プーランクのオペラ「カルメル派修道女の対話」から
プッチーニのオペラ「トスカ」は、イタリアの王党派とフランス革命を背景にした共和派の政治的争いの最中に起きた悲劇である。
トスカの恋人は、共和派をかばったという罪で監禁され、官僚の親玉がトスカの貞操と引換を迫るという成り行きで、トスカがその男を殺してしまい、めでたしめでたしとなる所、事前の約束が果たされず、トスカの恋人は銃殺刑に、共和派のアンジェロッティは拷問の末自殺、トスカも身投げして死んでしまうという悲惨な結果に終わる。
劇中では、仏革命後ナポレオンがヨーロッパを席巻し、イタリアがナポレオンの支配下に置かれることを拒否したマレンゴの戦いで、ナポレオン軍が敗退したという知らせのもとに、カロリーナ王女によって盛大な「テ・デウム」が模様される。しかしそれはご誤報であったという史実がほんの少し盛り込まれている。この頃イタリアでは共和派が台頭し、王制の崩壊を恐れたため、秘密警察が政治犯とも言うべき共和派の人間を捕まえていたことは史実のようであるが、当のフランスではどうだったのか。
昨日から聞いているプーランクに、「カルメル派修道女の対話」というオペラがある。
フランス革命によって、反革命分子とされた旧体制派の王侯貴族はもちろん、カトリック教会もそう見做されて、革命派から残虐非道な行為を受けたそうだ。
「カルメル」とは、聖書に出てくる預言者エリヤとバールの神官が牛殺しの競争をした場所でもある。
詳しいことは不明だが、カトリック教会では異端的な扱いだったとも言われる。
このオペラは、カルメル派カトリック修道院に入信した3人の修道女を中心に、まさか革命の余波が修道院にまで及ぶという予想も付かないことだが、何れ修道院も破壊されるという運命下の修道女の身の処し方をめぐる話で、「殉教」と「断頭台」いう言葉が象徴する内容になっている。
プーランクは、この物語オペラにダイアローグ風の曲を付けた。
小生が聞いたのは、このオペラの初演者ピエール・デルヴォーの録音である。
歌劇『カルメル会修道女の対話』全曲(3幕12場)
ブランシュ・ド・ラ・フォルス:ドゥニーズ・デュヴァル(ソプラノ)
リドワーヌ夫人:レジーヌ・クレスパン(ソプラノ)
ド・クロワッシー夫人:ドゥニーズ・シャーレイ(アルト)
コンスタンス修道女:リリアーヌ・ベルトン(ソプラノ)
マザー・マリー:リタ・ゴール(メゾ・ソプラノ)
ド・ラ・フォルス侯爵:クサヴィエ・ドプラ(バス)
騎士:ポール・フィネル(テノール)
マザー・ジャンヌ:ジャニーヌ・フーリエ(アルト)
マチルド修道女:ジゼル・テスムーティエ(メゾ・ソプラノ)
司祭:ルイ・リアラン(テノール)、他
パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団
ピエール・デルヴォー(指揮)録音:1958年1月15-31日、Paris, Salle Wagram
革命派の、旧体制派に対する仕打ちは凄まじいもので、「自由、平等、博愛」の精神とはかけ離れた行為もかなり存在したようだ。
ブルターニュ地方やヴァンデでは、王制を支持するカトリック教徒が革命軍に激しく抵抗し、想像を絶する大量虐殺の犠牲の血が流された歴史があり、女子供も虐殺した記録が残されていて、ヴァンデの反乱として歴史に残る。
最近の話と聞くが、フランスのある公園の作業現場で発見された30もの遺体が、1793年、革命軍による反革命カトリック教徒の虐殺だという。フランス革命によって市警となった人の数は30万とも40万ともいわれる。
「ヴァンデの悲劇」そして「カルメル修道僧の対話」からも、革命には狂気が付き物であることを窺い知ることができる。
プッチーニは、「トスカ」に王制側の秘密警察のTOPを登場させたが、政治的宗教的なものとはあまり関係のない人間の欲情と悪事による悲劇として「トスカ」を作ったが、プーランクの場合は革命勢力の欺瞞を表す中で、反革命とは無関係である修道女が理不尽に断首されていく中、「殉教」の意味を見出すに至るまでの葛藤を描く。
注目して置かなければならないのは、最初に「殉教」を言い出した修道女長マリーは、それに従ったはずの修道女ブランシュが、怖くなり家に帰っているのを連れ戻しに来た、修道院から二人の修道女がいなくなった隙に、革命軍が乱入し、そこにいた全員を牢獄に閉じ込めた。
そして処刑の断頭台に全員が立つことになり、「サルヴェ・レジナ」を歌いながら1人づつ処刑されていく。
処刑を影で見ているのは修道女長のマリーと殉教を拒んだブランシェ。
しかしブランシェは、そのとき「殉教」に意味を見出したのか、自らすすんで、最後の断頭台に立つ。
「殉教」と声高に言って先導した修道女長マリーは、ついに断頭台に上がることはなかった。
断頭台で処刑された修道女は15人であった。
後にマリーはこの事件について証言しているというから実話である。
最後は、一人づつ断頭台で首を切られるシーンだが、太鼓と鞭などを使ってギロチンの音を出しているが、それがサルヴェ・レジナを背景に15回だんだんと歌う人数が減ってゆくので声が小さくなる。ギロチンの音は音楽の進行とは無関係に鳴らされるのが怖さを増長させる。
これほど陰惨な処刑の仕方、そして死をも恐れない敬虔な修道女の姿に、背筋が凍りそうで胸が痛くなる。
プーランクは決してドラマティックな音楽を付けずに、修道女たちの心のなかを表現するかのような、神に命を捧げることを美徳とし、殉教こそが神に仕える者の使命だと言わんばかりの音楽を、優しく美しい不協和音によって表現している。
音楽も歌唱もおしなべて表情の劇的表現を抑えたところに、このオペラの深さを感じることになる。
ギロチンの処刑は15人と時間もかかるシーンだが、ここの演出は重要で、リアルでも何かに肩代わりさせてもいけないが、演出家にとっては難問中の難問であるに違いない。
オペラと映画の違いは、オペラがリアリティ不足を音楽と歌唱によって補うのに対し、映画ではそのまんま断頭台を登場させ、処刑は機械的に行われる。
このオペラの宗教的見地には、あえて言及を避ける事にするが、それはなにを言っても「殉教者」の真理を解説するに値しないからだ。
オペラ「カルメル派修道女の対話」の余韻はなかなか消えるものではない。
by noanoa1970 | 2012-11-08 12:37 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(35)
以前から死刑の歴史について関心があり、特にギロチンについては本や映像などで色々と知りましたが、フランス音楽に疎いせいで、『カルメル派修道女の対話』のラストシーンは初めて観ました。ご教示をいただき、またひとつ勉強できました。調べて見ますと、小説が映画化され、その脚本に則ってプーランクが歌劇にしたとのですね。
ギロチンは、1792年に強盗犯ペルチェの処刑に始まり、1977年の殺人犯ジャンドゥビの処刑まで用いられましたので、プーランクにとっては自国の死刑執行方法だったのみならず、1939年までは公開処刑が行われていました。『カルメル派修道女の対話』のラストシーンが戦慄的なのは、こういうことも関係していると思います。
修道女たちは1794年にパリで処刑されたらしいのですが、ロベスピエールも同年に処刑されていますね。その年ですと、死刑執行人たるムッシュ・ド・パリは、ルイ16世を処刑したかのシャルル=アンリ・サンソンです。
カトリック教徒において、火刑とギロチンは一番無残な刑のようです。
それは「復活」という重要なものが、灰になったり、頭と胴体が分離されてはなされないというところからでしょうか。ギロチンはカトリック教徒の徹底弾圧と、死刑のm数が多いため、効率良く死刑にする多面に考えだされたものではないかと思います。ジャンヌダルクの時代には魔女裁判がありましたが、フランス革命の時ほど多くはなかったのと、復活させないための火刑であったように思います。プーランクの作品は、オネゲルの作品に増して悲惨なものがあります。修道女は殉教という崇高な精神によって、進んで刑を受けますが、ジャンヌダルクは死にたくないと泣き叫びます。
ただし火刑の様子を終始民衆の目に晒すという悪魔払いの要素が加わります。仏革命の平等の名のもとに、貴族と平民の処刑を同様にしたというのは口実で、死刑の合理化による旧体制派=王党派=カトリック教会排除にほかならないのではないかと思います。
ギロチンという機械がフランス唯一の処刑方法となった経緯は様々に言われていますが、私はそれまでの剣による斬首や車刑、火刑等にあった宗教性を払拭するためであったと思います。
火刑に関しては、別の方法で処刑してから火中に投げ込むということが行われていましたので、罪業を焼き尽くす=浄化するのが目的であったと思います。
『カルメル派修道女の対話』のラストシーンは、YouTubeにあるものを幾つか見ました。ギロチンが、かくも長きにわたって恐怖の象徴になろうとは、その導入を実現させたギヨタンも、その初期型の製造を独占したクラヴサン職人のシュミットも想像しなかったでしょう。
>火刑に関しては、別の方法で処刑してから火中に投げ込むということが行われていましたので、罪業を焼き尽くす=浄化するのが目的であったと・・・
オネゲルのオラトリオにも有る火刑台のジャンヌダルクの火刑は、縛られたジャンヌに集めた木々に火をつけて、燃えつきるまで民衆に見せしめにしたようです。彼女は魔女とされたので、復活しないように、骨と灰だけにしてセーヌ川に撒かれたといいます。魔女だからこういう処刑となったのだろうと思いますが、恐らく火刑は特別な処刑で、通常は死体が残り土中に埋める方法ではなかったのでしょうか。イエスのように磔にして槍で殺すというように、過ちを悔い改め復活するようにとの宗教的な考え方があったのではないかと思います。仏革命はこうした宗教的要素も旧体制とみなし教会を破壊しカトリックの僧侶も裁判にかけられました。
反革命死刑囚が多いので、死刑執行人の工面がままならず、革命の名で過去の慣例を断ち切っても構わないところから、素早い死刑執行の方法として、断頭台が開発されたとも考えられます。映画で見ると宗教的儀式もなし、1分かからないで、次々と執行されます。我が国でも斬首は極悪人に対するやり方で、武士は切腹でした。詳しいことはわかりませんが、オペラなどからそのような感じを受けた次第です。死刑と宗教は有る時代まで密接な関係があったと思いますが。
切腹は武士の自決方法であり、少なくとも関ヶ原での西軍諸将に対する刑罰までは斬首でした。以降は切腹が主となり、修羅場となるのを避けるために介錯によって首を打つようになったとされていますが、私はそうではなく、本来の斬首に切腹を加味したものと考えています。実際は斬首による刑罰なのですが、形の上で切腹という自決にしたのだと思います。
日本ではヨーロッパほど宗教権力が世俗権力に優越しなかったので、木曾義仲の家来によって斬首された天台座主明雲や、後鳥羽上皇によって斬首された法然の二人の弟子など、古くから僧の処刑は行われていました。
調べて見ますと、カルメル会派修道女の処刑は1794年7月17日となっています。これからわずか10日後にテルミドール反乱事件が起こり、28日にロベスピエールが処刑されますが、この事件後、パリで囚われていた人々は解放されたといいます。歴史にifはないのですが、これが本当ならば、修道女たちが後10日以上囚われていたらと思ってしまいます。
以下、小生には理解の難しかった箇所について、
>イエスのように磔にして槍で殺すというように
当時の十字架刑は、普通長時間掛かり、体力が無くなって呼吸するための動きが取れなくなることによって死んだ様です。イエスは意外と短い時間で死んだために、それで、死んでいることを確認するために、槍でさして反応をみたということです。ですから、槍で殺された訳ではないです。
カトリック教徒にとって、斬首刑が宗教的な意味で残酷なものであったという根拠を、みつけられせん。あのパウロの最期も、ローマで斬首になった可能性があり、どうなんでしょうね。少なくとも、自殺である切腹とは、比較が難しく思います。
ジャンヌ・ダルクは、夜な夜な恥辱的扱いを受けたことによって、死刑となる行動をとった可能性がある様です。本心ではなく、さぞや悔しかったでしょう。
>ジャンヌダルクは死にたくないと泣き叫びます
「神様!」と言って泣き叫んだという話は聞きますが、「死にたくないと泣き叫んだ」というのは、どうなんでしょうね。意味の重なる部分はありますが、同じではないです。
切腹の件は、武士道が形成されていく中で起こってきたものでしょうね。武士の尊厳は切腹にあるという考え方が強くなっていったのでしょう。斬首に切腹を加味したというのはうなずける話ですね。切腹だけで死ぬのは、かなり困難でしょうから、形式として自決とするに至ったのでしょう。介添えといいますが、実質斬首担当なのですね。介添え専門職あるいは担当部署はあったのでしょうか。
カルメル修道女の死刑免除までわずか10日ですか。歴史は皮肉なものです。小説なら助けが入るか、おっしゃるロベスピエールの処刑まで保たすのですが。
ご指摘のキリストの処刑箇所、小生の勝手な思い込みのようですみませんでした。
宗教的残酷性とは、火刑で身体が灰と骨になるのと、首とと胴体が離れ、例えば埋葬も同じ所にできないとなれば、復活できないということに繋がるのではないかと思ったことによります。復活させたくない死刑囚・・・異教徒や魔女、国王や法王に逆らったものとそれ以外の死刑囚の執行方法は違っていたのだろうというふうに思いました。ジャンヌダルクの話は火刑の様子を見たという人の手記があったと言われますがどうなんでしょうね。牢獄に閉じ込められた時に屈辱的行為を、受けたとは予想されますし、火刑は弱い火でジリジリと炙っていき、魔女かどうか途中で確認させたと言われます。一気に燃やすならまだしも、そうでない火刑は、そしてそれを公衆に晒すのですから、魔女狩りになし付けた民間出身の英雄排除は、権力にとって必須のことだったのかもしれません。
ご丁寧にご返信頂き、恐縮です。
人が亡くなる様というのは、荘厳なものと思います。亡くなった方は、直接説明出来ませんので、もし、死に到る状況を含めてその様子が正しく伝わっていなければ、大変残念なわけです。カルメル会修道女のマリーが、司祭に言われて、結局、生き長らえることになったのも、そのようなことが背景にあったようにも思えます。
私も、この曲のピエール・デルヴォーの録音を持っていますが、聴き通すことが出来ないでいます。キツイものがあります。ですが、この曲は、まさしく、上記のことが大きな目的になっている様に思います。
切腹だけで自決したとされる有名人は、近年の人でも阿南陸相でしょうか。死ぬまでに2時間以上を要したといわれています。しかし、三船敏郎が演じた映画『日本のいちばん長い日』では、最後に頚動脈を斬って果てていましたので、純粋に切腹のみだったのかどうかはわかりません。
介錯人という職は無かったようです。『子連れ狼』の拝一刀は公儀介錯人という設定になっていますが、あれはフィクションですね。実在の人物では、代々の山田浅右衛門が有名ですが、その仕事は委託による人体を使った刀の試し、刀剣の鑑定と購入斡旋などだったようです。
介錯は、切腹が行われるごとに、腕の立つ武士が務めたのではないでしょうか。
ご存知かもしれませんが、カルメルの客ひ音の対訳が有りましたのでよろしければどうぞ。最後のシーンに集中しがちですが、そこに至る過程がよりわかりました。
http://homepage3.nifty.com/gl400/carmelites/carmelites_japanese.htm
三船敏郎出演の映画、遠い昔見ました。
切腹に場面、まさに武士の延長にあるような描き方だったような記憶があります。
介錯で試し、切れ味の鋭い刀は高値で取引されたということですね。一太刀で首を切ることは、相当困難だったという話を聞いたことがあります。拝一刀の持つ刀は胴太貫で、実践に強い刀と言われるようです。また水鴎流は現在も静岡に残っているそうです。拝一刀はフィクションンンですがモデルがあったのかもしれないですね。数人切れば刃に血糊や油がついて切れなくなってしまう普通の刀と違い、戦闘の多かった室町時代の刀の様式を取り入れた実戦用の刀らしいですね。鎧の上からも相手を斬り殺すことができると言ってました。肉厚で重く良い砂鉄の鋼を使ったものなのでしょう。
HABABIさんにも連絡したように、カルメルの脚本の対訳がありました。
http://homepage3.nifty.com/gl400/carmelites/carmelites_japanese.htm
対訳を一読しました。それで見る限り、カルメル会は神秘主義的傾向のある宗派という印象です。恐怖の中で息絶えた修道院長から修道女たちは何を学び、それがなぜ殉教という死への憧憬に向かって行ったのか、興味のあるところです。
京都には、女子カルメル会が金閣寺の近くに、男子カルメル会が宇治にあります。クッキーなどを売っているようですが、機会があれば行ってみたいと思います。
殉教に至る心理状態はなかなか想像するにも難しいのと、宗教の中に入ってしまうので、興味はあるものの個人的見解は控えました。ドビュッシーの「サン=セヴァスチャンの殉教」にもあたってみたいと思います。
歌詞の日本語訳の紹介、どうもありがとうございます。私は仏-英の対訳で持っているのですが、意味を理解するのが難しい表現になっているので、和訳は大変参考になります。
一通り見てみましたが、宗教的には少なくとの三つ、あるいは四つの視点が交錯した内容の様と思いました。もちろん、答えはありません。説明を始めると、とんでもなく長くなりますし、所詮、答えがありませんので、この辺りで止めにします。あえて一言言いますと、ある前提条件があって、その前提条件が何故あるのかと問われて、答えが出て来ないようなものです。
小生が気になったのは、ブランシュが日常の日々に対して不安感を盛ったことで、修道院に入ったこと、また修道長がそれを認め、更に彼女に対し気を使っていたことです。修道院に入るということはどういうことなのか、よくわかってないし、当時の社会情勢も関与することでしょうから、解釈がむずかしいことですが、。
このオペラの台本は、「断頭台下の最後の女」という小説が基になっています。直接、その小説を読んではいませんが、ネット検索で見付かる次の論文から、少し窺うことが出来ます。
ル・フォール文学における不信仰者について
濱中 久美子
http://www.oups.ac.jp/english/bulletin/vol2/1_hamanaka_kiyo08p.pdf#search='%E6%96%AD%E9%A0%AD%E5%8F%B0%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%A5%B3'
以上、参考まで
HABABI様が挙げておられる論文は、私も読みました。ル・フォールの原作を読んでみたいですね。彼女は祖先がフランスからドイツに移住したユグノー教徒で、50歳にしてカトリックに改宗したとありますから、興味をそそられる人物です。教友社というキリスト教関係の出版社から全3巻の著作集が出ており、『断頭台の最後の女』は、その第3巻に入っています。短編小説なのですね。
ユグノー教徒は、プロテスタントのカルヴァン派ですね。
プロテスタントからカトリックへの改宗は何故か、気になります。しかもドイツですから。余程の理由があったものと思われます。
「キリスト教文学に関する一考察」
http://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/049/049-05.pdf
の92ページに、僅かですが、関連情報が載っています。
HABABI
ご教示ありがとうございます。
小生の理解力が乏しいので、そう思うのでしょうが、「突然」と「必然」が交差したような感じです。しかしそれだけでは小生には分かりくかったです。作品をじっくり読むとわかってくるのかもしれませんが、宗教人として捉えている以外に、何か世俗的動機があったのではと邪推してしまいます。
若くして亡くなったフランス生まれの女性哲学者の、カトリック神父とやり取りした書簡集を、1、2年前に読むことがあり、その中で、彼女がプロテスタントを嫌っている様なことが書かれていました。理由は、理屈っぽいから、だった様に思います。そんなことを思い出しました。
一方、このオペラの筋を見て、何故か「忠臣蔵」を思い出しました。
別な視点ですが、死ぬことで名が残りました。以前、FMのラジオドラマの中で、「その人が生きていた証拠は、お墓があることだ」と言っていたことも思い出します。
少々話がそれました。失礼致しました。
改修前はプロテスタントのユグノー派、つまりカルヴァン教徒だったらしいですね。予定説など理屈っぽいように小生も思いますが、対比したことがないので、感覚的にです。しかしルフォールの例の作品には、神秘主義的な面があるように思います。そのことと改宗が関係するかはわかりませんが。15名は殉教者という名誉を与えられますが、生き残ったマリはそうなりませんでした。しかしお墓は多分あるでしょう。しかし修道女殉教者にお墓があったのだろうか疑わしく思います。ル・フォールの意味が弱気ものということらしいですが、このあたりもパルジファルによく似ていると思いました。ルフォール=ブランシェ(空白で無知で無垢)=パルジファルという図式があるような予見がします。
言葉足らずだったので、補足します。
墓が残るということは、墓に名前が刻まれれて、名前という証拠が残るという意味です。他の人に知られて殉教した場合には、たとえ墓がなくても、名前は残って伝わるでしょう。
以上、説明不足で、失礼致しました。
ル・フォールが創作したヒロインの姓名が、"Blanche de la Force"というのも面白いですね。"Blanche"は「白い」、"Force"が「力」ですから、言わば「無知は力なり」のような作者の思いが込められていると思います。これが、おっしゃるとおり「清浄にして愚者」という意味のパルシファルと繋がって行きますね。
実際に処刑されたコンピエーニュの修道女たちは、20世紀初頭になって福者に列せられたらしいのですが、処刑から100年以上も経ってから列せられた経緯が知りたいものです。
前後の文章関係が読み取れず失礼いたしました。
墓=名前ということであれば、納得できます。修道女は殉教で名前が残りましたし、マリも生きながらえて「報告」で名が残こりました。時を経ても、誰かが顕彰という形で残るのでしょうね。
そう直感したのですが、パルジファルの最後「救済者に救済を」は未だによくわかりません。「救済」というつながりがあるか否か興味があり、少し考えてみたと思います。殉教者として検証されるのは、やはりローマ法王によるものではないかと思いますが、殉教者認定会議のようなものがあるのかもしれません。もしかしたら、罪なくして不運な運命に置かれた人の呪い悪霊など、ときの権力に対して良からぬことをすることを恐れて祭り神社にするといった意味合いを持つのかもしれません。宗教政治学的には、カトリック勢力が他の宗教勢力に奪われる傾向が強くなった時に、それに対する防衛策とも言えるかもしれません。
ヴァチカンの教皇庁に、列聖省というのがあるそうです。
聖人・福者・尊者というランクがあるようですね。
下の資料がありました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/memo/sonsha.htm
列聖省という決定機関があるということが分かりました。
ランクがあるのが面白いですね。別件ですが、日本へ宣教師がやってきた理由について書いたものがありました。裏日本史的な話ですが、とてもおもしろいです。
九州歴史発見シリーズ
「戦国九州奴隷貿易の真相に迫る」としてシリーズになっていあます。
http://www.geocities.jp/kanemasa2/data5/ten.htm