聖書のエピソードを題材にした音楽

先に小生は、シェーンベルクの「ヤコブの梯子」について書いたが、このことから話が発展し、聖書の中のエピソードを読み解くために、宗教的視点以外に、文化社会学的な視点、生態学的視点、文明論敵視点、民族的視点、政治経済的視点、歴史的視点など、様々なアプローチがあることを知ることとなった。

ブログにコメントを頂いた皆さんにも、多大な思考時間と、情報収集の時間を、とっていただいたことに感謝の意を表したい。(最近はコメントというより、議論の様相を呈してきて、ブログもかつての掲示板ライクになりつつあるのは、非常に喜ばしいことと、小生は思っている)

「ヤコブの梯子」に続いて「モーゼとアロン」をアップしようかと思ったが、「アロン」についての情報と評価がいまだ定まってないので、少し先に延ばすことにて、今回は「放蕩息子の帰還」を取上げることにした。

この逸話は、ルカによる福音書 15章以下に出てくるキリストの例話である。

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相当有名な話のようで、題材にして描かれた絵は、レンブラントの最高傑作とも言われている。

ご存知の方も多いと思うが、簡単にあらましを。

ある家系に兄弟がいた。家長は兄に家督を譲るつもりであったが、弟は生前贈与を主張し、家長はそれに応じ、金銭?を弟に与えることにした。(金銭?与えたのが何かは記載されてないと思う)
弟はもらった金銭?を持って家を飛び出し、働きもせずに好き勝手な快楽的生活をし、その果てに持ち金が無くなると働くすべもないから、生活に困窮し食い扶にも事欠くようになった。
考えた挙句、彼は親の家に戻ることにし、その際その家の次男としての立場を放棄し、雇い人になる決心をする。
しかし帰還した弟に対し、家長である父親は「良くぞ帰ってきてくれた」とばかりに、宴会を開いてもてなしたから、それを見た長男は嫉妬の念に駆られることになり、家長に詰め寄った。
そのとき家長は、長男に対し、『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』こう言って諭した。

この話から読み取れるのは、「回心」というキーワード。
「回心」とはウイキペディアによると、『神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返る個人的な信仰体験のことを指す』とある。

つまり放蕩三昧の弟だったが、自分の罪を知り、悔い改めなおして生きること、そしてそのために、かつて持っていたプライドを、かなぐり捨ててまで家長に従うことを決心したということであろう。

食べるために仕方なく、ということではないと聖書は言っているように取ることが出来る。

さらに弟に思い入れの強い父親をうらみ、弟に嫉妬心を抱いた兄に対して、「悔い改め回心」はパフォーマンスのように見えるだろうが、食べ物にも事欠きどん底の生活を経験した暁に、そこから這い上がってでも、かつての次男の立ち居地を放棄してまで生きようとすることこそが「悔い改め回心」であるから、嫉妬心を捨てて祝福しなさいというような思想があるように思う。

神の深い愛と慈悲の象徴的話で、対象は弱者に限らず万人である、ということをアピールしたかったのであろう。

生産しないものの象徴が、弟と見ることが出来るなら、労働によって生産するもの非生産だが労働するものに加え、労働も何もしないで・・・キリスト教の労働は神への奉仕と解すれば、つまり神にそむいて労働もしないで生活する人間の出現を思わせると共に、末子相続と長子相続の混同の時代を象徴するものではないかと小生は想像する。

家長が次男に与える事が可能な蓄財を蓄えていたということは、労働による蓄財ということであろうから、資本主義的な現象が見え隠れするように思う。

さて「放蕩息子の帰還」は、ブリテンがオペラのスタイルで創作しているが、小生は見ても聞いてもいないので、youtubeを頼って見聞きしてみることにした。
1968年初演の60分ほどの短いもので、登場するのは全員が男性で、男性が女性の役もこなすというものだそうだ。

Der verlorene Sohn - Prodigal Son 1

Der verlorene Sohn - Prodigal Son 2

Der verlorene Sohn - Prodigal Son 3


ドビュッシーも「放蕩息子」を、カンタータにして発表、ローマ大賞を獲得した。
リアのアリアと呼ばれるものでロスアンヘレスが歌っている。
victoria de los Angeles "Air de Lia" L'enfant prodigue


ブリテンのオペラとドビュッシーは、音楽的共通点があるように思われ特にドビュッシーの「聖セヴァスチャンの殉教」に良く似たところがあるように感じた。

またプロコフィエフにもバレー音楽「放蕩息子」があるし、ウィリアム・ホガースの銅版画「放蕩児の遍歴」をヒントに、ストラヴィンスキーもオペラにした。
そしてアルベーンはバレー組曲として作曲した。

放蕩息子は、そのほか作家や映画作品、絵画、版画などにもなっている。

多くの作家が題材にしたのは、モトネタが「聖書」の中のキリストの寓話という側面があったからに間違いない。
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by noanoa1970 | 2011-07-17 14:46 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(16)

Commented by Abend at 2011-07-17 16:40 x
sawyer様、こちらにも失礼いたします。
『法華経』の信解品に、「長者窮子」という有名な喩があります。
或る長者の息子が幼少時に家出をし、50年間の放浪生活で窮乏したあげく、偶然に父親の屋敷の前に辿り着きます。長者は、それが我が子であることを見抜き、屋敷に入れようとしますが、父の屋敷とは知らない息子は捕らえられると思って逃げようとします。
長者は一計を案じ、何も知らない息子を雑役夫として雇って、自らも身分を隠してともに汚れ仕事をすること20年。臨終が迫った長者は父子の名乗りをあげ、財産を全て息子に譲って亡くなります。

この長者窮子の喩では、長者が佛、窮子が衆生を表しています。
Commented by noanoa1970 at 2011-07-17 17:59
Abendさま
凄く良い話しですね。
>この長者窮子の喩では、長者が佛、窮子が衆生を表しています。
50年もたっているのにわが子であることが分かったこと、息子を雇い入れたばかりか、自分も同じ労働を共にするなどは凡人には出来かねる事でしょう。仏の広い心と深い愛情と慈悲が反映されているように思われます。死に臨んでの財産贈与は、20年も雑役の仕事に従事した対価としても、労働を共にした父親が、本当に子供を認め、家計を引き継ぐものとして相応しいことを認めた証としても、読む事が出来ます。
家出の原因が何であったか、知りたいところです。
Commented by Abend at 2011-07-17 18:49 x
sawyer様。
長者窮子の喩は、釈尊の大弟子である摩訶迦葉が説いたという設定になっています。幼少時の家出の原因については何も語られてはいませんが、衆生が佛に背反するのは煩悩の所以ですから、家出は煩悩による所行の喩となります。
窮子は、長者に雇い入れられてからも卑屈な姿勢を続けます。『法華経』は大乗経典ですから、この姿勢は自分の内にある佛性に気づかない衆生を表します。
長者窮子の喩がある信解品は、「信」と「解(げ)」、「信じることと理解すること」の両者がないと開悟には至らないと説いた章です。
Commented by noanoa1970 at 2011-07-17 21:32
Abend さまこんばんは
なるほど、幼少時の家出の原因は煩悩にありですか。
幼少時の煩悩っていったい・・・・・・少年期や思春期であればわかるのですが、思いつきません。(煩悩の意味を知ら無い事に原因があるのかもしれませんが)
>窮子は、長者に雇い入れられてからも卑屈な姿勢を続けます
いつかは卑屈な態度が改まったのでしょうか、それともそのままだったのでしょうか、もしそのままだったとすると、「信じることと理解すること」の両者がないと開悟には至らないということの事例としての話ということになりますが、父親が息子に財産を贈与したことはなんという説明が付くのだろうか。回心と悔い改めがあれば神は見捨てないというキリスト教の教えの例とは相当違うように思います。(当然でしょうが)
仏教をまったく知らぬ小生にはかなりの難問です。
Commented by こぶちゃん at 2011-07-17 22:18 x
アロンはモーゼの兄で確か大祭司長でしたよね。神に祈りを捧げるために登山したモーゼに留守中、民衆の指導者の代理を頼まれたのに役目を果たせず、いつの間にか「牛」を祈る人々を止められなかった…意志の固いモーゼに比べ、民衆寄りというよりは流されやすかった。
神の代理人は務められなかった…という評価なのでしょう。
ただ、エジプト脱出に当たり、彼の杖から魔法が発せられたのは聖書上は事実。評価は難しいですね。
Commented by Abend at 2011-07-17 22:34 x
sawyer様
長者窮子は喩ですので、幼少時の家出は、自身に備わっている佛性を認識する智慧が、煩悩(心身双方の欲望)によって妨げられている衆生の所行を喩えたものです。
窮子の卑屈さは、20年の歳月によって徐々に薄らいで行きます。これは、窮子に喩えられた衆生が、長者に喩えられた佛と汚れ仕事(喩では、糞尿処理の仕事となっています)を続けることによって、自身の佛性に目覚めて行く過程を喩えたものです。そして、長者の臨終に際しての父子の名乗りと財産譲渡は、佛が衆生の成佛(開悟)を認めたことを喩えています。
放蕩息子の寓話と長者窮子の喩に類似性を認める学者もいますが、私は根本的に異なると考えます。
Commented by Abend at 2011-07-17 23:12 x
sawyer様、続きをお許し下さい。
「回心」はキリスト教用語で、佛教には「廻心(えしん)」という用語があります。急激な「信」の方向転換というほどの意味で、頓悟(瞬時の開悟)に繋がります。釈尊が、珈琲フレッシュの名にもなった村娘スジャータから与えられた一杯の乳粥によって苦行を
脱し、開悟したのはその一例です。

Commented by noanoa1970 at 2011-07-18 09:20
Abendさまおはようございます。
先ほどサッカーを観終わったところです。
仏教関連の知識がまったくない小生ですから、ベクトルの違う言動になってしまいます事お許し下さい。
そうですご指摘のように、この話は喩でしたね。
話しの全体像の把握が大事だと納得了解いたしました。
>自身に備わっている佛性を認識する智慧が、煩悩(心身双方の欲望)によって妨げられている衆生の所行・・・
誰でも生まれついての佛性を持っているが、それに気が付く人とそうでない人が存在する。煩悩が気づきを阻害する要因で、煩悩は多くの一般人が持っているが、修業した人間だけが煩悩を断ち切る事が出来、従って自身の佛心に目覚める事が出来る。

理解できぬままの勝手な解釈で申し訳ないです。
大いに間違っていると思いますから訂正ねがいます。
>「回心」はキリスト教用語で、佛教には「廻心(えしん)」という用語が・・・
興味を持ったのは、熟考の末ではなく瞬時に行われるものだという既定です。神や仏という存在があってこそ、人間に閃きを与えうるということ。
そしてなにやら神秘主義的な匂いもするようです。
Commented by noanoa1970 at 2011-07-18 09:23
こぶちゃん さんいらっしゃいませ。
モーゼとアロンの話は、おっしゃる通りの内容がスタンダードでしょうね。
しかし中にはまったく違う解釈をするものもあって、まずエクソダスはエジプトから命じられたモーゼによるカナン征服であるとする説。
エクソダスの主導者はモーゼだけでなく最2回目のエクソダスはアロンが主導して行われたとする説。
そもそも彼等は兄弟ではなく、父親、母親違いの兄弟、あるいは本当は兄弟でもなんでもないとするもの。
であるがゆえに、モ-ゼに従順だったアロンは、やがて反抗に及ぶようになり、勢力を蓄えるために、多神教の民を味方につける必要から、「黄金の牛」というシンボル偶像を造ったというよみ方もあります。聖書解釈にはいつもトンデもものが付きまといますが、モーゼのカナンへのエジプト脱出は、カナン侵略だという説に惹かれるものがあります。(エクソダスの際、ファラオから多額の資金を受け取っているから)
聖書がいろいろな書き手で成立したものとするならば、言葉の奥に秘められたものは、書き手によって違うと思われるから、それを何とか読み解こうとすることは有意義である様に思います。
Commented by Abend at 2011-07-18 11:30 x
sawyer様、おはようございます。
キリスト教における人間は神の被造物で、佛教における衆生は因縁生起(縁起)によって生成したものですから、神秘主義においてもかなりの違いがあると思われます。佛教には、キリスト教における神というものが無く、佛は法(縁起の理法)の顕現です。神は佛教では「天人」で、三島由紀夫の作品名にもなった「天人五衰」の段階を経て死ぬ存在です。
神秘主義の特徴が、神人合一とその必然としての教会および聖職者の不要にあるのならば、古代インド哲学の梵我一如などがそれに該当すると思われます。
Commented by noanoa1970 at 2011-07-19 14:59
Abendさま
鈴木大拙の神秘主義: キリスト教と仏教でも読まなくては。
柴田南雄は『わが音楽 わが人生』の中で書いていた話として、鈴木大拙を「蝉」の研究家と紹介したアナウンサーが、責任を取って辞表を提出したが、説得されてとどまることになった話が有るらしい。「蝉と禅」を取り違えたことが原因だが、とこのようなことは現代のアナウンサーでは頻繁に起こっていますね。しかし辞表をだそうとする者なんかどこにも居ないでしょうね。

音楽における神秘主義は興味が相当高くて、ドビュッシーの「聖セバスチャンの殉教」を思い浮べます。
今一番聴いてみたいものは、アンドレカブレ「赤死病の仮面」とドビュッシー「アッシャー家の崩壊」です。
ドビュッシーの後半は神秘主義的傾向の強い作品となっていき、そして自らもオカルトチックな事象に矯味を持ったといいます。
Commented by Abend at 2011-07-19 22:00 x
sawyer様、こんばんは。こちらは風が強まって来ました。
アナウンサーが「禅」を「蝉」と誤読したのは、大拙の訃報を伝えた時でしたので、辞意を表明するほどの大事と思ったのでしょう。因みに、大拙の末期の言葉は秘書の問いに対し、"No,nothing.Thank you."
と英語で答えたものでした。大拙夫人のベアトリスはアメリカ人なので、日常的に英語で会話する習慣があったようです。佛教学者の語学力は大したものです。岩波新書の『外国語の学び方』を書いた渡辺照宏も佛教学者です。

カプレとドビュッシーは親友でしたね。二人が、ともにポーの作品を
イメージに曲を書いたことは興味深いものがあります。私もまだ聴いたことがありませんので、一聴の機会があればと思います。
神秘主義への傾倒といえば、スクリャービンが有名ですね。ブラバツキー夫人の唱えた神智学の信奉者でした。
Commented by noanoa1970 at 2011-07-20 00:14
>大拙の訃報を伝えた時でしたので、辞意を表明するほどの大事と思ったのでしょう。
なるほどそうでしたか、訃報での間違いは決定的ですね。
しかし大拙のン前と人物像位、学卒のアナウンサーであるから、知っていてもおかしくないと思うのですが。柴田南男が書いているところに何かあるようにも思います。彼の作品もサークルでの研究対象でしたから、数点レコードがあります。著述を読まいとはじまりませんね。

ポーの小説をネtット上の文庫で読みました。
家系が崩壊するものだと思っていたのですが家もろとも崩れ去るという思いがけないことで驚くとともに、」ハプスブルグ家の「青い血」と似たようなところがあり、じめっとした不気味さがあるのをかんじましたからドビュッシーの・・・歌劇を特に見たいのですが未だにじつげんしません。
スクリャービンは神秘主義音楽の代名詞ですが、「法悦の詩」は色々な意味ですごいと思います。イギリス近代音楽のホルストもバックスもそういう傾向の作品があるようです。第一次大戦後神秘主義音楽の台頭がはなばなしくなったようです。
Commented by noanoa1970 at 2011-07-20 00:14
続きです
ヒンデミットは新古典主義作曲家といわれますが、神秘主義的な作品も多いと効きます。ヒンデミットはあまり聞いていませんから今後積極的に聞いてみるつもりです。神秘主義音楽というタグでくくった音楽家の作品を聞いてみて、比較するというのも、おもしろい試行だと思います。
Commented by Abend at 2011-07-20 00:46 x
sawyer様
「アッシャー家の没落」、「アッシャー家の惨劇」という訳もありますね。前者は家系の断絶、後者は陰惨な出来事をイメージさせます。
私は、怖がりのくせに怪奇(私は「怪異」という表現の方が好きですが)への興味が強いのです。ポーの作品は映画化もけっこうされていますが、かのB級映画の帝王ロジャー・コーマンが監督をした「The Haunted Palace」の邦題が「怪談呪いの霊魂」というトンデモなものです。小学生の頃、『最後の海底巨獣』とマックイーンが出演した『絶対の危機』のB級2本立を映画館で観た時に、この『怪談呪いの霊魂』の予告編をやっていました。怖かったのを憶えています。行きつけのレンタル屋さんで貸しているので、今度借りて来ようかと思っています。
Commented by noanoa1970 at 2011-07-20 13:22
Abendさま、こんにちは
「崩壊」としたのは、物理的にも城がこわれてしまうところからかも知れません。伝統的家系を守っていくためには、近親者同士の縁組で子孫を残すことがが必要とされた社会はハプスブルグ家スペインのブルボン系家系の兄妹婚に見られるといいます。繰り返される結果、遺伝子的な悪さも出てきたり、肌が白い病的なものも出現したようです。ネットで「アッシャー家の崩壊」全文が読めます。
小生も小学生時代から怪談話しが好きで、ある先生が時々授業中に話してくれ、それが高じて図書館に行って借りたのが「日本霊異記」の子供版で、昔はあんな社会があったのだと子供心に思いました。上田秋成の「雨月物語」もやがて読むに至りましたが、もちろん単なる怪異物語としてでした。荒れ野の風景は、周囲にその頃まだありましたから、かわたれ時になると、怖かったのを想いだします。外国物はあまり読まなかったですが「サキ」の短編集は背筋がさむくなった記憶があります。最近といっても、もう20年も前になってしまいますが「ザ・キープ」というペンシルバニア地方の魔物が、侵略してきたナチスの兵を殺していくという話はおもしろいと思いました。映画化されたと思います。