マーラー「巨人」のフラジオレットその後の後

2006年2月16日ののブログ「フラジオレットその後」で、ようやくフラジオレットの音色が聞き分けられるようになったと書いたが、今日はそのフラジオレットが、オーディオ的により聞き分けられるか、メインSP装置を変更し、調整がうまくいった現システムで再度聞いてみることにした。

ソースはいろいろ考えられるが、ここはやはりアナログディスクでと、CD・LPあわせると、多くの人が所有していると思われるマーラーの「巨人」を、ワルター/コロムビア交響楽団の演奏で落ち着いた。

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小生が所有しているのは、輸入盤の廉価盤、「odyssey」レーベルのものだ。
このレーベルは、米コロムビアが出した少し古い録音を、再発していて、オーマンディの「英雄の生涯」、セルのドビュッシー「海」、カサドジュ/ロスバウトの「皇帝」など、小生が所有するものの中にも名演があり、このシリーズには名録音もかなり存在する。

以前にじっくり聞いたのは2006年、今回はそれから5年たってのことだが、こちら側の大きな変化は、スピーカーをQUADからYAMAHAへ、フォノカートリッジをオルトフォンからDENONに変更し調整したことだ。

そして、カートリッジをDENONに変更したので、プリアンプをアキュフェーズC-220プラスFRのトランスから、YAMAHAC2aのMCポジションに変更した。
つまりカートリッジの増幅を、トランスからヘッドアンプにしたということになる。

どれが音の変化に起因したというより、これらのシナジーで、以前にも増して素晴らしい音になったと思う。
自画自賛のようだが、うまく鳴らすのがなかなか難しいかったYAMAHA、NS-1000が、かつては到底考えられないほどの、美音を聞かせてくれるようになったということを、いいたいだけであると思っていただければ幸いである。

特にクラシックのレコーディッド音楽の再現性を判断するときに、ピアノ、弦、管楽器、ヴォーカル、それらの総合、定位、左右の広がり感、奥行き感、人によっては生で聞く時のような音の再現性、がどのように出ているかをチェックすることが多く、それも必要なこととは思うが、今回は少し毛色の違う観点からのチェックを試みることにした。

それがマーラーの「巨人」を選択した理由で、なぜかといえば、それこそ、この曲1楽章冒頭からかなり長く奏される、弦楽器による「フラジオレット」奏法の音があるからだ。

これによって聞こえる音は、通常奏法の音より倍々の高い音になる。
簡単に言えば「倍音成分」の音といえる。

この倍音成分の音、しかも最初は弦楽器全体、順次ヴィオラ、バイオリンとパートごとに奏されるが、特に最初の音が弦楽器全体で奏されたことがわかるか、それ以降に続くバイオリン単独のフラジオレットとの違いが判別可能か、そのあたりは、装置、装置以外の環境も含め、そして録音そのものにとっても重要なポイントであると思われる。

「巨人」の冒頭最初の部分では、すべての弦パートがフラジオレットで弾いているから、高音の弦の音という聞こえ方をしがちだが、優れた音響装置では響き方が違うはず、そういう考えにたって、旧装置での音の印象と現装置での違いを確認してみようと思い立ったのだ。

旧装置でもフラジオレットの音は聴くことができたが、聞こえ方に違いは出たのかどうか、その1点に集中して聞いてみた。

旧装置での音は、過去の記憶でしかないから、印象に確証はないが、それでもその時の音の印象は、割と鮮明だから、多分大きく外れることは無いと思う。

まず驚いたことは、冒頭の「A」音・・・ピアノにて確認、のフラジオレットが、スピーカー全体から聞こえてくるから、バイオリン単独ではなく、弦楽器すべてで奏されていることがわかったことで、このことは旧装置では気がつかなかったことだ。

おそらく今度の装置では、レコードの出す種々の雑音が、かなり抑えられたことで、このことはフォノカートリッジとその周りの変更によるところが大きいだろうと推測される。

過去聞いてきたいずれのLPレコードも、ちょっと驚くぐらい、サーフェスノイズ、スクラッチノイズなどアナログディスクの最大の欠点が減少し、音楽自体の詳細情報が聞こえやすくなったことに、要因があるのではないだろうか。

このことによって、再現の範囲が狭まっ足り、おとなしくなってしまったという印象は、まったくないといってよいから、おそらくは旧装置での音の入り口周り、特にオルトフォンの特定周波数領域と、そのほかの音響環境のマッチングが良くなかったのだろう。
装置はあくまでも相互作用、高価なものが絶対良いのではないことの証拠である。

バイオリンのフラジオレットでは、音がモアレのように漣をうって聞こえてくる。
前に聞いたときは、レコードの物理的な揺れが原因かと思ったが、どうもそうでなく、フラジオレットが重なることで、音が波線のように波打っているのが聞こえるのだ。

そこにほかの弦が加わるから、その波打つような聞こええ方がさらにハッキリ(といってももともと極小の音だから、それなりであるが)聞こえてくる。

フラジオレットにの音に乗って、次いで、管楽器がベートーヴェンの4番交響曲の冒頭と同じ、下降する音型を奏でると、カオス的な雰囲気が心を打つのは、マーラーの意図した思う壺であるに違いない。

旧装置では、メロディが主役となりがちで、混沌とした雰囲気は、今ひとつであった。

この音盤の録音は1961年だそうで、50年代ですら、コロムビアはかなりの好録音を残しているが、60年代では、さらに技術革新の性か、録音環境が良くなったようで、録音状態は、年代を考慮しなくても十分素晴らしい。

小生は、60年代中ごろに初めて聞いたときは、雑な録音そして演奏であるように感じたが、それは実にとんでもない誤解で、昨今の優秀な装置で聞きなおすと、コロムビアの録音技術の高さにめて驚くとともに、そのころトリビア情報として「知ったかが」方々で言い放っていた流言蜚語 、コロムビア響は2.3流オケのトラを集めた三流の録音専用オケであるから、一連のワルターの演奏は、オケであるコロムビア響に欠陥が多いなどと言うものがあった。

小生がそのころ所有していたワルター/コロムビア響の音盤は、数少なかったし、家庭用ステレオといった良きうない環境でしか聞けなかったこともあって、そんな情報を雑誌で平気で言っている音楽評論家の口車に乗ってしまい、自分の耳より似非権威を優先してしまった時代があった。

しかし時を経て、聞くチャンスが多くなるにつれ、このオケを三流とする根拠がどうも薄く、超一流とは思わぬものの、かなりのアンサンブルテクニックを持っているのでは、と思うようになった。

アメリカのオケは、あまり名が通ってなくても、実力のあるオケが多いように思うが、資本力などで海外の演奏者たちを招聘し、直接間接的にオケの人的原動力としたことによるものだろうし、歴史と伝統のある西欧に対抗するため、追いつき追い越せで、音楽学校をたくさん設立したことにも要因があるのだろう。

とにかくコロムビア響が、悪くないオケであるということは、素直に多くの録音を聞けば理解できることである。

比較すべきもないが、かつて同時に聞いた「カルロス・パイタ」率いる「ナショナルフィル」は、フジオレットも少し危うげで、強いて言えばこういうオケを三流というのであって、コロムビア響は決してそうでない。

ともあれ、新装置での音は、以前に比べ、音盤に本来録音された音を、よりリアルに再現するから、以前の印象とは少し違う印象を受けることになる。

ベールを1枚はがしたような、という例えで理解していただけるだろうか。

すこし詳細に語れば以下のようになる。

音のしまりがより強くなったし、中低域にマッシヴさが増した。
高域の伸びがより出てきて、金管が強めに出るが、心地よい響きである。
ひずみが少なくなったせいか、ヴォリュームを数段上げて聞きたくなるし、そうしても決してうるさくならない。
奥行きはあまり感じないが、定位が前にも増してはっきりし、楽器の位置がよくわかる。

しかし先に書いたように大きな違いは、フラジオレットの表現力であろう。
そのことでこの音楽に更なるリアリティが生じる結果となり、引いてはワルター/コロムビア響の演奏に、大きな付加価値を与えることに繋がった。
これに奥行き感が伴えば、言うことはないのだが。

以上のことから
ワルター/コロムビア響の一連の演奏録音は、再評価に十分値する。
改めて50年代後期から60年代にかけての、米国の大手レコード製作会社の録音技術は、素晴らしいものが多く、今でも立派に通用するものが限りなくあり、イギリスのDECCA,オランダのフィリップスとともに優秀演奏優秀録音の宝庫であることを確認した。
昨今復刻CDが出回っているようだが、オリジナルに忠実なリマスターであることを願いたい。

小生は最近うすうす気がつき始めているのだが、ワルターという指揮者の資質には、過去から言われ続けているような「優しい」「人間性豊か」「おおらか」「人徳ある」「歌心ある」「柔和」などなどで、語ってこられた音楽姿勢とは違うなにかが、存在しているのではないかということだ。

そしてそういうワルターに対する風評は、当時聞こえてきた音盤と録音装置での、ぼやけ気味の音によって、もたらされた可能性があるのではないだろうか。

30年代のモーツァルトを聞いたときに、以外や以外、かなりザッハリヒな演奏をするのに驚いたことがあったが、うまくまだいえないが、ワルターの二面性をテーマにいずれ書く時が来るのではないかと思っている。

比較的録音のよいコロムビア響、NYKフィルとの演奏を中心に、積極的に聞いてみたいと思う欲求は、ここからも来ている。

昔入手した、第9、ザ・グレ-ト、ドヴォ8のリマスターは芳しくなかったが、極最近入手の「運命」「田園」のリマスターリングは、かなりリアルで、レコードに録音された音をよく反映していると思われる。

この「運命・田園」がカップリングされたCDのデータを見ると、プロデュースが「ジョン・マッキュアー」、エンジニアが「ウイリアム・ブリタン」。
1958年1月27.30日録音となっている。
SONYレコードSICC1068、DSDマスターリング処理されたCDだ。

DSD云々ではなく、小生の耳には、ジョン・マッキュアーがプロデュースしたCDが、ハイを押さえ気味、逆に言えばローをほんの少し強調しバランスを取ったマスターリングのように聞こえるが、オデッセイのLPの音に近く、LPが入手困難な今、オリジナル録音により近い音を味わう上で、このシリーズが一番適しているのではないかとと思われる。

SACDやハイスペックCDが、発売されているか否かは未確認だが、まずは「巨人」を集め比較視聴してみたい。
より詳細な情報と優れたリマスターリングによって、ワルターの指揮ぶり、そしてコロムビア響の実力のほどが、よりわかるはずだ。

その音盤に録音された音楽情報を、余すことなく引き出すことは、プロデューサ-や録音技術者を通して、視聴者が演奏録音に肉薄出来うる初めの一歩である。

このことがままならないと、誤った演奏評価や録音評価になりがちだ、ということを、知っておかなければならないだろう。

「良い音」とは、「音質」にとどまらず、音盤の音楽情報を、余すところなく引き出すことでもあるといってよく、このために音響装置を、そして、その装置の音を、満足度の高いものにするため、さらに磨いていくのである。

「良い録音」とは、そうやって切磋琢磨した装置で、音盤の持つ情報を可能な限り引き出し、それにプラスして、満足できる「音質」が得られたときの音盤の音だということだろう。
つまり、音楽情報量プラス情報の音楽的質が、より高度に内在された録音ということではないだろうか。

今回オデッセイのLPで、ワルターの「巨人」を改めて聞きなおしてみたが、冒頭のフラジオレットが、この曲において、如何に重要なポインjントであったかを、再認識できたのも、フラジオレット奏法の音が、よりリアルに繊細に響き聞こえてきたことによる。

フラジオレット効果・・・「してやったり」「思う壺」と、きっとマーラーはほくそ笑んでいるに違いない。
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by noanoa1970 | 2011-09-16 17:53 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)