ブログ連動企画第2弾「私の愛聴盤」ベートーヴェン交響曲6番田園

曲に対する固まった自分のイメージというものは、ベートーヴェンの交響曲で特に顕著であるように思う。

とくに「田園」は、表題とサブタイトルが音楽内容を表すものだから、長い曲にもかかわらず、音楽的には冗長さを感じることはない。

この曲を初めて全曲を通し聴いたのは、パウル・クレツキがフランス国立放送局管弦楽団を振ったコンサートホールソサエティの音盤であった。

会員になると、断らない限り月に1度音盤を送ってくるという、いかにもいアメリカのプラグマティックな考え方の販売方法であった。

残念ながら、父親が購入した大全集のお陰で、会員を1年足らずで止めてしまったから、いくらもたまらなかったし、何枚かは処分されたので、手元にはたった2枚しか残されてない。
ペルルミューテールのショパンとスワロフスキーのシュトラウス一族の音楽だ。

長く会員になっていたら、シューリヒトをはじめとする貴重なレコード音源が残ることになったが、其れがかなわなかったのは残念である。

中学の美術実習の時間に、コンサートホールの発売予定カタログにあった、シューリヒト/バイエルンの、写真のない、シンプルな文字だけの「グレ-ト」のジャケットをマネして作ったことがあったが、ロゴを書くのが難しくて苦労した記憶がある。

クレツキなど、その頃は3流指揮者だと勝手に思っていたが、それはワルター、トスカニーニ、フルヴェン、カラヤン、ベームが巨匠的存在で、レコード会社も大々的な宣伝をしたし、音楽雑誌でもさんざん挙げられていたのに、クレツキやシューリヒトでさえ、まともな評価が与えられなかったことによるものだと思う。。

もちろん中学生の小生の耳自体が、演奏うんぬんを聴き分ける能力などはなく、もっぱら評論家といわれる人の言動に大きく影響されたからだ。

しかし「田園」をいろいろ聞いてきた今、小生の「田園」の選択肢は広くはなくなって、モダン楽器のモダン編成によるノンビブラートあるいはそれに近い演奏というのがその選択の重点範囲となったようである。

その理由はと言えば、ただ1つ。
「ターナーの水彩画のような音を求めるようになったからである。
いや最近では「禅画」…この言葉がオーソライズされているかはわからないが、京都の義父が「禅画社」という水墨画を教えたり、展覧会を開いたりしていたから、水墨画ではなく「禅画」という言葉を使うが、恐らくは臨済宗妙心寺派管長で花園大学名誉学長であった、山田無文老師と懇意にしていたことから、この名前を付けたのだろう。
義父自らは、南砺市福野の本福寺の次男坊で、日本画をやりたくて京都に出た人だ。
ちなみに本福寺の宗派は浄土真宗である。

ターナーも良いが、「禅絵」のように、濃淡が表現する日本的な境地のような演奏を望ましく思うこの頃である。

そうなるとピリオドアプローチ、新版を使用した演奏は外れることになる。
なぜならば、鮮烈なところは、ときとしてよいのだが、いずれを聴いても音が乾いていて、田園風景のみずみずしさを感じられないからだ。
「ソナタ形式を持った印象派的な楽曲である」、田園をそういうと、多くの人からバカを言うなと、お叱りを受けるかもしれないが、絶対音楽という範疇にとどめ置くのはどうかと小生は思うのである。

この曲から瑞々しさを取ってしまうわけにはいかない。
したがって、それを具現化しやすいものとして、モダン楽器の柔軟性、つまり弦楽器をノンビブラートでも薄くビブラートをかけても、その場に合った演奏法をすることによる透明な響きのシナジーを期待してのこと。
(ノンビブラートとはビブラートを必要な時だけ、しかも薄く掛けるものと小生は定義している)

理屈云々よりは、瑞々しさ透明感があり見通しの良い演奏という事である。
この曲は、9つの中では、組み立て構成うんぬんは度外しても良いとさえ思っていて、農村風景の1駒1駒を切り取って、それが繋がっても繋がらなくても、その時の印象を美しく描いてくれればよいのである。

さらにその田舎農村風景は、ドイツに限定するのではなく、フランスやイギリスの牧歌的雰囲気のある農村も含んで良いという想いである。

そのようなことを考慮して、さらに一番長く聞いてきたワルターは外せないのを断わってピックアップすると
ワルター/コロムビア響
ケーゲル/ドレスデンフィル
コンヴィチュニー/ライプツィッヒゲヴァントハウス管1958年ライブ録音
ペーター・マーク/パドーヴァ・ヴェネト管
ヨーゼフ・クリップス/LSO
以上の5種類となる。
ピリオドアプローチ演奏は、軽快さと時には華々しさはあっても、瑞々しさにやや欠けるから一切入れてない。

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上記演奏の中から、ターナーの水彩画あるいは禅画の濃淡が表す瑞々しさを、一番彷彿させるものといえば、ペーター・マーク/パドーヴァヴェネトの演奏であろう。

暮れなずむ千枚田を、雨後の木立の中の田園風景を、ときには朝日に映えた山麓の牧草地を想像することがあり、それらがすべて薄い色彩か水墨画のように、幾段階かのグラデーションで描かれる。

そのような形容が一番ピッタリなのは、ペーター・マークを置いてはないといっても決して過言ではない。

ペーター・マークは「禅」の修行をしたと聞くが、禅が彼の演奏に与えた影響は、おおいにあるのだと思う。
彼の演奏を聴いて、「無一物」という禅の言葉が浮かんできた。
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by noanoa1970 | 2012-05-01 16:08 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(4)

Commented by Abend5522 at 2012-05-02 00:18
sawyer様、こんばんは。
私が何度か人前で引き合いに出した中国の話を紹介します。
一人の軍医がいました。ひっきりなしに運ばれて来る負傷兵を、彼は懸命に治療していました。しかし、傷が癒えた兵は再び戦場に駆り出され、次には死体となって帰って来る日々に、この軍医は「自分はいったい、何の為に治療しているのか」という虚無感に陥ります。そして、彼は軍医を辞め、その答を求めて山奥に住む高僧の下で修行をしました。
数年後、彼は再び軍医となりました。彼は悟ったのです。「私が負傷兵を治療するのは、私が軍医だからである」と。
この「軍医」を「指揮者」に置き換えると、マークが佛道修行で得たことがわかるような気がします。
Commented by noanoa1970 at 2012-05-02 14:09
Abend様こんにちは
ご教示ありがとうございます。
なるほど、このたとえ話はマークの修行の結果と重なるように思えます。「指揮者とは何をなす存在なのか」という問に対するマークの回答がこの「田園」に表れていると思います。
これがライブ録音であることは奇跡です。
Commented by HABABI at 2012-05-03 16:44 x
sawyerさん、こんにちは
CDを持っているので、聴きました。マークの演奏は、マークの意図するものががよく表現されていると思います。最後に入っている拍手で、これだけ仕上がりの良いものがライブ録音であったことを知り、本当に驚きました。
見慣れた風景に別れを告げるような、静かな佇まいの中で楽器がそれぞれのフレーズを奏でる様子から、指揮者の心境が伝わって来るようで、大きな感動を覚えました。
よく知られた旋律の出てくる、この『田園』は、意外なほど、いろいろな解釈を受け入れる曲であると、改めて思いました。
Commented by noanoa1970 at 2012-05-04 06:23
HABABI さん、おはようございます。
ほんとですね。これがライブ録音とは小生も信じられませんでした。第9も素晴らしい演奏ですが、これもライブ録音です。少人数オケと思うのですが、なかなか腕前も立派。マークとオケのメンバーの深い信頼度を表す演奏のようにお見受けしています。非常に微細なアゴーギクを、メンバーはマークの意図を敏感にキャッチしていて、まるでマークの手足口となっているかのようです。透明感ではぴか一の演奏ではないでしょうか。