夏に似合う音楽・・・Richard Georg Strauß「BURLESKE」
フニクリ・フニクラに続き、「イタリアにて」と同じ頃・・・R・シュトラウスの青年期に作られた秀作、「ブルレスケ」を聴いてみた。ティンパニの連打で始まり、ピアノがロマン派の巨匠たちのいいとこ取りをしたような音楽を聞かせてくれる。上昇下降する音は「リスト」風。そして管弦楽は「シューマン」あるいは「メンデルスゾーン」風。ピアノの出だしの音型はというと「ブラームス」の4つのバラードの第一曲「エドヴァルト」の最初の音型とソックリ。
この曲にシュトラウスが「ブルレスケ」という名前をつけたのは、単に音楽用語からだけであろうかと、勘ぐってしまいたいところがあるが、しかしとても大胆な曲に仕上がっていて腕のよいピアニストの本領発揮の曲だろうと推測される。
知る人ぞ知る往年の米国の名ピアニスト「クライバーン」より前の世代に当たり、ホロヴィッツ唯一の弟子でもある、「バイロン・ジャニス」のピアノそして「フリッツ・ライナー」と「シカゴ交響楽団」の演奏で聞くことにした。
しかしこんなに暑いと、もうあきらめてしまい「おどけて」みたくもなってくるというもの。
「おどける」とは「お道化る」であり、「ブルレスク」に通ずるところがあるのでその辺りを・・・・
「コカコーラの広告塔の影に守られた夏が、人気のない公園に
ポツンと君を浮かべる。
人待ち顔の街角は、おいてきぼりの君の夏。
のぞいた僕は、気まぐれな風さ。
緑の夏に、パラソルさして、きみをさそって
街を歩けば、時には風も吹くみたい。
・・・みどりの夏にパラソルさして、君の手をとり、街を歩けば
時には風も吹くみたい」
・・・・とその昔「パラソルさして」という夏の歌を「西岡恭蔵」そして「ザ・ディランⅡ」が「レトロモダン」に歌ったが、あれから30数年今ではどこを探しても緑の夏に風は吹かない。
「道化」は、というと「西岡恭蔵」がその昔「失恋した男の愛情」を歌った
「サーカスにはピエロが」、ピエロという道化にもなれないサーカス小屋の雇われ掃除男の悲哀を少年の眼で見た心象を歌いこんだ「ピエロと少年」という歌もあった。
「道化」あるいは「道化もの」は、文化史的には相当に古いとされ、その昔は「異形の人」等がそれを「職業」にしたといい、「異形]であるがゆえに貴族や王族に向かって言いたい事を言っても許される存在になったといい、「ピエロ」や「アルルカン」はその末裔だという。
豊臣秀吉が出世したのも、秀吉に内在する「道化」の精神と、信長というキャラがマッチングしたからである。・・・という説もあるように、「道化」は文化史の根底に陰になり日向になり登場してくる。シェークスピアに「道化」が多く登場することの事実は考えるべきものを示唆しているかもしれない。
若きシュトラウスの「ブルレスケ」は「音楽の道化」であるといえなくもない。先達者たちの素晴らしい音楽の前に、なすべき、作るべき音楽がもはや荷のではないか・・・というある種強迫観念めいたものに苛まれるような若い日の時代。
作る音楽は先人たちのやり終えた「音」の範疇を超えるものも、それ以上のものも出来ない・・・などというネガティヴな考えがシュトラウスにあったのだろう。
であれば、いっそのこと先人たちの音楽を真似て、バラエティ音楽を作ってしまおう・・・とばかりに書き上げたのがこの「ブルレスケ」ではないだろうか?
シュトラウスのことだから、ただ「真似する」 ばかりけでは納得が出来ない、そこでティンパニの目くらましで少し系統の違いを見せた。
この曲はピアノ協奏曲風のところもあるが、ティンパニとピアノと管弦楽ののための「狂詩曲」というような感じもある。シュトラウスの作品の中では「交響詩」や「オペラ」の陰に隠れた存在となってしまっているが、シュトラウスの音楽的変化の原典とも思える曲で、「イタリアにて」とともに、重要度は高いと思う。
そしてなによりも聴いていて「楽しい」曲であることがこの季節向きだろうか。
by noanoa1970 | 2006-08-13 07:30 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)
同じライナー/シカゴ響でR.シュトラウス「町人貴族(Der Buger als Edelmann)」もピアノが鳴りますが、目立たないからなのか奏者は書かれていません。これもジャニスでしょうか、演奏が似ていると思います。
ライナー/シカゴ響が私のお気に入りです。LPから聴いていましたが、好きになった(良さが解った!)のは数年前です。
ライナーはウィーン・フィルのブラームス「ハンガリー舞曲集」も良いですね。私の「無人島に持っていく1枚」です。