間宮芳生vn協奏曲1959

この曲は小生が最も多く聞いてきた邦人作曲家の作品だ。
間宮さんといえば、先の「合唱のためのコンポジション」が代表するように、どちらかと言えば、「声」にこだわりを持った人である。

このことを間宮自身がこう語っている。

「私は、このところ特に、言葉を持った音楽を書くことに、強い意志を感じるようになってきた。
それは、単純に言えば、器楽のみではじつに頼りなく、じれったいということであり、音ではなく、言葉でいいたきことが、私にはたくさんあるから・・・・」

「それは、日本語を、その言語生活に密着した所で、音楽化することによって、現代の音楽が持つ、専門的なわくから、音楽を解き放ちたいという希望であり、作曲家が、もっと具体的な問題について、社会に向かって発言する力を持ちたいとことである。
いわばバイオリン協奏曲は、其の事の反動であり、前のような姿勢に対して、他の要求が私の中にあるということを見出した結果の産物である。

現在の私は、それを捨てたい姿勢なのである。

そしてバイオリン協奏曲は、その捨て去りたい姿勢の精算として、わたしに受け止められ、有る特有の意味を持つことになったのである。」

1953年に林光・外山雄三とともに「山羊の会」を結成した意味は上記、「社会的発言」と関係がないわけではないと考えられる。

少々わかりにくい文章であるが、民謡やわらべうたなどを引用した日本語の歌曲を作ることが良いと思っていたし、其の理由もあってそうしてきたのだが、その経緯があって、今はそれに対する新たな欲求が生まれてきた。
バイオリン協奏曲はそう言う過去のやり方を一度清算し、新たな方法で音楽を作るための、つまり器楽によって表現できるということの試行であり、これによってそれまでの民謡の扱い方を、変えてみるということであろう。

しかし間宮は広い意味での民謡というものを「音」として扱ったよなところもあるので、清算とか、決別のように言わなくてもとは思うが、ここは彼の決意の表れと観てておこう。

民謡はやはり土着のママが良い。、それを、引用して、西洋音楽の土俵に持ってきても、端から勝負にならないばかりか、時には陳腐に写ってしまう、ということが身にしみてわかった結果が招いたとも考えられる。

間宮は悩み始めた、それは先の安倍幸明とは大きな違いで、彼の場合は古典的形式の上に、民謡ではなく自作の民謡風のものを併せ書いているから、その姿勢は生涯あまり変化がない。

間宮が着目したのは、ハンガリーのバルトーク・ベラの手法で、民謡の持つエネルギーはそれで尊重しつつ、それに依存するのではなく、素材としたところから別次元のエネルギー、民衆の生活の、あるいは生きる力なんというものとは関係のない、音楽的エネルギーを、生み出すという手法に着目し、模倣することになる。(俗に言うところの分解再構築手法)
しかしそれとて続くわけもなく、晩年には再び「声」の持つ音とエネルギーを再評価した音楽を書くことになる。

バイオリン協奏曲はバルトーク流の手法らしきものが聞き取れる。
しかし3楽章には明らかに童謡(わらべうた)らしきものがそのままの形で引用されるが、子供が歌いながら去っていくように終止していってしまう。
これを先の間宮の言葉、清算とか決別の象徴とする評論もあったと記憶するが、清算し決別しようとしても仕切れない間宮の葛藤の象徴と小生は思うことが有る。

清算とか決別といっても短絡的、短兵急的、革命的に出来ないというところに、日本人のそして間宮の人間性が有るような気がしてならない。


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by noanoa1970 | 2013-01-21 11:42 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(6)

Commented by Abend5522 at 2013-01-21 22:40
sawyer様、こんばんは。
作品を聴き、外国語を直訳したような間宮の文章を読みますと、一種の鬱状態にあったのではないかと想像されます。音楽が限りなく音に解体されて行く当時の状況に与せず、しかし、柳田國男の「常民」や吉本隆明の「大衆の原像」のような思想を生み出すには芸術家であり過ぎた間宮の苦悩がうかがえます。
間宮が言語の音楽化という無理を悟り、声楽作曲家として熟成して行ったのは、一個の作曲家が扱えるのは言葉ではなく声であるという、「音楽の原像」に到達したからではないでしょうか。
Commented by noanoa1970 at 2013-01-22 14:50
Abendさま。
「山羊の会」のことを、外山さんは我々とのディスカッションで確か、音楽家であろうと誰であろうと社会の中の人間だ、というような事を言ったと思うが、山羊の会の結成の主旨に対しては説明を避けたようでした。小生は間宮の第1次挫折、声の音化がバイオリン協奏曲へと向かせ、自分にとって器楽の限界を感じ、第2の挫折で再び「歌」に戻ったのではないかと考えています。ただしよって立つところは最初と後では、かなりの変化があったのではないかと。弦楽四重奏なんかは、非常に前衛的に作られています。こうした経験があって回帰するものが見えたのでしょうね。音楽と社会的発言は一緒にならないことを知ることとなったということかもしれません。社会主義リアリズムをどこかで視野に入れてたのでしょう。外山さんも当時はそうだったように思います。
Commented by Abend5522 at 2013-01-22 20:26
sawyer様、こんばんは。
戦後の日本の知識人や芸術家には、敗戦ショックによる日本へのアンチテーゼとして、社会主義(正確には国家社会主義ですが)のシンパになった人が多いですね。社会主義国家の独裁性が明らかになり、学術・文化がイデオロギーのプロパガンダにされている実態が知られるに連れて離れて行った人々も多いわけですが、間宮は前衛的手法から日本の原点回帰にシフトして行ったといえるでしょうか。
Commented by noanoa1970 at 2013-01-22 21:09
Abendさま。
この頃、「山羊の会」「三人の会」「深新会」「実験工房」など音楽的会派が出来てますが、意図するものはハッキリとわからないことが多いです。社会主義リアリズム的大家としては大木正男さんがいます。「人間を返せ」で有名です。UPするかしないか迷うところですが一部だけでもと思ってます。
Commented by Abend5522 at 2013-01-22 22:20
sawyer様
『人間を返せ』は昔に聴いた覚えがあるのですが、大木の作品で現在持っているのは、彼自身の指揮による交響組曲『五つのお話』だけです。朝比奈隆とともに満州へ渡ったことや、皇紀2600年奉祝曲を書いたことぐらいしか知りませんが。
Commented by noanoa1970 at 2013-01-23 19:32
Abendさま。
小生はこの曲、全曲を通して聴いたことは一度もありません。峠三吉の詩と大きさんの曲が、音楽するには悲惨×悲惨となってしまい、適当とはいえず、芸術作品と呼ぶにはどうかと思っていたからです。ご所有の作品は、多分大木さんが左翼的思想の持ち主になる前の作品ではないでしょうか。