フォルテピアノによるモーツァルト協奏曲から

小生はピリオドアプローチやピリオド奏法の演奏を好んでいわけではなく、どちらかと問われれば、否定的な試聴者である。

しかし最近になって、エリーナイ/コンヴィチュニーのブラームスの2番コンチェルトのピアノの音色から、フォルテピアノを使用したのではないかという結論に達し、多分それは的を得ているとは思うのだが、どこにもそのような記述は見当たらないから、自分の耳を信じることになるのだが、其れでも一抹の不安がつきものであった。

それでフォルテピアノと言われるものの音を確認しようとして探し聞き及んでみるのだが、作者や時代によって、出てくる音はかなり違っていて、チェンバロのようなものから近代ピアノに近いものまでが存在し、それらをひっくるめてフォルテピアノといってしまっていることが分かった。

200年もの歴史があるピアノを「フォルテピアノ」と一括りにしてしまうことは相当な危険性をはらんでいると小生は強く思うのである。

まだ詳細な研究成果が出ていないものと思われるが、今のままでは大きな誤解を生む事になってしまうから、もう少し細かい製作年代に応じた呼称なり説明なりが必要だと思う。

フォルテピアノでくくってしまうには違和感がある、あまりにも近代ピアノに良く似た音色のピアノも存在する。

一説には、スタインウエイが金属フレームを開発し、ピアノに取り入れる前までをフォルテピアノ、それ以降を近代(モダン)ピアノと呼んでいるらしいのだが、金属フレーム使用以前にも音色的にはモダンピアノとほとんど遜色ないピアノが存在するようだ。

ただしよく聴いてみるとモダンピアノそっくりな(一応フォルテピアノとするが)ピアノでも、全ての音がモダンピアノと同じであるかといえば、全体で言うと、上下の周波数を抑えた感じの音で、響きがカナリ抑えこまれていることがわかるし、高音部の煌きも一瞬はあるが、モダンピアノのように持続はしないし、音の高低で音色が違うことも多い。

低音部では音の響き・・・残響音といってもよい、がとくにデッドに聞こえ、余韻が感じられないから、このようなピアノを使うメリットは、長短の頻度が少ない(カナリ大雑把な言い方で恐縮だが)恐らくモーツァルト以前の作品においてでしかないように思う。

同じフォルテピアノでも、ショパン時代のものになると、アクションも音色もモダンピアノに近くなっていると見られ、そうなると、ショパンをフォルテピアノで弾くという行為そのものが陳腐になってくる。

以前ショパンが使ったものと同じ楽器で、エチュードを弾いたシーンをを見たことがあるが、ショパンの響きには到底聞こえなかったことがあった。(モダンピアノの音のほうが自然に聞こえるようにならされたとも言えるが)とくにショパンはフォルテピアノに戻る必要がないと小生はその時実感した。

d0063263_11421747.jpg
さて本日はフォルテピアノを使用した演奏として、多分耐えられるであろうモーツァルトの協奏曲を聴いてみた。
ピルソン/ガーディナーによる9番と11番の協奏曲である。

この録音演奏につて、小生が一目置いているある人物がブログで以下のように述べている。

「権威でねじ伏せるような古楽器演奏なんて、今時流行らないけれど、面白くしようとし過ぎて、作品を勝手な「解釈」でこねくり回し、結果酷い有様となるのは、私には到底理解できない。演奏における「個性」をはき違えたような演奏とこの演奏とは、正反対の真っ当なもので、モーツァルトの世界を堪能させてくれる。』

以上のような評価をこの演奏録音に与えているが、小生もほぼ同じような感想を持つものである。

音響からしても、この録音で聴こえるフォルテピアノはモダンピアノに近いもので、演奏もさることながらその効果は大きいのだと思う。

使用されたピアノは、モーツァルトの生家にある、アントン・ヴァルター製作の楽器に基づいて、米国のフィリップ・ベルトが1977年に復刻再生したもので、オリジナルは1780年製作でモーツァルトが演奏会で使用したものとされる。

モーツァルトがそれまで使用したとされる、シュタイン作のピアノからヴァルターに乗り換えた理由として、シュタインのピアノのチェンバロ的な響きを好きでなくなったという説があるが、先に小生が指摘した、フォルテピアノの音色がチェンバロ的なものからモダンピアノに近いものまで幅広いということの裏付けとなるであろう。

チェンバロ的な音のピアノならチェンバロを使っても、音量が大きい以外ほぼ同じことだから、演奏会のエポックにはなりにくいし、観客数も多くなってきたであろうし、バックのオケもそれに連れて人数が増えてきたことを考慮すれば、チェンバロの響きが打ち消され気味になることは十分予想がつく。

またモーツァルトがシュタインのピアノと縁を切ったのは、音色もそうであるが、演奏会の変化(観客数会場の拡大)から必要とされる、もっと大きな音を必要とする実用性があったのであろう。

このピノックの録音は、スタインウエイ云々関係なしに、かなりモダンピアノに近い音がするから、あまり違和感がなく聴こえる。

エリーナイのブラ2コンチェルトのピアノも、音色から類推すればモダンピアノに近いフォルテピアノの可能性が高い。

ピノック使用の復刻ピアノの音がオリジナルト比べ同じであったか、それともカナリの違いがあったのかは定かではないが、解説の誘導するところからは、同じような音であるという尋問に掛かってしまう。

小生は大いに疑問を持つが、すぐに検証できることではないから、一応そうであろうこととしておくが、モーツァルトがこれと同じ音色のピアノを使用したとするなら、後期の協奏曲に見られる繊細さと強調がバランス良く存在する理由の謎が解けるような気がする。

この演奏録音で知ることになった大きなことがあって、それは以前に小生が気が付きブログに書いたことであるのだが、指揮者で言えばベルンハルト・パウムガルトナー、演奏者ではグルダ、ブレンデルが一部で採用したモーツァルトの協奏曲演奏のこと。

それはオケとピアノが同時にスタートするもので、一番顕著な例がアーノンクール/グルダの23番26盤の協奏曲で、その他にちらほらあるが、ピアノが埋もれてしまっていて、よく聴かないと見分けられないものがあるから、気が付かずにいる場合も多い。

この録音などは完全にピアノの音がオケに埋もれてしまっているから、ピノックが言っていることが体現できてないのが残念ではあるが、ピノック自身の言葉からはピアノは最初から弾かれてているようだ。
1楽章では非常にわかりづらいが、2楽章ではオケの音が小さいから、ピアノが同時に弾かれrている事がよくわかる。

ピノックはこのことについて以下のように述べている。

「私はこの演奏でピアノを独奏楽器としてだけでなく、オケ総奏部のコンティヌオ楽器としても用いた。すべてのモーツァルトの協奏曲には、鍵盤楽器の独奏者が、コンティヌオも弾くようにとの明確な指示がある、」そしてこのことはアンサンブルの実際の響きばかりでなく、私がアクションと呼んでいることのためにも極めて重要だと思われる。」・・・「近代の演奏はモーツァルトの指示を省略し、オケの序奏が終わるまでピアノの前でただ座っているだけとなってしまった。当時は独奏楽器を含めオケ全体で最初の主題提示部の楽節全てを演奏した。その後独奏者は主役としてオケから離陸し自分の仕事を果敢にこなしていくのである。もしこのことを削除するなら、モーツァルトの楽曲構成の重要な部分を切り捨てることになってしまう。」

以上のように述べ、オケとピアノが最初から一体で音楽を作るということがモーツァルトの指示であったこと、それが欠落すると曲の構成が崩れてしまうことを指摘し、とくにピリオド奏法の一貫としてはなくてはならないものという考えを示した。

モーツァルトの指示がそうであったことを小生は知らなかったが、モーツァルト自身の性格から類推すると、序奏が終わるまで、なにもしないでいるとは考えにくいし、弾き振りをしたことを考えれば、納得が出来ぬjこともない。

そしてそのことが当時のモーツァルト演奏のベイシックスタンダードなものであったという研究から、パウムガルトナーが試みたというのも納得が行く。

ピノックの言及はパウムガルトナー研究の査証であるとも言えるのだと思う。

コンティヌオ:通奏低音は比較的小編成のオケに不足しがちな低音部を支え、リズムも支えるから、それを弾き振りのモーツァルト自身が実施するということは、大きな意味があったのであろう。

これらのことは、モーツァルトがバロック音楽を引き継いでいたという事につながることなのであろうかという疑問があるが、それについては難問であるがゆえに言及を避けておきたい。

初めてグルダ/アーノンクールを聴いた時、そしてパウムガルトナーが数少ないながら、この奏法を取り入れた演奏をしたのを聞いた時、新しい物を発見したような気分になったが、モーツァルトが指示したことであったとは・・・。

そうなると逆にほとんどの演奏が、モーツァルトの指示に反する演奏をしているのは何故だろうかという問題が起きてくる。

指示がある楽譜がオーソライズされてない。
現代のように規模が大きくなったオケでは、ピアノの音が完全に埋もれてしまい、意味が無い。
通奏低音の役割をする低音部は例えばコントラバスを追加することで十分足りる。
弾き振りの習慣はごく少なくなった。

多分以上のようなことであると推測する。

だから比較的ピアノの音が聞こえやすいピリオド系の演奏者が採用することとなったのか。
そういう意味であるとすれば、パウムガルトナー/モーツァルティウム管のブレンデルとの20番の演奏は、モダン楽器モダン奏法のモーツァルトであるから、貴重であると言えそうだ。

何れにしても今回聞いたこの録音から2つのことが、より鮮明になったことは喜ばしいことで、この音盤の大きな付加価値である。


[PR]

by noanoa1970 | 2011-11-24 11:42 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(4)

Commented by こぶちゃん at 2011-11-25 16:44 x
慣れのせいでしょうか…古典派以降でのピリオド・アプローチは納得行かないものも数多くある気がしますが、オケではホグウッド/エンシェント室内(この訳は疑問で古楽アカデミーの方がキレイに聞こえます)やハノーヴァー・バンド、オーケストラ・オブ・ジ・エイジ・オブ・エンライトンメントのモーツァルトやベートーヴェン、シューベルトは有りかな?という感覚です。
どちらにしてもスケールの大きな交響曲には不向きでボリウム感が足らなく思えます。
フォルテピアノは一番解釈が難しく、ベートーヴェンのソナタではマルコム・ビンズの楽器は音程が甘くダメですが、バドゥラ=スコダやピーター・ゼルキンの弾いた楽器はかなり良いと思いました。
但し、フォルテッシモを思い切り弾いては、平面型スピーカーでボリウムを上げた時のようにキャパを超えた歪みが出てしまうので弾き方に注意する必要がある気がしました。

モーツァルトのピアノ協奏曲はペライア/ECOとブッフビンダーでほぼ全集を聴いていますが、どちらもモダン・ピアノです。
これに慣れ過ぎているせいか、新たにフォルテピアノで聴いた場合、どうしても違和感が先行するかもしれません。
機会があったら聴いてみますね。
Commented by noanoa1970 at 2011-11-25 20:43
こぶちゃんさん
>古典派以降でのピリオド・アプローチは納得行かないものも数多くある気がしますが、・・・
小生も同意です。あまり沢山聴いていませんが、ベートーヴェン移行ですと、ロジャーノリントン/ザルツブルグモーツァルテューム管のシューマンノ2番交響曲がなかなかのものでした。シューマンの和声の陰影の濃サは薄まっていますが、いまで聴いたシューマンにはない斬新さがあり、それがピリオド独特の嫌味にはなっていませんでした。
スコダ、デムスのフォルテピアノは聴いてみたいと思ってましたが、いまだ実現していません。しかしグルダがフォルテピアノに行かなかったのは少し不思議です。

ピノックのピアノはフォルテピアノの復刻ですから、相当近代ピアノに近い音だと思いますがやはり低音の響きはそれなりの音です。
Commented by Abend at 2011-11-25 23:31 x
sawyer様、こんばんは。
デムスについては、アメリンクとのシューベルト、シューマンのリートを聴く限りでは、そんなに違和感は感じません。しかし、同じコンビでモダン・ピアノを使ったEMI盤のシューマン歌曲集の方が好きです。
フォルテピアノでは、インマゼールも有名ですね。こちらも、室内楽作品を聴く限りでは違和感はあまり感じません。彼にはモーツァルトのP協を弾いたものもありますが、未聴です。思いますに、フォルテピアノはリートの伴奏や室内楽で使われる場合と、協奏曲で使われる場合とでは、かなり印象が異なるのではないでしょうか。
Commented by noanoa1970 at 2011-11-26 09:42
Abendさまおはようございます。
デムスは小生の落とし穴的ピアニストで、聞きたいという欲求が強かった割にはあまり聴いていません。やはりモーツァルトの協奏曲全曲が今一番の要望です。
人間の声の波長とフォルテピアノは相性が良いのかも知れません。協奏曲ですと、小編成であってもカナリ埋もれ気味になってしまうことが多いようですから、十分力が発揮されないのかも知れませんね。