文学における「12音技法?」・・・福永武彦「死の島」

「死の島」といえば、すぐに思い浮かぶのは、「ベックリン」の絵画であり、ラフマニノフの「交響詩」である。
ベックリン」の絵画には「白装束」で「白い船」を操る姿が全の絵にに描かれている。
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「モノクロ」の写真の方は、ラフマニノフに創作意欲を湧かせたという銅版複製画に見立て小生が加工した「イメージ図」である。・・・「モノクロ」の方がインパクトが強いように思われる。一番下は、Joachim Patinir ( 1480-1525)のフランドル絵画「ステュクス川を渡るカロン」である。参考にあげておくことにした。 

全てといったのは、同じ題材の絵画は複数あり、4点ほど見かけたからである。船を操る人物もその船も。全て「白色」で描かれている。「白装束」の人物が船に乗せて運ぶものは、いったいなんであろうか?
行く先は「死の島」・・・「霊場の島」だとすれば「死人」あるいは「死人の魂」を運ぶ人?であろう。小生はこの人物を「ギリシャ神話」に登場する「カロン」=「カロンの艀」の話から発想されたものだと想像する。「オルフェス」と「エウリィディーチェ」の話で、「カロン」が「オルフェス」の竪琴に聞きほれる間に、「カロンの艀で黄泉の国へと渡る」あの黄泉の国の番人の「カロン」である。普通はそこを通過するのはきわめて困難。「死人」だけが黄泉の国へと旅できる。その橋渡しが「カロン」の役目である。

「ラフマニノフ」はこの絵画に触発されて同名の交響詩を作ったという。曲を聴いてみると、暗く陰鬱な情緒が一面に漂う。「艀」がユックリ「死の島」目指して進んでいくような感じを抱くところもある。ここには「キリスト教」的な救済」や、「天国」などは一切無いように聞こえてくる。
「ハイネ」が取り上げた中世・・あるいはそれ以前の伝説・民話・・・古代の人々たちが持っていたであろう「死の恐怖」、「黄泉への恐れ」そして「諦め」のような音が暗い地の底から這い上がる。一瞬だが「ラフマニノフ」お得意の「グレゴリオ聖歌」の「神の怒りの日」のフレーズらしきき物も出現するので、聴きよう用によっては「レクイエム的なもの」とすることも可能かもしれない。
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同名の作品を書いた「福永武彦」は学生時代に散々読みふけった作家である。「廃市」「海市」「忘却の河」など当時出版されていたものをほとんど読んで、感性を刺激された小生は、次に、「死の島」を学食のランチを我慢して購入した。上下2巻で発売された作品は、900ページにも及ぶ大作で、どうやら理解出来た、「ソナタ形式」にのっとり書いたという「海市」並みの作品だと思っていたが、これが「とんでもなく厄介な作品」だった。
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「カレンダー」と「時刻表」が単行本の付録につく・・・このような本を見たことがおありでしょうか?

この本の内容は、「読み手を拒む」かのように、ストーリー展開が「時系列」になっていなく、そして主人公などの概念が無いばかりか、全ての登場人物が「等価」である。
一人の男の姿を追いかけて行く部分、男の回想、男の書きかけの小説、女M、女Aの意識を語る「内部」、それらがまるで「映画の中に挿入された映画」のように関係を持ったり、関係性を拒否したりする。
そして非時系列的な変奏曲となって、それぞれの人物の「思い」によって不連続的に湧いてくる。小説の一応の区切り・・・展開部らしきところには、には、「○○日前」と書かれているが、読者には其の「意識の流れ」が何時から何時のことであるのか理解することが至極困難である。
恐らく出版社の判断であろうか、だから「カレンダー」が必要なのだ。「時刻表」も同様の意味で必要である。

物語はおよそ5つの主題が等価で、同時にそれぞれさまざまに進行する。・・この辺りは、「マーラー」「ブルックナー」の「多主題の音楽」を思わせるところがある。
話題は「宗教、音楽、絵画、茶道」、・・・「芸術論」などにも発展する。「ベックリン」「ムンク」「玉堂」が話に登場する。
しかし福永は「ラフマニノフ」を登場させない・・・当然福永はラフマニノフを聞いていたと思われるのだが、ワザト登場させる避け、その代わりに登場するのが、「シベリウス」で男の・・・というより、福永自身の「シベリウス論」はかなり興味深いものが有る。恐らく福永は、ベックリンに「ギリシャ神話」を、シベリウスに「北欧神話」を象徴させたのかもしれない。そして其れは「キリスト教」との対比においてなされたものだと思われるのだ。

さて「死の島」・・・ベックリンの絵画からの影響で・・・もしくはインスピレーションを得て・・・とはよく言われるのであるが、小生はこの便利な言い方にかなりの疑問に思っている。
「福永武彦」が「ベックリン」「ラフマニノフ」に深く触れていたことはほぼ間違いの無いところであるのだが、「影響」「インスピレーション」は、たとえ其れを本人が語ったとしても、自分以外の人たとえば(読者)に向けた「方便」的なところがあるのを、消し去れないであろう。
およそ「芸術家」「文学者」などの「個」の権化がそう簡単に、やすやすと他の「個」から「影響」なるものを、あるいは「インスピレーション」を、果てまた「触発」・・・などわれわれが考えうるレヴェルで受ける・・・そんなことはありえない・・・と小生は思っている。

福永の「死の島」に、そのことに関しての何らかの「ヒント」があるのかもしれない、と思って探してみると、面白いことが書いてあった。
そして其れは以下のようなことであったのだろうという考えになった。
<引用>
「ひろしま、ひろしま、呉線は乗換……。」
 彼の耳はどうかしているのか、その「ひろしま」が彼にははっきり「死のしま」と聞こえる。彼は身顫いし、他の客たちを追い抜くようにして改札口へ急ぐ。彼のうしろからそのアナウンスが執拗に追い縋る。
「死のしま、死のしま……。」


これは男が、原爆の被爆者である画家の女性Mとその友達女Aの自殺を聞いて「広島のある街」に乗り継いで行く途中のこと、、何時だったか男が女性Mに、自分の絵画論なるものを得意げに語って見せた「ベックリン」の「死の島」とオーヴァーラップするのである。

「死の島」・・・シノシマ=「広島」・・・ヒロシマという言語的、音楽的「韻」の存在を強く感じるのである。福永の「インスピレーション」はただこの1点・・・すなわち「言葉の響き」から「想起されるもの」そのことに「自己」の「個」が持つ「テーマ」を反映したものだといえないだろうか。
そして別々の5つの部分=5つの「音」が平行して、等価で、順不同に書かれ、変奏曲風に変わっていく様は、、「前衛的な文学手法」すなわち「文学における12音技法」とも呼べるような気がしてならない。
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by noanoa1970 | 2005-10-18 10:10 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)