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ErlkönigとErlenkönig

ドイツ語には全く疎い小生だが、ゲーテの「魔王」ドイツ語表記を、レーヴェの「魔王」を聞きながら、つらつら眺めているうちに、不思議な、事に気がついた。

全文は長くなるので、該当箇所の詩文2節目の2行と3行を上げる。

Siehst, Vater, du den Erlkönig nicht? (子供) お父さんには魔王が見えない? 
den Erlenkönig mit Kron und Schweif 冠をかぶって、しっぽを垂れた(長い服を着た)魔王が?

黄色の文字の箇所のスペルが違っていることが、お分かりだろうか。
念の為に他のものも当たってみたが、それらは全て上のように書かれていたから、これで間違い無いと思う。

音楽を聴いていても、発音が似ているから気がつかないが、ゲーテは、そして彼が引用したヘルダーは、明らかに2つの言葉を使い分けているにもかかわらず、2つの黄色の文字は、全て「魔王」と翻訳されている。

ErlkönigはErlkönigsだから「榛の木の王」、ゲーテの造語とされるが、ヘルダーがすでに使っていたという説もあるからゲーテが借用したのかも知れない。
Erlenkönigは、「Elfenkönig」で、ELF(エルフ)の王、つまり「妖精の王」=魔王である。
妖精とするものが多いが、小生は古代の神々の流竄の姿であるから、妖精は似つかわしくなく、妖怪、あるいは妖魔、または精霊のほうが良いと思うのだが。

榛の木はハシバミで、カバノキ科に属す樹木であるから、榛の木は固有の樹木ではなく、樺の木や楢、樫を含む広葉樹木の象徴とも考えられる。
果実は食用になり薬品にもなる榛の木は、大事にされたのだろう、古代民族の樹木信仰のトーテムとなった。
そして薬用の他にも炭にしたり薪にしたり、建材としたり、樹木は古代から生活の基本であった。

エルフとは、古代から各地に伝わる精霊で、これも神々の流竄の姿であり、エルフの王は、古代自然神の頂点に立つ神である。

一方の榛の木の王は、エルフの下に位置する樹木神ということになる。

さてこのことを理解した上で、ゲーテの「魔王」を見ると、「魔王」としてバラード詩の中に出てきた「魔王」は、一種類ではなく、」魔王の娘を」入れれば、数種類登場していることになる。

和訳ではこのことを無視し、いずれも「魔王」だけで通しているが、本来ならば、榛の木の王と精霊の王を分けて翻訳しなければならないのではないか。

ErlkönigとErlenkönigを分けて表記したゲーテの原詩は、ヘルダーの受け売りではないかと小生は思っているのだが、それはゲーテがヘルダーを引用して自作品として発表したもの(下賎な言葉ではパクリという)が有るという事実からの推理である。

ゲーテが意識して2つの言葉を使ったは、ハッキリ断言できないが、少なくとも2つを使ったというのは事実であるから、其々の言葉は、ゲーテ若しくはヘルダーにおいて重要な意味合いを持っていたと推測される。

ゲーテは4行詩という伝統的詩の形態を使って、バラード詩に仕上げた関係で、発音を重視したが、同じような発音のため、そのままヘルダーの使い分けを踏襲したのではないだろうか。

このことから、「魔王」の邦訳に置いて、Erlkönigを榛の木の王、とErlenkönigは精霊の王としなければ、ヘルダーやゲーテが秘めた2つの言葉が、「魔王」の一言にすり変わってしまっている。

本来「魔王」に登場するのは、榛の木の王、精霊の王、そして精霊の王の娘、これらの魔族が登場し、それらは其々レーゾンデートルを持つというのに。

昨日の「alten Weiden 」を、「古い柳の木」、「シダレヤナギ」とすることの疑問は、榛の木の王が登場するのに、「柳」は」おかしいだろうと思ったところから来ている。

「緑」の樹木から柳とする邦訳は、言語の範疇からは正しいが、民俗学的知見を絡ませれば、ちがう訳をしたと強く思われることだ。辞書が正しいとは考えないほうが良いと思う。

それにしても、なぜに、魔族がこぞって、しかも精霊の王まで登場して、子供を連れ去ろうとしたのだろうか。

この物語は、病気、しかも熱病と断定するものまであるが、病気の息子を抱いて、恐らくは医者のところに行こうとするのだろう、父親が馬に乗って夜道を疾走する途中に、熱病に冒された息子が、魔王が来て僕をさらおうとしていると、うなされて訴える場面、そして父親はそれを否定しながら、子供を勇気づけるのだが、それも虚しく子供は死んでしまった・・というものだ。

しかし、かつて信仰の対象であった古代の神々の流竄の姿であるという、魔王の出自を考えれば、当初から、子供を死に追いやる目的があったと考えるのは、早計のような気がする。

古代の土着の神々の流竄の姿である魔王を無視し、悪の権化としての「魔王」としか認めない父親・・・暗にキリスト教徒を表す、父親が、馬で禁断の森(魔王の領域)を通り抜けようとしたこと、かつての神々の存在を、子供が気づいたのに、父親は気が付きもしなかった、そのことに対する復讐で、子供を父親から離して、自分たちの世界に連れていった。

つまりは、古代土着の自然神を完全に駆逐し、無視してきたキリスト教徒が、魔王たちの領域である禁断の森に足を踏み入れたことで、自分の死以上の残酷さを味わうはめになった、というふうに読み替えることが出来、それこそ北方ゲルマンの民話やケルトの民話バラッド、魔王の娘、オルフ殿、ロード・ランダルに見られるものと共通するもので、ヘルダーが採取した各地の民謡にある共通した、父親殺し、姉妹兄弟殺し、子殺し、夫殺しの一環であることがわかってくる。

キリスト教によって改宗を迫られた古代民族は、かつて自分たちが信奉した自然神の名残を、古代の土着神をないがしろにしたことへの罰として、語り継いでいったのではないだろうか。

それらが民話となり、人々の記憶に残ることとなったのを、ヘルダーが、採取してまとめたのが、民謡集であろう。

「魔王」には数種類の自然神が登場していることを、小生も、長い間気がつかなかったが、もっと早くそのことに気がついていたならば、歌曲「魔王」の受け止め方も、相当違っていたはずである。

しかしこのことについて指摘したものは、小生は未だに知らないが、もしあればご教示願いたい。

by noanoa1970 | 2011-08-11 09:25 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)