白秋等に素材を求め、日本の伝統音楽と、西洋音楽の融合を試みて、交響曲「信濃路」、ワインガルトナー賞を受賞した組曲「五つのお話」、「夜の思想」を昭和初期に作っている。(DRAC時代の研究より)映画館紹介で見た「キクとイサム」の映画音楽もお起きの作品で、かなりの映画音楽も作っている。
第4章 『ちいさい子』での「五木の子守歌」のメロディつかいかたは、彼の作曲姿勢の成り立ちを示すといえる。
NAXOSの「日本人作曲家」シリーズでも、漸く大木正夫の交響曲6番「ヒロシマ」が取り上げられ、大木の名前は若い人たちの知るところとなったが、カンタータ「人間を帰せ」は名前だけは有名であるが、今では演奏会でも勿論録音でも取り上げられることがなくなった。
この曲を知っているのは実演に携わった人たち、「労音」の会員、あるいは小生のような古い時代のそれも邦人作曲家の録音を所有しているものに限られるようになったのは、とても残念なことである。なぜこの曲が聴かれないようになったかには、様々な理由がありそうだが、それについての直接の言及は、避けておくことにする。
改めて聴いた印象として、昔のような強烈な印象は、やはりパート1において強いが、パート2ではかなり印象の趣が違う。
パート1では原爆が落とされた時の悲惨な光景をリアルに歌っているのに比べ、パート2ではまるで「鎮魂曲」というか「レクイエム」のような、死んでいった人たちを思い出し、祀り、安らかにと祈る、そして彼らの犠牲の上にわれわれが存在している、というある種感謝の念みたいなものが感じられる。
パート1においては日本語の原詩が余りにも強烈過ぎて、音楽がそれについていけずにいるから、結果として「峠三吉」の詩が一人歩きしていることが多いように感じられた。
といってもその音楽は、(合唱においては、古典的な和声法ではあるが、)独唱の抑揚と、管弦楽には、ワーグナーの「トリスタン」のような、無調へのつき進みが見られるし、リゲティの「トーンクラスター」風なところも見られる。そしてその全貌は、なんといっても「ショスタコーヴィッチ」のトーンを髣髴させるが、やはり音楽そのものの緊張度が、「詩」の持つパワーに圧倒的に存在をなくしている。
カンタータだからそれでいいのかもしれないが、小生はその辺り、「リアリティはあるが、それは原詩による力で、曲は(1960年代初期の当時としては大健闘ではあるが、)何か「生のまま」で昇華されない・・・、いわゆる「芸術」の域には達し得なかった」と思わざるを得ない。
ひょっとしたらこの辺りが後年余り取り上げられなくなった原因なのかもしれない。
この当時の邦人作曲家あるいは作品の多くは、国内よりも、例によって海外に目を向けていた、というより、そうぜざるを得ない事情があった。
外国で評価された後に逆輸入で日本に入ってくるということが多かったというような、わが国の文化芸術レベルに起因してか、レコードの解説は、英文でも書かれているものが多かった。
そしてこの「人間を帰せ」のテキストも英文の訳が載っている。しばらく読んでいてフト思ったのだが、この曲、大木自身の考えを無視して英語で歌ったら。などと不謹慎なことを考えるにいたった。そうすればテキストと、音楽の融合が高いレベルで図られたに違いないと思ってしまった。
パート2は、パート1から2年後の63年に作られたのだが、これはパート1とは違い、詩と音楽のバランスがうまく取れていて、パート1が短かすぎるとも思えるような序奏から、すぐに中身に入ってこれでもか。というように、ひたすら原爆の悲惨を訴えるのに対し、パート2では第1曲「宣言」で見られるように、管弦楽だけで演奏される。
パート1とパート2の緩衝地帯を意図したように設定し、それにより、時間の経過と人の心や風景の、変わらないものと変わったものなどを、見事な詩と音楽の融合によって表現される「上質な洗練されてきたところが見受けられる音楽」となっていて、日本語野テクストも音楽とよくマッチしている。
特徴的なのは「児童合唱団」による「小学生の霊の声」が、「静かな荘厳」で歌われるところ。
ここではあのフォーレのレクイエムのような優しさと悲しみを思わずにはいられない。
1962年大木は、「間宮」らとともにソヴィエト作曲家同盟の招待により、ソ連を訪問したたと記録されている。
当時のソ連の音楽情勢から見ると、やはり「社会主義リアリズム」旋風の真っ只中であったから、そのあたりについて何かを学んできたものだろうことは想像でき、自作のパート1や交響曲作品の楽譜などを持参したであろうから、そしてひょっとしたら、ショスタコーヴィッチに面会したかもしれないから、パート2でのショスタコーヴィッチ風なところ。パート1でもたぶんにその傾向はあるのだが。影響を受けたかあるいはお互いに影響しあったという可能性はあると睨んでいる。
「人間を帰せ」はパート1・2連続でなくても、その価値は余り変わらないと、小生は思うので、パート1の英語版そしてパート2をCD録音を強く希望するのである。(現在ではCD化されてるようだ)
パート1
序
第1章 『八月六日』『死』
第2章 『仮繃帯所にて』
第3章 『眼』
第4章 『ちいさい子』
第5章 『呼びかけ』
終曲 『人間をかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
にんげんをかえせ
ああ!
<演奏>
佐藤菊夫指揮、東京交響楽団、東京労音会員、滝沢三重子(ソプラノ)、成田絵智子(アルト)、天野秋雄(バリトン)、田島好一(バス)
パート2
1楽章『宣言』
2楽章『墓標』
3楽章『朝』
4楽章『足音』
<演奏>
上田仁指揮、東京交響楽団、東京労音合唱団、厚生年金児童合唱団、小田清(バリトン」
パート1とパート2で指揮者がが異なる。
独唱もパート2ではバリトン一人、そして児童合唱団が加わるのが変化したところ。
ショスタコーヴィッチの「バビ・ヤール」シェーンベルクの「ワルソーの生き残り」を思わせるし、バルトークのようでもあるが、なによりも宗教曲のような音楽の「昇華」」が見られて、「和」の雰囲気も出している。
パート2のいち早い復刻または新録音が望まれる。
序
八月六日
死
炎
盲目
仮繃帯所にて
眼
倉庫の記録
としとったお母さん
炎の季節
ちいさい子
墓標
影
友
河のある風景
朝
微笑
1950年の8月6日
夜
巷にて
ある婦人へ
景観
呼びかけ
その日はいつか
希い
by noanoa1970 | 2006-08-16 13:00 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)