ブログ連動企画第2弾「私の愛聴盤」ベートーヴェン交響曲3番

ブログ連動企画第2弾として、最初に取り上げることにしたのは、ベートーヴェンの9つの交響曲。
順番に「私のお気に入り」を挙げていこうという単純な企画だ。
お互いのブログ記事投稿に対するコメントでは限界があるので、先ずはそれぞれの思いを披露してからと言う手墳とした。

HABABIさん、abendさんと小生の3人が参加して、既に1番、2番が終了した

ここでご両方のリンクを張っておきますので、みなさんそちらにもお立ちよりください。

HABABIさん「HABABIクラシック音楽夜話」
abendさん「Abendの憂我な部屋」

今回は3番「英雄」交響曲だ。
前回、前々回とは違い、たぶんクラシックファンであれば、多くの演奏をお聞きになっている有名曲だ。

さて何からとっかかろうと考えたが、バスチューユ牢獄破壊事件に端を発し、フランス革命が進行する中、庶民ともいうべき身分の低い士官が、やがて富と権力を握り、独裁政治を経て皇帝にまでなろうとし、ワーテルローの戦いにおいて敗北するという歴史的事実と、ベートーヴェンの時代が重なることだろう。

フランス革命戦争のゴタゴタ期に、彗星のごとく現れたナポレオンに対して、ベートーヴェンはシンパシーをもっていたことは有名な話だ。
ナポレオンの皇帝即位は、啓蒙主義観念論が育成される中、自由平等博愛というフランス革命の理想を裏切ったことに繋がる出来事であると、共和主義者的志向のベートーヴェンが、激怒してナポレオンにささげるために書いた楽譜の表紙を破り捨てたというのが、小生が知っている逸話である。
一緒になって上司批判をした、本来味方であるはずの男が、金と出世のために、いつの間にか仲間を裏切り、一人だけ良い子になって、上司に取り入った、なんていう話は、サラリーマン社会でもあることだから、これらの逸話を全面否定はしないが、創作がかなり入っていることを考慮しておかないといけないだろう。

長々と皆さんがご存知のことを書いたのは、実はこの逸話に関することと交響曲3番には、ちょっと気になるところがあるからだ。

多くの演奏をお聴きになって、そのことに気が付かれていたり、あるいは誰かの言及ですでにご存知かもしれない、一般的には「楽譜の改訂」という言葉で表される、1楽章のコーダのトランペットの演奏の違いのことである。

小生は昔からその部分の演奏は、ワインガルトナー改訂版の演奏で聴いてきたから、其れが一般的だと思っていた。
ともちろんワインガルトナーが改訂したことは、後になって知った事なのだが。

ところが今から10年前に入手した「カイルベルト盤」では、どうも今まで聞きなれたものとは違う。
下のカイルベルト/ハンブルグ響の演奏14分25秒あたりを聴くと、本来トはランペットによって奏されるところを、カイルベルトは代わりにホルン(小生の音盤では音がひっくり返っているからホルンだと思う)が「ド―ミドーソ、ドミソソソソソソソ(ソをオクターブ上げている?)」と吹かせている。
録音の精度に少々欠けるから、ホルンではなく、トランペットかもしれないが。



以下のバーンスタイン/VPOの演奏スタイルが慣れ親しんだもの奏だ。
トランペットが高らかに「ド―ミドーソ(低)、ド―ミソーソー(高)、ド―ミドーソ、ド―ミソーソー」と吹いている。

念のために手持ちの音盤とDLしたもの、ワインガルトナーは勿論、トスカニーニ、エーリッヒクライバー、メンゲルベルク、ワルター、クリップス、コンヴィチュニー、カラヤン、クナッパーツブッシュ、ラオナー、セル、フリッチャイ、バーンスタイン、ミュンシュ他、ブロムデュテットと聴いてみたがカイルベルト以外はすべてがワインガルトナー改訂版を使用しての演奏だった。
(アバドが少し気なるが聴けなかった)

ワインガルトナー改訂版は、これまでの伝統的演奏スタイルといってもよい演奏である。
17分29秒からお聞きください。


さらにもう一つ異なる演奏があって、トランペットで吹かれるところが途中でとぎれてしまうもの。
「ド―ミドーソ」ですっぱり切っている。
これはベーレンライター版によるものだと推測されるが、コーダのトランペットの吹き方に都合3種類のスタイルがあることになった。

バーンスタイン盤とヤルヴィー盤は「版」の違いで、バーンスタインはワインガルトナー改訂版、ヤルヴィーはベーレンライター版を使ったと思われる。
カイルベルト盤はオリジナル版・・・ベートーヴェンが書いた楽譜どおりの演奏ではないかと思う。

15分8秒からお聞きください。


そしてバーンスタイン版=ブライトコップフ版、ヤルヴィー番=ベーレンライター版に代表される1楽章コーダのトランペット処理の差を以下のように見る人がいるようだ。

①ナポレオンの勝利の凱旋とみてオリジナル版を改訂したと思われるワインガルトナー改訂版≒ブライトコップフ版。
②ナポレオンが名誉の戦死を遂げたとみて、トランペットを途中で切れたように演奏するベーレンライター版。

ようするにベートーヴェン或いはベートーヴェン解釈に端を発し、勝利の凱旋時のものとみるか、大敗北した時のものと見るかという事になる。
なぜならば、続く2楽章が「葬送行進曲」だから、1楽章と連続するには、勝利の凱旋即死亡とするには難があるという考え方らしい。
この考え方が、ベーレンライター版つまりデルマーが改定したいと思う切っ掛けだったのではないだろうか。

昨今の演奏ではヤルヴィ盤に象徴されるようなピリオド系統の演奏が多くなってきたから、ベーレンライター版の使用が多くなって来たようで、ワインガルトナー改訂版はあまり演奏されなくなったようだ。

しかしここに小生は大きな疑問を持つものである。
其れはベートーヴェンの「英雄」、絶対音楽だからとまでは言わないが、R・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」のように、ある出来事を順に描き出したものとは思わないからであり、したがって「英雄」交響曲の1楽章と2楽章が長大な歴史ストーリーのまま繋がっているとは考えにくいからである。

上に挙げたように、勝利の凱旋から、すぐ次に葬送行進曲になるのはおかしいという意見があるのは承知だが、1楽章ののちに時間が経過して(音楽上は繋がるようになってしまうが)2楽章になるという事は考えられないものか。
もし1楽章と2楽章が連続したストーリー的に繋がらなくてはならないというのなら、其れは頭の中で考えたことであり、さらに屁理屈と知っていて敢えて言うなら1楽章と2楽章を続けて演奏してしかるべきだろう。
・・・と言いつつ、問題の箇所の少し手前で、「運命の動機」がトランペット(ホルンの場合もあるようだが)タタタターン×6回も聴こえる事がなにか悪い予感をさせるものだと考えると、ナポレオンの凱旋ではなく、戦死に繋がりそうな気もするが、それについては、小生が知る限り何の言及もない。
(運命の動機の発見は、小生にとって凄く意味があることだから、将来的に、意見を変えるかもしれないが、今のところそれはない)

小生はこの曲が連続したストーリーではなく、映画の過去現在未来の場面切り替えのように、時間的つながりが必ずしもあるわけではない場面場面が、音楽的楽章になったものだと思うのである。
3楽章は未来に向かって進もうとする、市民の棟梁ナポレオンの推進力を感じさせるし、4楽章は過去を回帰して数々の偉業への賛歌であるように思う。
そして2楽章、そういう偉大な死と葬儀の場面へと続くのだが、楽章間には時間的隔たりがあるのではないか。
さらに音楽形式あるいは構成が、ベートーヴェンの内部でまだ内容より少しだけ勝っていたから、ストーリーが犠牲になったものと考えてしまう。

したがってベートーヴェンが尊崇の念を抱いた、その偉大なナポレオンの葬儀は、ベートーヴェンが、力の限りの荘厳さ厳粛さを演出したものだ。(皇帝になったとき楽譜を改定したというのなら話はベツだが)
そしてフーガを2楽章葬送行進曲と終楽章で大きな展開として使ったのもその表現であったと推測するものである。
だからこそ、裏切られたという感じを持ったベートーヴェンは、楽譜の表紙を破りナポレオンにささげるという意味のものを消したのではないか。

数多くの良演奏の中で1曲を選ぶというのは、至難の業であるが、そのような視点で考えた場合、小生の愛聴盤の中からの候補はすぐに決まることになる。

いずれも古い録音であるが、
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フランツ・コンヴィチュニーがドレスデンシュターツカペレを1955年に振ったもの。
そしてフェレンツ・フリッチャイが1962年にベルリンドイツ交響楽団(旧ベルリン(放送)交響楽団、ベルリンRIAS交響楽団)を振ったものの2つになる。(音盤にはベルリン交響楽団と記載されているが、そうなると東ドイツのオケを振ったことになってしまうから、たぶん誤記と思われる)

コンヴィチュニーは、ベートーヴェンが曲にこめた想いを、本人に代わり再現しようとするかの演奏だ。
一方フリッチャイは、あくまでベートーヴェンの作った曲でありながらも、自己投影・・・曲が持つものに自分を強く重ね合わせるという演奏のようで、晩年の演奏がそうであるように、ここでも思いっきりスローテンポ。
一音一音噛みしめた演奏だ。
どちらも重厚に仕上がっているが、上にも書いたように、曲へのアプローチが全く違う。

コンヴィチュニーはベートーヴェンの代弁者的(というより寄り添う)で、ベートーヴェンだったら、きっとこのような演奏をしたであろうということを思わせる演奏だ。

フリッチャイは、ベートーヴェンの代役というよりは、自己表出度の高い演奏のように見受けられるが、しかしベートーヴェンに対する尊崇の念は至る所でうかがえる演奏だ。

アプローチの仕方は違うが、どちらも「凄い」ベートーヴェン演奏であることは間違いない。

どちらかを選ばなくてはならないとしたら、捨てがたいフリッチャイ盤だが、礼節をもって遠慮いただき、小生はコンヴィチュニー盤を選択する。

その理由は、演奏そのものではなく録音にある。
コンヴィチュニー盤は、ETERNAの持つ録音技術に支えられ、1955年録音とは思えない、素晴らしい音質だから、モノーラルではあるが、音の表現が豊かで、隅々まで見通せることにある。
そのおかげで、コンヴィチュニーの音楽の作り込みが非常によくわかる。
1961年のステレオ盤全集にはない「ベートーヴェンかくあるべし」の緻密さと迫力をもつ、魂のこもった演奏が良くわかるから。
その点フリッチャイ盤は1962年録音にもかかわらず、低域が団子状態で、細かいアゴーギクや和声が聴き取りにくい。

10年ほど前に発売された、コンヴィチュニーのBOX盤には、GOLとの教会での録音全集の他に、今回小生がお気に入りとしたSKDとの録音を入れたことが、いかに素晴らしい演奏であるかを物語っている。

音盤は単独でも発売されている。
コンヴィチュニーのベスト演奏ではないだろうか。

コンヴィチュニーは、スタジオ録音よりもライブがいいのだが、まだ確信はできないが、ひょっとするとGOLの時より、SKDを振った時のほうがいいように思う。


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by noanoa1970 | 2012-04-14 00:05 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

Commented by Abend5522 at 2012-04-16 22:18
sawyer様、こんばんは。
 『英雄』は、前2楽章と後2楽章が分断されていますね。第1楽章から葬送行進曲へと繋がっていることには、何の抵抗も覚えません。栄枯・盛衰が両楽章によって表現されているのだと思います。ナポレオンにとっての士官→皇帝という上昇的時間軸が、ベートーヴェンにおいては反比例していますね。
 第3楽章と終楽章は、スケルツォと、『プロメテウスの創造物』から主題を取った変奏曲という、ベートーヴェンの高度化した作曲技法を示すものになっています。『スケルツォと変奏曲』という作品名で独立していても不思議ではないと思います。
Commented by noanoa1970 at 2012-04-17 08:51
Abend様
2楽章に葬送行進曲と呼ばれる物を持ってきたことでこの交響曲の意味が却って分からなくなったのかもしれないですね。この楽章も「変奏曲」らしきものがあるように思います。R・シュトラウスが「変容」:メタモルフォーゼンに、この曲のモチーフを持ってきて変奏曲としたのは、ある意味「戦争への抵抗」であったのではないかと妄想できます。
ベートーヴェンの中に、もしそのような想いがあったとすれば、「英雄」の観方はかなり変わってくるかもしれません。
英雄讃・英雄追悼ではなく、反戦争・・・悲しみと怒りの音楽という解釈もできそうです。終楽章の変奏曲は、プロメテウスの創造物、すなわち「火」という人類にとってかけがいのないものを主題とすれば、「火」は竈を潤すが、ときには戦争で人を殺すという側面を持つ。利用の仕方によって様々なものに変化するという、教訓と読むことが出来そうです。以上妄想です。