カラヤンの「大地の歌」をデジタルマスターリングLPで聴く

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(この記事を書いた後に、明日7月16日は、カラヤンの月命日だということが分かったので付記しておく。)

LP生産中止となってすぐに、バーゲンで入手したもの。
今までまともに聴いたことがなかったのは、マーラー、特に「大地の歌は、カラヤンには似あわないと決めていたからである。

カラヤンの演奏録音には駄作がない、そのようにずっと小生は思ってきたのだが、「大地の歌」だけは例外と勝手にきめつけていた。

「大地の歌」、小生はワルター/VPOかクレンペラー/NFOの演奏をとても気に入っていて、この2枚はそれさえあれば他の演奏はいらないし、聴きたいとは思わないという、非常に珍しい状態に身を置けた数少ない音盤で、小生とはあまり相性の良くないクレンペラーだが、「大地の歌」は唯一といってよいほど、高いレベルで満足させてくれたから、ワルターとクレンペラー盤で長い間聴いてきた。

80年代中期、その頃収集の最優先の音盤は、オケと合唱あるいはソロ・・・人間の声が入ったものだったから、宗教曲を中心に集めていて、これもその時の1枚で、CDがすでに出現していたが、声はアナログがいいという想いからであった。

もともと安価なのに、バーゲンだから相当安く入手できたドイツグラモフォンの輸入廉価盤で、80年代後半に入手して以来、針を落としたのはたった2回、しかもA面を聴いたのみだった。

最近は新しい音盤を入手するのを控えていて、過去に入手した中から、あまり聞き及んでないものを探して聴くようにしているから、この音盤は格好のもので、おまけに殆ど針を落としてないから、レコード盤の状態もよいはずだ。

初めて聞く音盤に接する際、いったいどんな演奏が聴けるのだろうかと推理することは、とても面白いことで、推理通りの演奏なら、演奏家に対する自分のイメージが出来ている結果だと思い、外れれば外れたで、意外性に驚くとともに、自分の耳の鍛錬の足りなさを思い知る事が出来、新たなチャレンジ目標が得られるというものだ。

カラヤンのマーラー、しかも「大地の歌」の演奏イメージは、具体的なものが浮かんでこない。
なんとか思いを巡らせるが、浮かぶのは一般的なカラヤンの演奏を表現するときのもので、そのようなステレオタイプの見方は、いつもあまりにも表面的過ぎて、カラヤンの演奏を深堀するには程遠いものだから、あまり面白くもない。

イメージが湧かないのは、カラヤンのマーラーを殆ど聴いてないことに原因があると思うが、そのせいばかりとは言えぬものがあるような気がしてならない。

大胆不適な言い方だが、ひょっとしたら、「カラヤンには個性がない」のではないだろうか。

それとも時代に応じて演奏スタイルを変えてきたから、統一された特徴や演奏スタイルというものが無いように見えるのか。

なにを演奏しても卆がなく、聞かせどころを心得ており、殆ど失敗作がないカラヤンだが、演奏を聴いて、それがカラヤンの指揮によるものだと特定できるものは、音響的にはあっても、音楽的には余りないことが経験的なことだ。

カラヤンはゲルマン的なところとラテン的な所を併せ持つが、逆に言えば無国籍のグローバルさ・・・インターナショナルテイックなものをもっている、というよりそうなってしまったのは・・・カラヤンの美学によって楽曲の持つローカルエリア的風土を排除したことにその要因があるような気がする。

言い換えれば、母国語があるのに、エスペラント語に置き換えてしゃべって表現するようなところがあるので、万人に理解されるようで、主観的すぎる翻訳が必ずしも上手く行ってないから、誤解を産むとが多いような気がする。

初期~中期のカラヤンは、ザッハリヒな演奏スタイルだったが、カラヤンレガートが象徴するように、超メジャーになってからのカラヤンの演奏の特徴は、楽曲の解釈はあくまでもカラヤン自身の美学の帰結であり、誰がどこでどのような経緯で作ったのかなどは眼中にないようで、あくまでも楽譜とカラヤン自身の美学で音楽が成立する。

中期以降のカラヤンは、カラヤンレガートがあらわす如く、自分の美学に基づいて、音楽をソフティフィケートすることに専念するようになった。

注目すべきは、基本的にはザッハリヒな演奏スタイルなのだが、レガート、フェルマータなどを多用することでロマン主義的な演奏スタイルに思わせるような所があることだ。

万人に好まれるがコアなクラシックファンから嫌われるのは、カラヤンの美しさを追求する没個性の美学にあるのではないか。

マーラーの曲に内包されるものは、ドイツ辺境や周辺の地の民謡や踊りのメロディとリズムの引用、近代的和声とのシナジーを高めること、それらによって、音楽に新たな生命を宿らせた事なのではないか。

しかも楽曲には合唱やソロが登場するものが多く、つまり人間の声とオーケストラの調和と非調和、融合と拡散、協調と離反が合いまみえる曲であるといえる。

「大地の歌」では、意識しない宗教性と民族性、東洋思想、ペンタトニックスケール、現世否定と死への恐怖と憧憬、刹那的快楽主義、不条理、自己矛盾といったものが塗り込められているように思われる。

どうしても揚げておかなくてはならないのは、カラヤンは大体において、合唱を人間の声としてではなく、楽器のように扱っているということであるが、果たして合唱無しソロオンリーの大地の歌の場合はいかにしたのか。

例えばモツレクのキリエの終わりのキリエエレイソーンのフェルマ-タは、息が続くギリギリまで合唱を引っ張るが、このようなやり方は随所に見られ、声は楽器であるというカラヤンの考え方の表れであると思う。

ソロの声をも、楽器として扱うような気配があるや否やも、大事なチェックポイントである。

以上の観点を踏まえた、カラヤンの「大地の歌」、果たして如何なるものだったか。

音楽が美しい、いや美しすぎるぐらいだから、全曲をいとも簡単に聴けてしまった。
美しさの要因は、ここでもやはりレガートそしてフェルマータの乱用に近い使用である。

ソロの歌唱においてもそれは同様で、このためにソロ歌手の息が苦しそうな気配が、とくにはテナーのルネコロに著しい。

しかしマーラーを表現するテクニックとして、ひたすら美しい音楽づくりが果たして相応しいだろうか。

カラヤンはいつもたいていそうなのだが、「再生音響」に強いこだわりを持っているようで、この演奏録音では普段聴こえない音がハッキリクッキリ聴こえてくる。

ライブ映像で見る光景として、普段は中央よりやや下向きに吹く管楽器群が、一斉に楽器を上方前にして吹く事があるが、これは作曲家の指示かそれとも指揮者の指示なのか、マーラー演奏にそれが多いように思うが果たしてどうなのだろうか。

カラヤンの良いところ、それは再生装置で聞く人のことをも慮っていて、ホールの位置によってライブでは掻き消されてしまう楽器の音を、きちんと聞こえるようにしていることだ。

終楽章琵琶の音を模倣するためなのか、マンドリンの音色が今まで聴いたどれよりもよく出ており、マンドリンなどは使用してないと思うような録音がある中、音響を重視したカラヤンはマイク技術あるいはマスターリングで、それを再生装置で聞く聴衆のため、克復したとみてよいだろう。

1楽章に出てくるフルートのタンギングは、クレンペラー盤が最もよく表出していたが、カラヤン盤もよく聴こえてくる。

先日録画したアバド/BPOライブでは、フルートのタンギングが埋もれてしまいがちになったが、実際はそんなものなのであろう。

マーラーの曲は、押しなべて管楽器がハイライトされるものが多く、ホルンは勿論、特にイングリッシュホルン(コールアングレ)に活躍の場が多いが、それも含めた管楽器の音の表情付けだが、カラヤンは管楽器のソロにまで、たっぷりのレガートを要求する場面が多いから、弦が加わった暁には、滑らかに美しく聞こえるが音楽が甘ったるい蜜のようになるから、ひと舐めするには良いが、たくさん舐めると、その諄さが勝ってしまい、たちまち嫌気が襲ってくる。

確かにマーラーには、神秘主義的陶酔の感覚があるとは思うが、音楽は決して甘ったるくは無いはずだ。
ポルタメントを多用したメンゲルベルクよりさらに甘ったるくロマンティックに聴こえる。

アダージョ楽章では、ストイックで病的なものを感じることさえあるマーラーであるが、カラヤンはひたすら美しさを追求し、陶酔に導こうとするかのような演奏をする。

ソロ歌手のコロとルートビッヒだが、いずれもバックのオケとのマッチングがよくないのか、コロは神経質な歌唱が随所に見られるし、ルートビッヒも、クレンペラー盤であれだけの歌唱をしながら、カラヤン盤では楽曲の・・・詩の内容の深堀が出来てないのか、心なしか自信なさげに聴こえる。

クレンペラー盤よりも新しいカラヤン盤だから、どうもカラヤンの声も楽器という仕業のような気がしてならないが、ソロの歌唱にも無機質さを要求したのだろうか。

デジタルリマスターによるLPレコードは、確かに耳触りはよいのだが、リマスターで倍音成分まで除去してしまった結果なのか、本来持っているオケの音のエネルギーまでそぎ落としてしまったように聴こえる。

従ってオケがBPOであるか否かの判断がつきにくいが、それを無視すれば、実に上手な演奏であることは間違いないことだと思われる。

さらにリマスターしたCDではどうなのか、分厚い響きの大地の歌になったか、それとも美しく滑らかで流れるような大地の歌になったのか。

カラヤンはなおさらに、録音によっても大きく評価は変わるから、今回聴いたLPのデジタルリマスターは、技術水準の問題、エンジニアの耳、商業的勇み足のいずれか、あるいはそれらの複合の産物のように小生は想っている。

カラヤンの60年代70年代のBPOの音になじんだだけに、このリマスターは残念だ。
そういえば最近のアバドとBPOの大地の歌の音響は幅の違いこそあるが、かつてのBPOに比べ低音部の力強さが減少したように感じる。

こことはオケの近代化の一環なのか、世界に冠たるBPOではあるが、グローバル性とローカル性を併せ持ち、臨機応変の演奏を望むものである。

以上のことは、ゲヴァントハウス管にもあてはまる・・・つまりヨーロッパのオケ全体に言えるということを、付け加えておく。

カラヤンの「大地の歌」は、デジタルリマスター盤という未熟な音盤で聞いたから、的確には言えないので、オリジナル盤か優れたリマスターによるCDを聴いてから、という結論にしておくことにする。

大本の録音の素錠がよさそうだから、満足度の高いCDとなっている可能性大であると思う。
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by noanoa1970 | 2011-07-15 17:19 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)