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小津安二郎の「晩春」を見る

「泥中の蓮」
この泥も蓮も現実なんです。
そして泥は汚いけど、蓮は美しい。
だけどこの蓮もやはり根は泥中にある。
蓮を描いて、泥土と根を知らせる方法も
あると、思うのです。

『晩春』に対する当時の評価に対して小津が行った反論だといわれている。
この映画はまだ戦争の傷が覚めやらぬ終戦の混乱期に作られたものである。

GWにTVで「市川昆」監督による小津安二郎作品「晩春」のリメイク「娘の結婚」を見た。
「晩春」の評価は小津作品の中でも高い位置にあり、これについては様々な解釈がある。
父と娘の父子家庭、婚期の遅れた娘を心配して結婚させようとする父親と、自分が結婚したら父親が一人になることを心配して、なかなか結婚しようとしない娘の感情の襞を描いたものであるのだ。

娘役の「原節子」の「表情の変容」に「エレクトラコンプレックス」を見、その発展形としての危ない関係までに言及する向きもあるが、それはそれとして、小生はこの作品を「理性と感性の合理化」の話であると思っている。

小生はまた、小津の「晩春」の視点を、「日常に潜むユーモアと可逆性」に有るとかねてから思っている。日常生活の中には喜劇的なものと悲劇的なものが潜んでいて、それが時には同時進行する。そしてそれは繰り返されるのである。
小津はそれらを特別なことではなく誰もが経験するであろう「日常性」の一こまとして淡々と表現した。

「合理化」されなければならない時代背景としては小津の場合、「戦後」があったわけであるが、果たして市川の場合「リメイク」の背景である「時代性」は・・というと、これがかなりむずかしくなってくるから、その辺りをいかに表現するのだろうととても興味深かった。

残念ながらしかし、市川のリメイク作品には表面的親子の愛情しか描ききれてないものを感じたため、大いにガッカリさせられ、小津オリジナルを見ることになった。
一言で市川作品を表現すれば「今に迎合しすぎて、物語の本質を失った、コウモリのような作品」とでも言おうか。「野田」の脚本を使うのなら、現代風に無理にアレンジする必要などさらさらない。むしろ小津+野田の完全コピーをしたほうがましであったと思う。
巨匠市川といえど、やはりオリジナルに肉薄するのは難しいのである。

「晩春」の時代は戦後間もない昭和20年代の後期である。娘は戦争中の苦労がたたって、病気静養中であり、今も病院に通い検査を受けている。
「血沈」というセリフがあることを、そしてその意味を知る人はそんなに多くない時代となった。
また父親が女房代わりに便利に使ってきたことで婚期を逃して今に至っている。父親は人に言われるまで娘の結婚について考えたこともなかったぐらいに、日常性の中に娘を埋没させていたのである。
また娘自身も「日常性」の中に身をおくことによって得られる幸福的満足感を味わっていたのかもしれない。

ところがそのような父と娘の日常を破壊しに登場したのが父親の友人であり、父親の妹であった。父親の友人は再婚、父親の妹は世間体を気にし、娘と同世代で娘の結婚相手にと思っていたはずの父親の助手は、すでに結婚を決め、離婚した娘の友人はチャンスがあったら再婚したいといい、同期で結婚してないのは、あなたともう一人だけ・・・なんていうことを言う。
娘を取り巻く環境は、もはや今までとはずいぶん違って、今はもう娘の居場所がないほどになって来ている。

父親はというと・・・感情はそうではないが、理性が娘の結婚に乗り気させるものだから、娘は一人孤立していき、結果、「結婚したくない」と、したくない理由をアレコレ考えて感情的になる。
ここに娘の結婚したくない感性が「父親が好き」「父親が困る」という・・・つまり自分の「パラサイト願望」を「父親のために」という「合理化された理由」のせいにするのである。

父親は理性で娘を説得しようとするが娘は一切耳を貸さない。
そこで父親は理性で説得できないと見て芝居をする。・・・つまり父親は、娘より好きな女性が出来た・・・すなわち娘を・・・「もはや必要としない」と言うことを娘の感性に直接訴える芝居を打つのである。

やがて娘は父親の非理性的なものによる=好きな人が出来再婚する・・・ということで、新たな感性の「合理化」を試み、結婚を承諾するのだが、京都旅行の夜「合理化された感性」はもろくも崩れ去る。
恐らく途中で娘は父親の再婚話が架空で、演技であることを見抜いていたに違いないから、娘は納得しないまま結婚するのだが、その後幸せになったのだろうか?

人によってはその後の娘の姿を小津作品の「東京暮色」に求める向きもある。

さて小生のこの映画の印象的シーンとしてト以下のことが挙げられる。

●父親の曾宮周吉 =笠智衆 の友人である京大の教授小野寺譲=三島雅夫 が 周吉の娘紀子=原節子 と銀座で偶然会い、父親の住む北鎌倉の家に連れてきて旧交を暖めるシーン
小野寺が周吉の客間で酒を飲みながら指差して海や鶴が丘八幡、東はどっち、東京はこっちかい・・・などと方角を尋ねるシーン。
思っている方向が全て外れそれを取り繕うように、鎌倉は要塞堅固だと話をはぐらかす。
全てが方向音痴の仕種は、漫才の「ボケと突っ込み」のようで面白い。
しかし面白いばかりではなく、誰にでもある経験で、この友人が頻繁に鎌倉の周吉宅を訪れていないことも暗示させる。
すなわち二人で鎌倉で酒を飲むことが本当に久しぶりで、しかも非常にうれしいことがこの仕種で伝わってくるのである。
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●鶴が丘八幡宮でのこと、周吉の娘紀子の結婚の世話を焼く周吉の妹田口マサ=  杉村春子 が財布を拾う。紀子の結婚話が進む前触れみたいで縁起がいいといって、着物の胸にしまいこむが、警官の姿が見えると小走りに階段を駆け上がっていく シーン。
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このように日常のありそうでなさそうで実はありそうな、ちょっとした小話を入れ込むところが、そしてそれが薬味のように効いているところが、いかにも小津らしいのである。

さらに
●紀子が周吉の「架空の見合い相手」=娘を結婚させるために周吉が考えたトリック・・を「能」の舞台鑑賞会で紀子がその相手の女性を見るときのシーン。
このときの女優「原節子」の演技は不気味でさえある。
あの場面での結婚前のまだ若き女性の奥底に潜む、デモーニッシュな表情は彼女外の誰が演じても決して出せないであろう。
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●そしてその帰り道で急に用があるからといって父親と反対の道を小走りに歩いていくシーン
京都旅行での夜のシーン、これらの紀子の顔の表情の微妙なメタモルフォーズを、
そして最後のリンゴの皮むきのシーンを含めてのこの物語の中のシビアなシーンをどのように演出し、役者がどのように演技しているのか大いに気になったが、市川作品ではここは大幅にカットされてしまっていた。
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少し異質かもしれないが
これらに加えて小生は
父親曾宮周吉の助手服部昌一と娘紀子が江ノ島までサイクリングをするシーンでの会話。
恋愛の話で、やきもち焼きかどうかを「たくわんを切ったときにつながる」から、私は焼きも焼きという娘に対し、男は、タクアンがつながるのは包丁とまな板の相対的な関係で、タクアンがつながることと、やきもち焼きはなんの有機的関係はないじゃないですかと言う・・・あのシーン。
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小生はここに小津の女性の非合理性=感情的な考え方に加え、古い迷信を持ち出したことによって、娘に本来潜む伝統性の上の埋没=戦後民主主義社会になっても、なかなか超えることのできない日常性を脱却できない女性の姿を表現し、その対抗にある男の理性的、科学的なものの考え方・・・・それが絡み合いながら、様々な形にメタモルフォーズしてゆく、後々の「感性」の「合理化」に向けた「伏線」が、小津+野田によって巧妙に仕掛けられているのだと思う。
コカコーラの看板は「合理化」されたものの象徴であるのかもしれない。

by noanoa1970 | 2006-05-09 12:01 | 小津安二郎 | Comments(0)