伊福部昭「日本狂詩曲」

狂詩曲はラプソディーを日本語訳としたものだが、この訳は面白いがどうも的を得てはいないように思う。
誰がこれを使って定着にさせたかはわからないが、その本来の意味は民謡を素材とした・・一種の交響詩や変奏曲などの必ずしもソナタ形式にとらわれない自由な小曲ということなんだろう。

伊福部さんのこの曲にも狂詩曲という言葉が使われているが、上に上げた要素を含んだ音楽で有ることはまちがいのないこと。

1937年作曲ということで、しかも彼の初本格的管弦楽作品。
いつもそうなのだが外国で評価されて初めて国内でも評価されることが多いが、この作品もまさにそうであった。伊福部は音楽学校とは無縁、偉い先生についたことも、後人たちがドイツやフランス留学で箔をつけたのとは異なり、自学で作品を作った言わば在野の音楽家だ。

アメリカの指揮者の依頼で作った音楽が評価され、それでチェレプニン賞に応募した結果、「素材とインスピテレーションの豊富さ、巧みさ、それに加えて真の民族性がある」と言う事で、審査員のルーセル、イベール、オネゲル、タンスマン以下総勢8人から絶賛を浴び一位に輝くことになった。

「一風変わった勉強をしながら、自己の音楽的才能によって、この作品を書くことが出来たのは、驚嘆に値する」とランドフスキーが講演で述べ、レイボヴイッツもこの作品について触れてたという。
それだけヨーロッパで評判になった作品だが、やはりチェレプニン賞の力は大きい。

伊福部はようやく日本の音壇に登場することになり、彼を慕って後の日本の音楽を担う逸材も集まった。
彼らは大概非アカデミズムの人たちだ。

日本の近現代音楽界は大きく分類すると、アカデミズム派と非アカデミズム派があり、アカデミズム派の中ににドイツ派とフランス派が存在するという構造となるように思う。

非アカデミズムの代表はなんといっても伊福部と武満。
フランス派と、ドイツ派の音楽は、これから作品を通じて実感して行きたい。
この音盤を入手した学生時代は、聴いていた音楽もたかが知れてるから、そう言われてもピンとはこなかった。
都合よく「日本の弦楽四重奏」と題した音盤が手元にあり、彼らの作品を比較しながら聞くことができる。
山田耕筰、池内友次郎、小倉朗、三善晃、間宮芳生、安倍幸明、高田三郎、黛敏郎、の弦楽四重奏が収録されたものだ。矢代秋男は別音盤で有る。

西欧音楽後進国の日本から見れば、1930年代から50年代はこの2国がイニシアティヴを握っていたことが伺えるが、ある意味では当然のことだ。
印象派以降の仏音楽、12音前後のドイツから多くを学び取るべく留学したのだと思うが、なぜかイギリス&アメリカに眼が向かなかったのは幸か不幸だったのか。

音楽後進国ながらも優秀な音楽家たち多くを受け入れ、他のジャンルの音楽も素材として活用したアメリカ音楽、そして自国の民謡を大切にしながらも近代音楽語法と匠に融和させたイギリス、それらから学ぶことは多かったろうに。
こういうドイツ&フランス偏重主義もアカデミズムの欠陥だといって良いのかもしれない。


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by noanoa1970 | 2013-01-16 10:46 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(8)

Commented by Abend5522 at 2013-01-16 22:41
sawyer様、こんばんは。
独・仏への偏重は、幕末から明治期にかけて国家レヴェルで形成されたものですね。それが音楽にも及んでいるのだと思います。
狂詩曲の「狂」には「常識にとらわれない」という意味もありますが、狂言や狂歌と同じ意味合いならば「滑稽な」になってしまいます。綺想曲、奏鳴曲、遁走曲なども含め、変な訳語が多いですね。
Commented by Abend5522 at 2013-01-16 22:50
sawyer様
下記にある伊福部自身の『日本狂詩曲』に対する一文は、非常に読み応えのあるものでした。彼の思想がよく示されていると思います。
http://www.akira-ifukube.jp/%E4%BC%8A%E7%A6%8F%E9%83%A8%E6%98%AD%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%8B%82%E8%A9%A9%E6%9B%B2%E3%81%A8/
Commented by noanoa1970 at 2013-01-17 14:07
Abendさま、こんにちは。
ご教示頂いたものをひと通り拝読しました。コンクールオ次男的な問題で地番大切な1楽章がカットだれたことと、誰かの真似だということに立腹されておられるようですから、そう言う批判があったのでしょう。費用のあり方についても論及されていることから観て、国内での評価は低かったことが推測されます。
ほかはアイヌ、ギリヤークの箇所とプロコ、ストヴァンスキーの評価が特に面白いと思いました。もう2.3回読まないとならないと思ってます。
Commented by noanoa1970 at 2013-01-17 15:14
幕末期には各藩バラバラ蘭仏米など諸外国の武器と術式を取り入れたのが、フランス式にほぼ統一されていったようで、紀州だけがプロイセンだったようです。
多くは武器の銃の輸入が目的でで、それを使いこなすための技術と、組織的動きを鍛錬したのでしょう。フランスから援助をもらったり兵器や近代軍隊の訓練を教わった明治政府もやがてドイツにシフトしていきます。共和制が日本の立憲君主政に合わなかったからと言いますが、それ以外の理由のほうが大きいのではないかと推測します。交流電力が50と60ヘルツに別れたのもアメリカと、独の機械の輸入が原因でした。すでに明治期から外国の無言の圧力が相当あったのかもしれませんね。日本を市場と見た先進諸外国の圧力、アメとムチ政策上に明治期があったといっても良いでしょう。
Commented by Abend5522 at 2013-01-17 18:11
sawyer様、こんばんは。
明治天皇は西洋医学を嫌っておられたといいますし、昭和天皇はフランス語を学ばれました。
プロイセン流は陸軍の基盤を形成しましたので、その勢力が大きくなるに比例してドイツへのシフトが増して行ったと考えられます。
Commented by noanoa1970 at 2013-01-17 23:05
Abendさま。
キューブリックの「バリーリンドン」で、アイルランド出身の主人公がプロイセンの軍隊に入って頭角をあらわしていくシーンがあります。シューベルトのピアノトリオ2番2楽章が鳴り続けてましたが、七年戦争の時のプロイセンの軍隊を映像で初めて見ました。本物志向のキューブリックでしすから衣装なども当時のものと同じにしたことでしょう。実際軍隊はアイルランド軍を利用して撮影したと言われます。プロイセンはイギリスの力を借りて辛くも七年戦争に称したわけです。幕末明治期に英国との接点があまりないのが不思議です。イギリス民謡はアメリカ経由で日本に移入されたようです。
Commented by Abend5522 at 2013-01-18 03:08
sawyer様
日清戦争後の三国干渉に英国が加わらなかったことが、日英同盟の締結へと向かった要因だと思います。日露戦争における日本の奇跡的な勝利も、英国のバックアップによるところ大であり、摂政宮時代の昭和天皇が英国に外遊なさって両国の関係がより良好なものになったにも拘わらず、わずか20年で同盟が破棄されたのは残念なことでした。米国に対しては、日露戦争後に次なる仮想敵国として想定されてしまいました。
Commented by noanoa1970 at 2013-01-19 13:27
Abendさま。
英国から日本海軍は指導を受けていたのでしょうか。戦艦や大砲などは英国海軍の優秀なところから取り入れたのでしょう。007に象徴されるような、諜報活動はその頃からあったと思いますが情報ももらっていたのだとすれば、英国にとってロシアはいつも脅威であったと言えます。地形的にロシアが海に進出しようとすれば、2つのルートしかなく両方共にイギリスにとって脅威となりますから、そう言う意味でも日本に肩入れしたのでしょうね。