コンヴィチュニーの未完成交響曲を聴く

先日のこと、オークションサイトを見に行くと、何という事だろう、コンヴィチュニーの「未完成交響曲」が2つも出品されているではないか。

ETERNAの25センチ盤モノーラルのもっともオリジナルに近い音盤だ。
過去数回見つけて、オークションで競り合ったが、いずれも高額となって負けてしまった。

よく見るとオークション期限が残1日であるのもかかわらず、誰も入札していない。
それでダメモトで2つ共に応札した。


d0063263_1559873.jpg

ところがいつもと様子が違い、土壇場になっても他の応札はなく、結果2つとも格安で落札できた。
どうしても入手したいという信念が幸運を呼んだのか、2枚が届くことになり、現在手元にはおなじものが2枚あることになった。

盤質は両方とも経年だけのことはあって、スクラッチノイズはそれなりにあるし、録音状態もETERNAにしては芳しくはない。
SP録音のLP復刻のような音質である。

すでに何度も聴いているチェコフィルとの「グレート」は、コンヴィチュニーが時々見せるコーダのアラルランドンドはなくむしろ、アッチェレランド気味なのが特徴であり、強いて言えばザッハリッヒともいえる印象の演奏であった。

「未完成」は、「グレート」を上回るほどの徹底したザッハリヒであり、冷たいぐらいにクールな演奏だ。
アレグロ・モデラートという相反したような指示だから、狭い範囲にもかかわらず聴感上の速さは指揮者によって得体のしれないほどあるが、コンヴィチュニーは、いつもと同じように平凡ともいえるような速度で通している。

小さくも大きくも決して揺れることが無いのは面白みがないし、通常コンヴィチュニーは、どこかで必ず小技を入れ込むjことが多いのだが、「未完成」ではそういった小技を一切使っていない。
それで面白みに欠けるきらいがあるかもしれないが、むしろこのことが長く聴ける音楽を作ることに繋がっているのだと思う所がある。

胎児が母親の鼓動の音を聴いているような・・・というと妄想になってしまうが、どの曲の演奏を聴いてもそんな安心感と安定感そして心地よさがあるのは事実だ。

1楽章クレッシェンドも、決して大仰にはならず常に醒めた音楽で、聴いていてこれがブルックナーで見せてくれたコンヴィチュニーの音楽かと思うほど。

「グレート」「未完成」2つのシューベルト演奏に限って、コンヴィチュニーは相当冷静な演奏をしているようだが、この冷静さは、想い入れが強すぎて逆にそうさせるものなのだろうか。

あるいは「未完成」に潜むシューベルトの「無間地獄」に気が付き、そのことで音楽そのものが偏った方向にならないように、きわめて冷静さを保ったのか。

コンヴィチュニーの音楽からは、シューベルトの優しさ美しさも喜びも、その裏側にある孤独や流離いといったものも聴こえてこないが、それでこそ無限の享受の可能性が広がるというもの。

指揮者の解釈を強要する音楽は、いま好きでもそうでなくなるところがあるから、コンヴィチュニーの「中庸」は、小生にとって無限の可能性を持つに等しくなる。
たぶんそのことが、長く聴き続けられることのエキスではないだろうか。

1楽章終了時の音のアクセントに込めた、念押しのように響くコンヴィチュニーの想いは、なんだったのかと想像する楽しみがある。

それにしても2楽章、いささかつっけんどんすぎるのは、途中で終わることに対しての、そして本来あるべき音楽への望みと絶望感が入り乱れた結果、そういった感情の複合要素すなわち感情移入を徹底的に抑えた結果であろうか。

なぜに 「非の打ち所がない 」 といってもよい演奏が、いまだに復刻されないのか不思議だが、マスターテープを紛失したか、瑕疵があるのか。

復刻を願うファンも少なくないと思うが、今までには無いザッハリヒなコンヴィチュニーの演奏としても貴重な音源だから、ぜひとも復刻していただきたいものだ。

[PR]

by noanoa1970 | 2012-04-19 16:19 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)