三木露風の「赤とんぼ」についての問題
最後に三木露風の「赤とんぼ」の詩についての疑問と小生の仮説について触れることにする。
1.夕焼け、小焼の、
赤とんぼ、
負われて見たのは、
いつの日か。
2.山の畑の、
桑の實を、
小籠に摘んだは、
まぼろしか。
3.十五で姐やは、
嫁に行き、
お里のたよりも、
絶えはてた。
4.夕焼け、小焼の、
赤とんぼ、
とまっているよ、
竿の先。
「赤とんぼ」は以上の4つからなる。そして4番目が最初の場面で、後の3つは回想であるといわれる。確かに4・1・2・3という順序で内容を考えれば、作者が大人になったあるときに、幼児期を回想したものを詠ったと考えられる。自身の回顧録によれば作ったのは、大正10年というから露風は30才台半ばであろう。
疑問の一つはたわいもないもので、「夕焼け小焼け」の「小焼け」とはいったい何のことだろうというもの。これについては今夕絶好の夕焼けが見れたので散歩の帰り際、日が暮れて辺りがスッカリ暗くなるまで観察することが出来た。
太陽が地平線、水平線、今日的には建物や近くの山陰に隠れる前の状態から,太陽が完全に隠れる直前までに赤く染まった空を「夕焼け」といい、太陽が隠れて・・・・するとそのとたんに周りが暗くなり夕焼けがいそう際立つ・・・・しばらくすると落ち着いてきて太陽の光も弱弱しくなってくる。これを「小焼け」というのではないかと思った。このわずかな時間はまだ周囲は暗くはなく、赤とんぼが飛んでいても確認が可能な状態であった。時間的には今の季節なら、18時から30分前後のことである。
もう一つ・・・これがたいそう厄介なのだが、3番の詩の「十五でねえやは、嫁に行き、お里のたよりも、絶えはてた」の箇所、「ねえやとは?」、「お里とは、誰の里か?」これにはいろいろな説があるそうだが、露風自身の「赤とんぼのこと」・・・という自筆原稿が発見されたことで、終止符を打ったかに見えたようだ。しかし小生はいかに自身の書いたものであっても、にわかにその内容をそのまま信じることにいささかの抵抗がある。
函館のトラピスト修道院で作ったこと。ねえやとは奉公に来ていた「子守役」のこと。その子守が大きくなったのでお里に帰った。理由は結婚である。・・・などの回想が書かれた自筆の原稿用紙が確かに存在する。
しかしどうしてもおかしい点があり、それは「お里の便りも絶え果てた」の部分、ねえやが嫁に行ってなぜお里の頼りが絶えるのか・・・サッパリ分からないのである。
ねえやは露風の幼児期に育った家に奉公に来ていて、露風のお守りをしたと考えていいと思う。露風は事情で=(両親の離婚か?)家を出て他のところに行ったが、しばらくは露風のお里にいた奉公人のねえやが露風に便りを書いていたのだろうか?またねえやは本当に15でお嫁にいてしまったのであろうか?
明治期であっても15歳ではいくらなんでも結婚には早すぎるのではないだろうか?
当時の適齢期は18から25だというデータも有るようだ。田舎だから早婚なのだろうか・
また
十五でねえやは、嫁に行き
お里のたよりも、絶えはてた
これを並列とする説も有る。すなわち意味の連続性はないという解釈である。しかしこれも小生には説得力に乏しい。
そこでこのように考えてみた。「15で」・・・とは「私が(露風が)15歳になったとき」という意味。ねえやとは姐やでなく「姉や」。もともとこの回想の場面は、露風の幼児期の話だから作ったときからおよそ30年ほど前のこと、しかも露風の幼児期であったから、その記憶の大部分は「曖昧模糊」であっただろうと考えるのが普通である。思い込みや恣意的作為がなかったかといえば、ないとはいえない部分もあるかもしれないいのである。
ねえやは「空想の姉」が投影されたもの、もしくはは離婚した「母親の再婚」の投影で、父親と断絶した状態を「便りも絶え果てた」・・・私が15歳のとき姉やは実家を出て(20前後で)嫁に行ってしまったから、それまでなんらか縁のあった実家=父親の家系とはそれきり縁がなくなったという決別の唄を、「ねえや」を媒介とした空想の話へともって言った。・・・これが小生の推理である。
周りの人間関係はスッカリ変わってしまって、私は今ここにこうしているが、「赤とんぼ」だけは昔と同じように今も私の中にある。・・・・そんな心象風景が読み取れる.
「フト後ろを振り返るとそこには夕焼けが
ありました・・・」
「本当に、何年ぶりのこと、そこには夕焼けが
ありました・・・」
・・・「中央線よ空を飛んで、
あの娘の胸に突き刺され・・・」
と詠う「友部正人」のアルバム「にんじん」から「一本道」を思い出したので聴いてみた。
、
by noanoa1970 | 2005-08-31 07:29 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(11)
「ねえや」は女中さんや子守女のこと。近年「ねえや」を置く家がほとんどなくなったので、「ねえや」を「姉」のことと勘違いする人のいるが、「ねえや」はに女中・子守以外の意味はありません。また、お里は、「ねえや」の里のこと。便りととは手紙のことに限らず、「風のたより」とかいう意味で、ねえやが嫁にいってしまったのでねえやの両親の家ともすっかり連絡がなくなってしまい、ねえやの家のうわさもきかなくなったという意味です。子守りに出るような女はもともと手紙なんか書きません。
それにしても、わずか80年ほど前に、子どものために書かれた文学が理解困難になってしまっているのは、日本だけでしょう。
>戦前は15才で女が嫁にいくことは別にめずらしいことでもなんでもなかった。
このことで参考になるデータなどがありましたらご教示くだされば、幸いです。
>それにしても、わずか80年ほど前に、子どものために書かれた文学が理解困難になってしまっているのは、日本だけでしょう。
ご指摘のように、日本語の難しさもありますが、この場合はとりわけ「詩」だからこそ理解が難しいのではないでしょうか?そしてこのことは日本に限らずあることではないでしょうか?
そうはいっても、この歌の中で、この部分だけが、作者自身のことを歌ってなく、突然「ねえや」のことを歌ったのはなぜだろう?という疑問はありますが・・三番の歌詞に其れまで潜んでいた自身の「主語」が感じられないのも、「詩」のなせる業なのでしょうか?・・・いろいろな自分流解釈があっても良いと思うのです。
親同士が結婚させる約束をする(いいなづけの風習)ことが多く、さらに進んで「どうせ結婚させるのなら、子供でもさっさと相手の家に送り込め」とばかいに結婚させることもありました。私の隣家のおばさん(故人)なんか、12才で嫁に来られた。それにしても若い。実は、露風は「姐やは若くして結婚した。」と言いたかったので、そこに意味があります。詩は記録ではないので自分の年齢を記しても読者には何の感銘も与えないし、言葉を選ぶ詩人がわざわざ明記するとも思えません。「お里のたより。」は奉公の年期が明けてお里に帰った姐さんからのたよりで、手紙とは限りません。近況を他の人を介して言付ける事も含む。姐さんが若くして嫁に行ったので(嫁ぎ先では新参者は殆ど自分の意志を出せない。)姐さんとの縁も短期間で終わったということです。ここに、若くして母親を失った露風の思いが透けて見えます。