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ラヴェルのボレロの凄さとは。

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ボレロについてはいろいろ書いたことが有るが、つい先日ポール・パレーのマーキュリー復刻録音を聴いて、ここにあるのではないかという結論めいたものに達することとなった。

そのことは録音されたものを再生することで分かったのか、それとも生演奏だともっとわかるのかは知らない。
小生の場合、ポールパレーの録音を再生した時に新たに確認できたことであった。

第9曲目出特徴的なのはホルンのほかに、「ピッコロ」「チェレスタ」が登場し両者が調整の違う音を奏でるににもかかわらず、なぜか妙に調和していることだ。

もちろん演奏によって、たとえばブーレーズ盤ではお互いが分離独立したままの音楽になっているが、パレー盤ではそうではなく、ホルンも併せ三位一体となった和声を作ってる。
このことが録音技術因果関係があるのか、演奏がなせる技なのか、そのほかの要素なのかはわからない。
しかし小生が過去に何度も聞いた音盤の中で、この音盤によって思いを新たにしたことはまちがいのないことである。

ここでチェレスタが使われてることを知ったのは、2000年の、まだ掲示板華やかなりしころ、妙な音の響きが聴こえてきたので質問すると、すぐにHN「熊蔵」さんから「セレスタ」と回答があった。

セレスタって何だろうと考えて、ようやくチェレスタの仏語読みだとわかったという経験があり、そのころからこの箇所の音の混じり方が尋常ではないことに気がついてはいたのだった。

恐らく今ならこの箇所について書いた著述が有ることは容易に推測可能だし、音楽研究者にとっては結構なネタであると思う。
がしかし、そのような類の書物を呼んでから聞いたわけではなく、自分の耳が不自然の自然、混じり合えるはずのない調性の見事な・・・モアレにも似た響きの交わりを聴くと、ラヴェルは意識的にこのような手法をとったと、確信できてしまう。

しかも音楽理論や作曲技法優先ではなく、感性そのものからの発想に違いない・・・・そういうことを思わせてくれるほど、そしてそのことはその後の前衛音楽、表現主義的音楽、と比較しても勝るとも、劣ることはない。

音楽理論や音楽思想とはあまり関係のない世界であることもシンパシーを、感じられる所以だ。
ピッコロとチェレスタは平行調、すなわち反対側の道路を歩く、小津安二郎「晩春」の父と娘のように、どこまで行っても交わることがなく、当然その接点もない。
がしかし、耳にはそう聞こえなくて、織物同士が重なるときにおこる「モアレ」のように美しく響くのだから恐れ入ってしまうのは、小津安二郎「晩春」の最後の場面での父と娘のようにである。

ただし経験的には、どの指揮者演奏でもそれがわかるのではなく、小生の場合はポール・パレーによって強く気が付かされたという事になる。

録音されたもの、すなわち音盤の良さはそういうことを何度も聞いて確認できることだろう。
そういった音楽的な気づき体験は、小生の場合音盤を繰り返し聞いたことによるもの、あるいは同じ曲の違う演奏を聴いてみて体感したことばかりだ。

確かに演奏技術や生演奏の実況的なレポートなども、役には立つが、その楽曲に深く切り込んだり、いつもと違って聞こえるのはなぜかなどという点に立てば、上記のようなことが発見できるチャンスは、広がるのだろう。

演奏会で感動したというのも悪くはないし、それはなぜかという事には少々乏しくてもよいような気はするがしかし、感動の要因をみうから探る必要があるのだと小生は思っている。

「行列してようやく食べることができたラーメン」のような批評や感想は頂けない。
しかしそのほうが、やろうと思えば追体験可能だからまだましである。

今ではそのことについての音楽研究所も出ていると聞くが、最初の疑問が今から約45年前の事、ベト9・・・4楽章のバリトンの歌い方の違いが何故かという事であったことを付け加えておきたいと思います。
その昔ならば第9は、2枚組ばかりだったのでそうやすやすと買えるものではなかったが、カラヤン盤が1枚で出た時に、其れまで聞いていたコンヴィチュニー盤と違うので、なぜかと思ったことにある。

by noanoa1970 | 2013-06-17 20:35 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)