ブラームス交響曲4番についての仮説、いや妄想。

ブラームスの4つの交響曲の中で、馴染みにくく、難解であると思ってきたのが4番である。
今回まとめて数多くの演奏を聴くに及び、その理由とこの曲が表現しようとするものが、ボンヤリ見えてきた様な気がする。

この曲の難解なところは、3楽章で完結していると思わせて、実はまだまだ・・・4楽章という必要あらざるように小生が思うものが、つけられていることであろう。

小生は昔からこの4楽章が、なぜ付加されているのか不思議でならなかった。
しかし、ある仮説、いや、妄想を抱くとわかりやすいので、今のところはそういうことにしておこうと思う。

咽び泣くような高弦と静かに見守るような低弦と、そして恥も外聞もなく感情を吐露するような管楽器群。

これは最後まで続くこの曲の主要モチーフ、つまりブラームスの秘めた恋、恋愛の反映の姿ではないか。
ある時はユニゾンで、そしてまたある時は対位法で、男女の恋愛の縺れや綾の表現とみると、3楽章でいったん終結させた恋だが、どうしても断ち切れない未練が4楽章となる。

4楽章にパッサカリアを使いしかも3拍子なのは、少しの希望とかつての恋がまだ冷めやらずに、再び元の戻る…復活への希望の祈りではないか。

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このようなロマンチックな妄想を与えてくれた演奏は、なんと思いもよらぬフランツ・コンヴィチュニーがベルリン国立歌劇場管弦楽団を指揮した1960年の録音であった。

過去に何度となく聞いてきた演奏であったが、今回ほかの演奏と聴き比べて、そのことがハッキリ確認できた。

しかしまさか、コンヴィチュニーがこのような演奏をしようとは、確かに振り返れば、チャイコフスキーの4番5番ではこのような表現の演奏を聞かせてくれたが、彼の残した録音の中では非常にまれであり、たとえばブラ1と比べても、ブラームスそのものの解釈が正反対のように思えてくる。

出だしの千々に乱れる高弦の咽び泣きは、弦がピッタリと合わずに(合わせずに?)それが感情の高ぶりを強く表現しているようだ。
ブラームスの音楽は絶対音楽だという固定概念を大きく打ち破る演奏で、
コンヴィチュニーが意識してそれをやらせたとしたら、やはり只者ではないと思うが、果たしてどうだろう。

オケはベルリン国立歌劇場管だから、下手はしまいしその後はキチンと揃うから、わざとなのか、だんだん気が入ってきたのか、コンヴィチュニーがやらせたのかは、神のみぞ知るというところ。

聴衆の拍手の長いこと、これが物語らないはずが無い。

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これと正反対にあろう演奏は、ウイリアム・スタインバーグがピッツバーグ交響楽団を指揮したもの。
この演奏は、途中で爆竹の音がするトスカニーニ/フィルハーモニア管よりもずっとザッハリヒである。
過去にはこういう演奏を好んでいたような気がするが、今現在はそうではない。

比較視聴の中から、ザハリヒな演奏を出した狙いは、コンヴィチュニーに潜在的にある、ロマンチシズムを強く表現しいたいがためである。

コンヴィチュニーの指揮ぶりは、固定観念からやや解放されつつあるように見えるも、ここまでのロマンチシズムはこ、の曲を聴かないでわかることはないだろう。

惜しむらくは1番4番しか今のところ録音されたものがないが、来日時に2番を演奏したという記録があったと記憶するから、3番もどこかで演奏したに違いない。
その1番さえもCD化はされたが、いまだにリマスター復刻はない。

どんな形でも構わないから、全集として発売を強く期待する。
また、来日時の演奏はベト9しか発売されてなく、NHKがおそらく音源を持っているのだと思うが、こちらも発売を強く希望する。

チャイコフスキーで垣間見れた、コンヴィチュニーのロマンチシズムが、ブラ4で全開となった気がするし、
コンヴィチュニーのもう1つの顔、あるいは多面性、あるいは臨機応変といった、実力者だからこそ可能である演奏が聴ける。

素晴らしいと確信している。

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by noanoa1970 | 2012-06-16 13:11 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(4)

Commented by Abend5522 at 2012-06-16 17:57
sawyer様、こんばんは。
コンヴィチュニー盤の"泣き"は、大きな魅力であると同時に謎ですね。私は、何か即興的なものを感じます。また、この時のコンヴィチュニーは酔っていたのではないかとも想像してしまいます。オケの戸惑いがしばらくは伝わって来ますね。果たしてそれが素晴らしいライヴになったのですが。
Commented by HABABI at 2012-06-17 03:51 x
sawyerさん、おはようございます。

第4楽章の変奏の中に、第1楽章(音が曖昧になって行くところ)や第2楽章(音を短く刻みながら盛り上がっていくところ)でそれぞれ使われたアイデアが顔を出しているように思います。回顧している部分なのだろうと思います。
今聴いても感ずるのですが、第4楽章が終わっても、曲全体が終わった気があまりせず、この後また第2楽章が始まってしまう様な感覚を持ちます。演奏者にとって、この第4楽章は難物でしょうね。HABABI
Commented by noanoa1970 at 2012-06-17 23:25
HABABIさん、こんばんは。
エンディングが2つあるような気がしてなりませんし、おっしゃるように疑似循環形式のようにも聞こえます。4つの中で4番だけが何か特別なものを持っているのだと思ってしまいます。交響曲「未練」というタイトルを付けてしまいそうな・・・
Commented by noanoa1970 at 2012-06-17 23:35
Abendさま、こんばんは。
そうですね。このようなコンヴィチュニー、チャイコでは垣間見れますが、これほど情感を出した演奏はかつてないでしょうね。酔っ払い説…確かに中毒気味だったと聞きますが、あるとしても軽い二日酔い程度ではないでしょうか。酔っていてあのようなまともな演奏は、到底できないように思いたいです。来日大阪公演に行った出谷啓が酔っ払って指揮したと小生に文句を言ったことがありましたが、その時の運命はコンヴィチュニー最高の出来だと評判です。ひょっとして酒が入ったほうが良い演奏をしたのかもしれませんね。ゲヴァントハウス管の生き字引が亡くなってしまったのが惜しまれますが、ヴォイトブリックのCDに、ズスケが書いたのが訳しきれないのも残念です。