オランダ人はなぜ「さまよう」のか

d0063263_15145475.jpgワーグナーの若き日の「オペラ」に「さまよえるオランダ人」がある。オランダ船の船長が神を冒涜した罪により、7年に一度だけは陸に上がるのを許されるれるが、海の上で一生生き続けなくてはならず、海上を当ても無く「さまよう」。
永遠の愛をささげる「女性」とめぐり合えれば、その「呪」が解ける、というストーリーである。中世の海の伝説に「ハイネ」などが脚色したものを元に作られたという、男声合唱の際立つ、2時間弱の単純なストーリーの「オペラ」であり、小生はコンヴィチュニー盤を好んで聴く。
「ディスカウ」、「ブンダーリッヒ」の歌もすばらしい音盤である。

いくつかの記述によれば、20世紀になってもこの「幽霊船フライイングダッチマン」は、その姿を目撃したという証言がある。「Flying Dutchman」は本来は飛行するオランダ船
だそうだ、其れを「彷徨えるオランダ人」と名訳したのには感嘆してしまう。

さて目撃証言とは以下のようなことであるらしい。
・1923年に四名の船員により目撃された
・1939年、南アフリカのグレンケルの海岸で数十人の人々が沖に浮かぶフライイング・ダッチマンを目撃した
・幽霊船は1942年にも南アフリカ周辺で目撃されている
19世紀には
・1881年に、英国海軍軍艦インコンスタント号がオーストラリア近くを航行中に、フライイング・ダッチマンを目撃し、それを航海日誌に記録した。などなど・・・幽霊船目撃談は沢山あるようだ。

伝説ではアフリカ喜望峰を回ろうとするオランダの嵐に襲われた船の乗組員たちが、安全を求めて避難しようと提案。しかし船長はその意見を退け、航海を続けるようにと水夫に命令。嵐がひどくなると、船長はそれに逆らい「神」を冒涜・挑発したという。この冒涜・・・「神の摂理に反する」・・・「自然の神(海神)に逆らう」言葉・・・「神も仏もあるものか」?・・・どういう言葉を這いたのかは重要であるが触れていない。古来海の民は、古くから言い伝えられてきた「海での約束事」を決して破ることは無かった。しかし「オランダ人の船長」は、「なぜか」その約束事を破ったのであった。

なぜ海の民であり、百戦錬磨の経験がありそうなオランダ船の長が「約束事」を破ったことにしたのか・・・なぜイギリス人やポルトガル人、スペイン人ではないのだろうか?彼らはいずれもかって海を支配するために覇権を競った国なのだ。

小生はここに、オランダ船の活躍した背景・・・、「東インド会社」や「東南アジアの植民地化」、日本との関係も中に入るであろう・・・とにかく巨万の富を求めて世界の海を航海し続けた勇敢なオランダ人の船団を思うのである。船には貿易で得た金銀財宝や、香辛料などがふんだんに積まれており、他国の船乗りたちからすれば、其れは「羨望の眼」で見られたのではないか。

海のギャングは、金持ちのオランダ船を狙い、船だけを残し何もかも奪い去る、そうして残った船が風と海流に乗ってアチコチの海域を彷徨う。そんな光景を見た船乗りたちの共同幻想がこの話の元だったのだろう。海のギャングによって彷徨う無人の船となったオランダ船をして、オランダ人の「富に対する欲望」への戒めとして、「神にそむいたオランダ人」の伝説を作り上げたのではなかろうか。そしてオランダ人の航海技術の巧みさからくる、自然に対しての「侮り」を戒めたのではないか。
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話をオペラに戻すと、オランダ船船長は、救済主である女性「ゼンタ」と、会った途端にお互いが一目ぼれをしてしまう様に描かれる。その2人を会わせるのが、お金に欲がくらむ「ゼンタ」の父親「ダーラント」であるのだが、普通なら「父親による娘の売り飛ばし・・・人身売買」となってしまう。しかしここに「救済」という概念を、其れも「予定」されていたかのようにワザワザ入れるところに、この物語の「秘密」が隠されているように小生には思える。

「運命というより宿命」「金銀財宝・お金に対する価値観」「救済=死」などのキーワードから・・・この話は「愛による救済」に隠れているが、さらに「キリスト教」の、オランダに多くの信者を持ったという「プロテスタント」の改革者「カルヴァン」によって示された「予定説」にのっとったお話だったのではないのか。

オランダ人を救うこをが決められていた人=ゼンタ・・・救われるべき人=オランダ人・・・本人たちの意識の遥か彼方には「神」が存在し、その運命はあらかじめ「神」によって定められていた「宿命」・・・そしてその2人をめぐり合わせたのは「神」によってこれも定められていた父親の「富への欲望」・・・「神」が定めた「予定」だから、オランダ人にとっての「救済」とは現実の社会で夫婦そろって仲良く生きることではなく、救済とは死に至ることとなるのである。

ここにはもう一つ、キリスト教以前の「自然神」に対する畏敬の念を怠ったものへの、「自然(神)のしっぺ返し」すなわち「遭難と彷徨」の「罰」が存在することにも注目したい。

「神の予定」の前で人間がひたすら祈ろうがそんなことは知ったことではない。全てはあらかじめ神によって「予定」されている・・・というのが「カルヴァン」の「予定説」である。

そこに「虚無」「神秘」「畏怖」が宿ることになり、「選民思想」や「差別」思想」が出現する温床にもなるのである。しかし「カルヴァンの教徒」たちは、「自分は救済されるべき人間」である・・・と自ら信じることによって、勤勉なキリスト教徒として日々を送ったという。
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by noanoa1970 | 2005-10-14 09:56 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)