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「新世界」同一指揮者の2つの演奏を聴く・・・「フェレンツ・フリッチャイ」その2

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思わず息を止めて聴くような「RIAS響」との演奏に比べ、BPOとの演奏は随所で「深いため息」を何回もしてしまいそうになる演奏である。
前のBLOGで「RIAS響」と今回の「BPO」のものは「全く異なる演奏」と書いたのだが、繰り返し聴いてみると、そうとばかりいえないところがあるので、少し訂正する必要が出てきた。
それというのは、
「フリッチャイ」の「新世界」という「音楽のつかみ」という面では、そして各部の表情の変化は、細かいところにおいても大きく変わることは無いということである。どうも余りにもテンポが違うので、そのイメージが強すぎたのか、重要な視点を見過ごすところであった。

たしかに「RIAS響」との演奏=「旧盤」ということにする・・は「BPO」との演奏=「新盤」と比べると圧倒的なスピード感があり、息もつけないほどの熱い演奏であることは間違いないのだが、恐らく基本的な「新世界の演奏に対しての考え方や姿勢」・・・これを「解釈」といえないことも無いだろうが・・・フリッチャイの底辺に有る音楽姿勢は、ほとんど変わっていないように思われ「る。それぞれの楽章の主題やメロディの聞かせどころでは、その絶対テンポこそ違いはあるが、テンポを落としてたっぷりと聞かせるところなどは、新・旧瓦に「フリッチャイ」の音楽的素養であり特徴である。

「フリッチャイ」の凄いところは、旧盤でアッチェレランドやプレストをかけるところでも、その猛烈な速さにも拘らず決して音楽が滑っていないこと、細かい表情をもキチンと出し切っていること。そして新盤では、極度にゆるいテンポのところでも決して音楽が間延びしないこと。「旧盤」がじっと息を殺して聞いていて、曲が終わってから初めて深い深呼吸をするような感じがあるのにに比べ、「新盤」は、曲の途中で思わず漏れる「ため息」。曲が終わるとなぜか「心臓の鼓動がしばらくの間波打つ」ような・・そんな演奏の感覚的違いがある。

「旧盤」の1楽章が約9分、それに対し「新盤」は約10分、旧盤のトータル約37分
「旧盤」の2楽章は約10分そして「新盤」はなんと約14分、新盤のトータルは約45分
両録音ともに一楽章提示部の繰り返しは無い演奏である。
8分もの時間的な差があることは驚異的で、恐らく同一指揮者で同じ曲を演奏するのに、このような時間の開きがあるのは、「フリッチャイ」の「新世界」のひときわ大きな特徴であろう。

しかしこれだけの時間差が有るにも拘らず、音楽時間的短ささ・長さの感覚は全く無い。この辺りが「音楽」の、「フリッチャイ」の演奏の不思議でもある。
聴き所、聞かせどころの2楽章イングリッシュホルンのソロは、どちらもかなりの腕であるが、音の響きの深さと、レガート、テヌートの表現で、BPO の奏者がその音色とともに一枚上手だろうか。

旧盤と新盤の間には6年ほどの開きがある。DG(ドイツ・グラモフォン)はモノーラル録音であった旧盤の演奏を評価するとともに、普及しつつある「ステレオ」様に、当時DGの「エース」で「ホープ」であった「フリッチャイ」と「ベルリンフィル」という最高のオケで、今一度「新世界」のレコード発売を企画した。恐らくDGは「フリッチャイ」でクラシック音楽の一般家庭への浸透を目したのであろう。しかし残念なことに、この頃から「フリッチャイ」の病気はだんだん回復しなくなってゆく。

そして1962年・・・ちょうどわが国でも「ステレオ装置」が普及し始めた、大切な時期に、帰らぬ人となった。DGは代だとして「ベーム」そして後にDG の「顔」となる「カラヤン」にさまざまなジャンルの・・・入門編から、ツウ好みまで・・・数え切れないほどの録音を「STEREO」録音させた。そういう背景で小生が「フリッチャイ」を知ったのはDGの廉価版「ヘリオドール」というレーベルで、当時はその実力とは関係なく、一段低く扱われてしまっていたのである。

「ベーム」「ヨッフム」までもが一時そのような扱いを受けたことがあったくらい、「カラヤン」を押し立てるDGの戦略は凄まじかったのである。

話はそれてしまったが、「フリッチャイ」の音楽の変化は彼の「病」の影響だという説があり、恐らく其れはそうなのだろうと思われところがある。
晩年にユッタリしたテンポになる指揮者、録音と比べてライヴでユッタリと音楽を聞かせる識者はかなり多い。
「フリッチャイ」のかかった病は不治の病とされる「白血病」である。恐らく当時では助かる見込みはほとんど無く、多分フリッチャイ自信がそのことを知っていたとすれば、おのずから音楽との係わり合いに対する変化があるのは否めないことである。

この辺りは「推測」の域を出ないのであるが、発病前の「フリッチャイ」にはDGとの契約や、音楽監督、など「ばら色の将来と人生」が見えていたのだろう。「新世界」の演奏にはそのような強い意志と将来への、前向きな展望が表出されているようである。

発病後入退院を繰り返すようになると、どうだろう、そこに見え隠れするものは、ただひたむきに音楽に没頭しようとする姿勢から来る、残された時間を許される限り、自分の最高の音楽を残したい・・というようなある種の強い願望があるのではないか、そこには枯淡諦念などというような、「悟り」のようなものより、むしろ自分の音楽的遺産を後世に出来るだけ残しておきたい。
そのような願いや祈りのようなものが聞こえはしないだろうか。ベートーヴェンの演奏の中でも、計測j期間の最も長い法に属するBPOとの「英雄」「運命」をあわせ聴くと、そのことが強く思えてくる。

話は変わるが、昨夜たまたまTVで「岩城宏之」さんのベートーヴェンの交響曲連続10時間演奏のニュースを見たのだが、彼も闘病生活が長い中で、自分の記念碑的な事業として、この前人未到の演奏会を後世に残すべく、肉体疲労をも省みず断行したのではないかと思った、強い情熱と、意思により、人間は創造も出来ないことまでやってしまうものなのだと理解した。

発病前にはほとんど演奏しなかった「ブラームス」の交響曲を1959年代後半から60年代にわたり漸く演奏会で取り上げるようになったのにも、きっと何かしらの「フリッチャイ」の思いが有ってのことだろうと小生は思うのである。
通常ならブラームスの交響曲全集などを残しても湯誘うに思うのだが、「フリッチャイ」が其れまで「ブラームス」の録音をあえてしなかったのはとても不可思議だから、きっと何か理由があったのかもしれない。

by noanoa1970 | 2006-01-09 12:06 | 新世界を聴く | Comments(0)