エージングの間の、隠れ名演2つ
復活したフィリップスCD950を、5年間の休眠から呼び戻すためにエージング中。
音楽流しっぱなしで、50時間以上すでに経過した。
外出時はリピート、睡眠時もヴォリュームを絞って、子守唄代わりにと、かけっぱなしにした。
その効果があったのか、固まりだったの音が、粒立ちの良い音に変わってきて、満足度のより高い音になってきた。
低音部がよりハッキリしてきて、オーケストラでは、配置はもちろん構成人数まで把握できそうな気配が漂うようになって来た。
ようやく長い眠りから醒めつつあるようだ。
装置との相性がが良くなくて、ほとんど聴かずじまいだった音盤も、躊躇なく手が伸びるようになったのも、非常に喜ぶべきことだ。
あまりCDばかりでは、アナログがかわいそうなので、平行してLPレコードも聞くことにした。
もちろんその間も、CDは動かしながらである。
そんな中、ピックアップしたのは、今までの装置では相性が良くないのか、満足できる音が聞こえてこなくて、それで聴くのをやめてしまってから10年以上たつ、オデッセイレーベルの古い録音。
そしてもう1枚は、昔友人が送ってよこした「不滅の交響曲」というBOXレコードの中にあった、マルケヴィッチのベト9である。
ハンス・ロスバウト指揮アムステルダム・コンセウトヘボウ管弦楽団、ピアノ:ロベール・カサドシュ。
ベートーヴェンピアノ協奏曲5番「皇帝」 録音:1961年2月
ロスバウトといえば現代音楽、ザッハリヒ、冷徹といった言葉が浮かぶ指揮者であるが、伴奏指揮を執るときは例外のようだ。
以前のベト1協奏曲のブラインドテスト時もそうだったが、小生の思い描いていたイメージとかなり異なる指揮ぶりで、速めのインテンポではあるが、ところどころほんの少しだが、遊び心があるように思えたから、まさかロスバウトとは、思いもつかなかったのだった。
今回はピアニストがギーゼキングからカサドシュに変わっているが、この2人、書よく似たところがあるように小生は思っている。
どちらもザッハリヒな演奏スタイルだが、ピアノのトーンはカサドシュが明るく、洒落た感じがある。
ギーゼキングにはラヴェルが、カサドシュにはフォーレが似合っている・・・そのような資質と表現するとわかりやすいかもしれない。
カサドシュといえば、学生時代ベーム/VPO、バックハウスとのモーツァルト27番と、ジョージセル/クリーヴランド管、カサドシュの演奏、どちらが良いかで論争になったことがあった。
ほぼ同時にこの2つの演奏の音盤が発売されたこともあって、27番を購入するなら2つのうちのどちらかになっていたようだった。
小生はカサドシュ派で、コロコロと転げ回り、ウィットにあふれるようなピアニズムが、少々重たいバックハウスに比べると、モーツァルトには似合っていると思ったからであったし、26番とのカップリングであったことも要因であった。
20番もそうだったが27番に暗い影のようなものを強く求める人は、断然バックハウス盤を信奉した。
こんなザッハリヒ同士がタッグを組んだ「皇帝」だが、これが以外にオーソドックスで、近代合理主義の権化のような演奏家コンビでも、ベートーヴェンを前には独自解釈などすることは、ためらわれたのだろう。
ロスバウトらしさは失われているようだが「協奏曲」であるから、自己表現を極力抑えてまでも、シナジー効果をあげ、双方が高みに上るために、己を排除し、信頼の元にお互いの音楽を知り尽くしたところからもたらされる、双方の音楽的エネルギーを重ねた結果、ハイグレードの音楽となった。
これはCD化が遅れたためか、ファンが多くないのか、聴く機会に恵まれなかったからか、ほとんど取り上げられることがなかったと思うが、なかなか鋭い演奏で小生のお気に入り、隠れ名盤炉して良いだろう。
オケがアムステルダム・コンセルトヘボウというのも文句なしであるし、録音年相当以上で音質も悪くはない。
ステレオ感がやや乏しく擬似ステのようなところがあるが、ピアノは鮮明である。
(味も素っ気もなく、何の変哲もないBOX盤のジャケット表紙だから裏面の写真にした)
イーゴル・マルケヴィッチ指揮コンセールラムルー管弦楽団、カールスーエ・オラトリオ合唱団、合唱指揮エーリッヒ・ヴェルナー
S)ヒルデ.ギューデン A)アーフェ・ヘイニス、T)フリッツ・ウール、Bs)ハインツ・レーフュス
ベートーヴェン交響曲9番「合唱」 録音:1961年1月
この音盤は、ずいぶん昔のもらい物で、日本ヴィクターが家庭用に発売した「決定盤不滅の交響曲」と題された、6つの有名曲が収録されているもの。
もらってから暫くは、棚の上においたままになっていたから、この6枚のBOXの中身を確認したことがなく、もちろん針を落としたことなどなかったが、あるとき棚のレコード類を片付けていたとき、初めて中身を確認したところ、マルケヴィッチ演奏の音盤があるのを発見した。
今まで聞いてきたマルケヴィッチの中で、チャイコフスキーの「中期までの交響曲」、ストラヴィンスキー「兵士の物語」、グノーの「聖チェティーリア荘厳ミサ」これらは特に気に入った演奏だった。
ロンドンSOとの「シェエラザード」は、小生が全曲初めて聴いた音盤で、もうずいぶん長い間廃盤状態にあるもの、現在復刻されたか確認してないが、されてないのであれば、早く復刻していただきたい。
発見したベト9、小生が指揮者の資質を探るのに、昔から一番良く聴くのがベト9だが、ロスバウトにも共通項が多い、ザッハリヒの典型マルケヴィッチが、ベト9をいかに料理したのか、大いなる興味をそそられたのだった。
聴いてすぐにわかることだが、この人の使用している楽譜が、一般に使われるものとは違う点があることだ。
楽譜が違うといったが、楽譜を見たわけではないから、多分違うに訂正したほうが良いと思うが、とにかく曲想が変わる最後の場面にそのことが顕著に出てきて、全楽章ともに音の追加変更箇所があることを発見できるが、単にオクターブ上げとか音を重ねるというものではなく、明らかに音型を追加変更したものがあることに着目。
耳だけの印象だが、ベーレンライター版ではなく、もちろんブライトコップフ版ではない。
ほんの少しの変更だとは言え、流石に変更して効果が上がるポイントを抑えたかのように、長年ブライトコップフ、そして最近流行のベ-レンライターに慣れた耳には、奇異にそして新鮮に聞こえる。
「マルケヴィッチ版」というものが存在するらしいが、その主な特徴と比較した結果、自身の演奏で果たして採用したのかは怪しいように思う。
したがってマルケヴィッチ演奏の第9での着眼点は、ほかのところにありそうだ。
大きな特徴は、まず普段とは違う音が聞こえることにあるが、この事がマルケヴィッチ版によってかどうかは、多分そうではないように小生は思うがどうだろう。
着眼点は、版云々でなく、実はほかのところに存在する。
和声・・特に普段は聞こえにくい裏の音まではっきりと出すこと、終始インテンポで通すが決して「淡々とした」でなく、強烈なティンパニの打撃がポイントポイントでオケを引き締めるから、ある種の区切り、新しい次音楽の始まりのような感じが出て来易い。
そしてマルケヴィッチの、「ベートーヴェン第9の真髄は対位法にあり」、といった考え方が強いように感じられる。
どなたかの著述が原因か、いかにも通ぶって、第9終楽章を付け足しの楽章だから、なくてよいとする傾向が、一部のクラシックファンに根強いようだが、ベートーヴェンにとっての「対位法」「フーガ」が、いかに重要な意味を持っているかを無視した暴言のように小生は思っている。
色彩感を強く出すことで定評がある仏オケ、それもラムルー管という非超一流オケを、中低音が充実し、重心の座った高みに上げたことは、マルケヴィッチであるがゆえに、訓練をめぐって相当厳しいものがあったことを推測させ、団員とのアイダに相当の確執があったと思われるが、演奏はそのようなことは微塵も感じられず、仏色を排除しつくして、ラムルー管が独墺のオケに変貌したかのように思うほどであった。
独唱陣は、テナーが頑張りきれてないように思ったが、ほかはかなり良い出来ではないだろうか。
合唱陣も思いのほか良い出来だ。
ロスバウト/カサドシュ盤は、お互いの音楽観を認め合ったところからの、シナジー効果が良く発揮できた、良い演奏である。
マルyケヴィッチのベト9は、ベートーヴェンの「対位法」が、いかに意味性を持つかを、余すところなく表出した演奏で、第9の新しくも根源的な解釈だと思う。
by noanoa1970 | 2011-09-22 22:36 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)
世の中では、マルケヴィッチはトスカニーニの方にいるような説が広まっていますし、アメリカで助手をしていたというような事を言う人もいます。が、事実ではありません。そもそも、彼は戦前は指揮業をやっていないわけですし、トスカニーニとは一面識もなかったはず。
彼は明瞭なフルトヴェングラー派で、ベルリンとの録音やコンサートも多く、フルトヴェングラーとの間で指揮技術や教育について相当に議論したそうです。彼のリズムのとらえ方はどこかで聞いたと思っていたのですが、気が付くとフルトヴェングラーと共通するのです。インタビューでもフルトヴェングラーへの尊敬を述べています。
フルトヴェングラーの強い影響を受けたものが、即物的であることなどあり得るのでしょうか。