決して外されない梯子

シェーンベルクの「ヤコブの梯子」を聴いてみようという気になった。

その前に、このオラトリオの背景となった逸話の出典を探ると、 旧約聖書の創世記28章12節からであることが判明した。

昔この楽曲の名前を聴いたとき「ヤコブ」を、イエス・キリストの十二使徒のヤコブだと思ったが、そうではなく、さらにに遡る時代の人だと分かるのに相当な時間を費やした。

聖書の世界には、多くのヤコブが出てくるから、整理しておかないと、誤解のもととなる。

アブラハム→イサク→ヤコブとエサウ(双子の兄弟の兄)と続く一家で、ヤコブはイスラエルの称号の源とされ、先祖にカインとアベルそしてノアを持つ家系である。

ヤコブの曽祖父アブラハムは、奴隷の妾女ハガルに、イシュマエルをもうけさせたが、本妻のサラは、二人を追放しろと、アブラハムに迫る。

ハガルはイシュマエルと逃亡し、神から土地を与えられたが、これがアラブ人が信仰するイスラム教の国となった。

この逸話を、ユダヤとイスラム、つまりイスラエルとアラブの、アブラハムを祖とする同族の確執とみなす説もある。

つまり本妻と妾の内輪もめが今日の民族紛争の原点だという、びっくり仰天の話である。

今思い出したのだが、母校に「矢内原伊作」という、クリスチャンの教授がいたが、「伊作」は「イサク」から取ったのかもしれない。

さて「ヤコブ」とは、どのような人物なのか。

創世記によれば、イサクが双子の兄エサウを愛したのに反し、イサクの妻リベカは弟のヤコブを愛したので、イサクの死に際、イサクが愛したエサウに変装して兄エサウと入れ替えることで、イサクの跡目をヤコブが得ることになる。

跡目をめぐる兄弟対決の話は、古今東西の歴史上よくあることだが、双子の争いは珍しい。
エサウとヤコブは双子の兄弟とされるが、母親違い父親違いの兄弟ではなかったかと小生は推察し、両者は部族間の代理戦争の様相を呈したものと解釈する。

古代の結婚観ならびに、父系、母系の血縁上の位置を表すものであるように思う。

ヤコブの先祖、兄弟の逆転はあるが、カインとアベルの兄弟争いの話が、ここに投影されているように思われ、弟殺し、嘘つきのカインもヤコブ同様、神から保護を受けることになる。

要するにヤコブは、自分の利益のために兄を裏切った人物ということになるが、不思議なことは、そのような人物に神が味方し、イスラエルの地と称号を与えたこと。

Heaven helps those who help themselvesということわざの、努力と信仰心があれば、神の加護があるという話とは少し違うように思う。

この逸話の背景には、何か裏がありそうだ。

兄エサウへの裏切り行為で、戦いが始まり、ヤコブの身に危険が迫ると、母親リベカは自分の兄ラバンのもとへヤコブを逃がす旅の途中のヤコブが、放浪の果てに、死を覚悟した夢の中で見たのが、天国の階段であった。

天使が天国と地面を行き来する階段があり、天使が神の声を携えてきて、ヤコブに告げた。

「この土地を、ヤコブとその子孫とに与えよう。
子孫は数え切れないくらいにたくさんに増えるだろう。
そしてそのために人類が皆祝福されるようになるだろう。」

ヤコブが改心し、初めて信仰心が目覚めたことへの、神からのご褒美ということだろうか、そうするとこの逸話は、信仰心を持つ者は幸せになれるという、信者獲得のプロパガンダのための逸話と捉えてもよさそうだ。

ヤコブはイスラエルの称号を与えられ、子孫のイスラエル12氏族を輩出することとなるが、しかし10氏族は「失われた10氏族」というように、チリジリとなって世界に分散してしまう。

ヤコブの逸話からうれば、ユダヤイスラエル民族は、兄殺しで裏切者の先祖を持つ民である、ということも成り立つ話で、ゆえに12氏族のうち10氏族が消えてしまい、残ったユダ民族は後世、差別される運命にあるのは必然だ、というようなロジックも成り立ちかねない。

キリストを金で売ったユダがユダヤ人であったこともそのことに拍車をかけることとなり、ユダヤ=裏切りの代名詞的扱いを受けることにつながったようだ。

とにかく、後世の人々は、雲の切れ間から地面に光線が差し込むのを、「ヤコブの梯子」、というようになった。

神への畏怖と尊崇、神の加護とそれに対しての感謝の象徴の姿として、天が造る「ヤコブの梯子」を尊んだのだろうし、しかもめったやたらに見られるものではないから、その光景に遭遇することは、幸運の証でもあったのだろう。

かいつまめば、そんな話だが、どうしてもわからないのは、裏切者で嘘つきで狡猾なヤコブに、なぜ神が味方をしたかということ。

どうも、「改心」「改宗」「新たなる信仰心」を持つことの重要性をアピールする狙いだけではない、もっと奥深いものがありそうな気配がするが、今のところ閃かない。

楽曲の話は次回にして、音楽を聴くことにする。
シェーンベルクは、自らのユダヤの血を意識して、ユダヤイスラエル民族の成り立ちと、民族への神の加護があることを描きたかったのだろうか。

A. Schönberg: Die Jakobsleiter (1/3)


A. Schönberg: Die Jakobsleiter (2/3)



A. Schönberg: Die Jakobsleiter (3/3)


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by noanoa1970 | 2011-07-11 11:10 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(35)

Commented by HABABI at 2011-07-11 21:40 x
sawyerさん、こんばんは

ヤコブの話、とても面白く拝読致しました。旧約聖書のこの部分は、最近も読み直していたところです。
旧約聖書ですので、選民思想、すなわち神に選ばれた民族という考えが背景にあるように思います。それは、エソウとヤコブの誕生のところでも述べられており(弟を選んでいる)、その後に、ヤコブに関してそれが実現するまでの話が書かれているように思われます。ストーリーが美しくないのは、旧約、新約両方をとおして、聖書特有の性格と思います。

>兄エサウへの裏切り行為で・・・
この部分は、聖書の表現と違っていますね。戦いはまだ始まっていませんし、放浪の果てに死を覚悟した、とはなっていません。むしろ、神の方から近寄って来ている書きぶりになっています。その後のヤコブの長い年月に渡る苦労の話も、上に書いたとおり、紆余曲折はあっても、結局は神の決めたことが成就する、というストーリーとして読めます。HABABI
Commented by Abend at 2011-07-12 00:52 x
sawyer様、こんばんは。
20年近く前にレンタルビデオで観て感銘を受けた映画「ジェイコブス・ラダー」を想い出しました。英語で「ヤコブの梯子」という意味です。ベトナム戦争中、主人公のジェイコブ・シンガーが敵に刺されてから死亡するまでに見る夢で成り立っている作品です。ラストで、野戦病院の医師が「彼は死んだ」というシーンが印象的でした。

「ヤコブの梯子」は、何か、芥川の「蜘蛛の糸」を連想させます。「蜘蛛の糸」は佛教文学と思われがちですが、佛教説話にはそのようなものはありません。西洋の作家が書いた短編小説が元になっています。芥川自身が、キリスト教と強い関係を持っていた作家ですから。

なお、矢内原伊作はおっしゃるとおり、父の矢内原忠雄がイサクに因んでつけたものです。伊作の弟の名は勝(かつ)ですので、長男だけにキリスト教関係の名をつけたのですね。

Commented by noanoa1970 at 2011-07-12 01:33
HABABIさんこんばんは
聖書原本からの写しを、部分しか読んでないので大部分は聞きかじりです。
ご指摘のように聖書には書かれてない部分や時系列が違うものがあるやもしれませんが、ご容赦ください。

選民思想が背景にあるというのは、おっしゃる通りだと思います。

もう一つの視点として、弟が家督を相続するのは、末子相続の風習が非農耕民・・・遊牧民を中心にした社会通念として存在し、イサクは長子相続つまり農耕の民化を試みようとし、妻リベカは末子相続、つまり遊牧民であることに拘ったのではないか。
このことは、末子相続から長子相続への変遷過程にある古代社会の様子を表すものではないかと考えています。勿論推測にすぎませんが。兄弟で弟が家督を継いだり、兄が弟のサポート役に回ったり、兄を殺したりするのは、父系社会母系社会からの視点でも解決が付きませんで、考えた末、末子相続に行き当たりました。
Commented by noanoa1970 at 2011-07-12 02:00
Abendさま、こんばんは
映画「ジェイコブス・ラダー」、小生も観て、得体のしれぬ恐怖に襲われた思い出があります。
地下鉄の中がストーリーの初めのシーンと記憶します。過去と現在、いや現在と未来、夢と現実が交差する不思議な映画で、結局はベトナム戦争批判になっているように思いました。
蜘蛛の糸の大元は、聖人カテリーナと母親の話でしょうか。この話で興味深いのは、母親もカテリーナも、ともに地獄に落ちて行ったことです。自分の利益ことしか考えない者には地獄が待っている、という教えはキリスト教の考え方かもしれませんね。

イサクの名前を借りたもので思い当たるのは、イザークパールマン。
イェフディ・メニューインのイェフディは、ズバリユダヤを表す言葉のようです。
Commented by HABABI at 2011-07-12 06:27 x
sawyerさん おはようございます。

一点、もしかしたら違って記憶されているのでは...
カインとアベル、カインが兄で、弟のアベルを殺しています。
HABABI
Commented by noanoa1970 at 2011-07-12 08:29
HABABIさんおはようございます。
>カインが兄で、弟のアベルを殺しています。
末子相続に話を持っていきたいと思ったのが、このような間違いのもとでした。
ご指摘ありがとうございます。

ウイキを観たら、カインは神への供物に農作没を、アベルは牧畜の羊をささげたが、神はカインの農産物には目をくれなかったとあります。そこで兄弟間の争いとなり殺人へと発展するのですが、神はカインを追放し、農耕の技術を奪ってしまい、カインは製銅技術を身に着けた。カインが嘘をついて、神にアベルの行方を隠したにも関わらず、神はカインを守ろうとする。兄弟が逆転していますが、遊牧から農耕へ移りゆく過渡期の様子を表すものではないでしょうか。簡単に遊牧から農耕へ切り替えることができない事情もくみ取れるように思います。
Commented by noanoa1970 at 2011-07-12 08:40
長子相続は農耕民族社会の通念で、末子相続は狩猟民族遊牧民族の通念のようですから、カインとアベルの話は、末子相続に逆らおうとしたカインの反乱の話でもあったように思われます。
カインが農耕をつかさどったことは、神への供物の一件で明らかではないでしょうか。神が最初はアベルの供物を評価し、カインの供物を評価しなかったのは、末子相続を容認したということだが、その後カインをかばい、長子相続を認めることになったという仮説を考えてみました。
Commented by noanoa1970 at 2011-07-12 08:56
ヤコブが変装し、兄エサウに見せかけなければ相続できなかったということは、このころはすでに長子相続が社会通念となっていたことを表すように思います。ヤコブの母親リベカは遊牧民の出自の可能性があります。
カインとアベル、ヤコブとエサウの逸話は、遊牧民から農耕の民へと長い間かけて変遷したことを物語るものでもあると受け取りました。
Commented by Abend at 2011-07-12 20:16 x
sawyer様、こんばんは。
末子相続が狩猟民の習慣であったのは、古代社会における狩猟や漁撈の危険性も大きく関係しているのではないでしょうか。

病気での乳幼児死亡率が非常に高かった古代社会では、運よく成年に達して狩猟や漁撈の労働力となっても、事故での死亡率が高かったと思います。このような時代状況が、子孫継続の安全策として末子相続という習慣を生んだものと思います。

農耕社会になると、労働中の死亡率は狩猟や漁撈でのそれよりも遥かに低くなり、また職住一体が定着し、ここに「家」という観念が生まれたと、私は考えます。
Commented by HABABI at 2011-07-12 21:27 x
sawyerさん こんばんは
よい刺激を受けて、旧約聖書の勉強が出来ています。
「カインは土の実りを主のものへ献げものとして持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子(ういご)を持って来た。」とあります。三浦綾子さんの「旧約聖書入門」には、アベルは信仰によって、肥えた初子(ういご)、すなわち上等なものを持って来たのに対し、カインはあまり感謝もせずに、信仰によらず捧げたのであろう。これが、神がアベルの方を祝福した理由であろうということが書かれています。
次に、カインは「土を耕しても土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」と神に言われます。その後、罪を告白したカインの身の安全を神が助ける話と、カインが神の前を去る話が続きます。(つづく)
Commented by HABABI at 2011-07-12 21:44 x
sawyerさん、前のつづきです。
「旧約聖書と農耕」というキーワードでインターネット検索すると、いろいろ出て来ます。その中で、ユダヤ民族は、元々は遊牧民族であることと、農耕を行う民族に別の神(多分、多神教)があって、旧約聖書の中に書かれた部族(民族)間の争いに関係のあるようなことが書かれているのを見つけました。その内容が正しいかどうかは調べていませんが、要は、旧約聖書に書かれていることの背景には、いろいろな要素があるということだろうと思います。
聖書の中にいろいろな発見があることは、昔から多くの方々が言って来られたことですが、本当にそうだと思います。
HABABI
Commented by noanoa1970 at 2011-07-12 22:01
Abend さまこんばんは
末子相続の見解その通りだと思います。
親元を離れるのが一番遅いもの、つまり末子が相続するのは、家系を守るための智慧のようなものといえます。末子相続は危険度が高い遊牧や狩猟の民に多かったようです。
Commented by HABABI at 2011-07-12 22:27 x
sawyerさん、このようなサイトを見つけました。ご参考まで:
http://myogab.dtiblog.com/blog-entry-585.html
HABABI
Commented by noanoa1970 at 2011-07-12 23:23
HABABI さんこんばんは
中身の濃いコメント有難うございます。
信仰の有無が供物の内容に現れたという三浦綾子(クリスチャンでしょうか?)の解釈には同調できかねます。ここはやはり種族が、遊牧から農耕へ移ろうとする過程を象徴した話だと思います。
>ユダヤ民族は、元々は遊牧民族であることと、農耕を行う民族に別の神(多分、多神教)があって、旧約聖書の中に書かれた部族(民族)間の争いに関係のある・・・
部族間の争いの様相もありますが、農耕の民=侵略者類は改革者、遊牧狩猟の民=非侵略者保守派であり、狩猟遊牧から農耕社会へのユダヤ民族の転換期の投影の様に思います。

モーゼとアロンの話では、多神教と一神教の争いというか、モーゼが多神教の民を説得し、一神教に改宗させようとする話が書かれています。アロンの微妙な立場は興味ぶかいものです。
モーゼのエクソダスは遊牧民から農耕民への転換の物語でもあると考えられます。カナンの地に行くということは定住することを意味しており、定住とは農耕をすることでしょう。
一方モーゼは多神教から一神教への変換(ユダヤ教確立)の立役者の位置付けとなってもいます。
Commented by HABABI at 2011-07-13 21:47 x
sawyerさん、こんばんは

三浦綾子さんは作家で、代表作は「氷点」です。三浦さんはクリスチャンで、1999年に亡くなっています。

カインの話で既に農耕が行われていたことが書かれており、一方、新約聖書の中でも羊や羊飼いが出て来ますので、二者択一の話、即ち遊牧(少なくとも牧畜)から農耕に変わったという過程を聖書の中から見出すのは難しそうに思います。
むしろ、カインとアベルの話の前、アダムとエバ(イヴ)の話の次のところは如何でしょうか? (つづく)
HABABI
Commented by HABABI at 2011-07-13 22:04 x
(つづき)
創世記3.23 「主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。」
その前の3.19には「お前は顔に汗を流してパンを得る 土に返るときまで。」

つらい仕事の代表みたいに農耕のことが書かれていますので、上記のことを書くのには抵抗があったのですが、農耕のことは聖書の最初に書かれています。
HABABI
Commented by Abend at 2011-07-13 22:40 x
sawyer様、こんばんは。
経典や神話は、アレゴリーあるいはメタファーの宝庫です。思想の表出は、吉本隆明も言っているように、近代以前においては宗教の形を取るのが普通でした。信仰自体も、近代以前と以降には大きな隔たりがあります。

キリスト教には疎いのでご教示を願いたいのですが、出エジプトの状況はわかるものの、なぜ唯一絶対なる自分への帰依を命じた神の約束した地がカナンだったのでしょうか。
Commented by noanoa1970 at 2011-07-14 00:04
Abend さまこんばんは
神との約束の地がカナンであったということしか小生にはわかりませんが、多分部族種族が群雄割拠する中、比較的トラブルなく入れるところがカナンであったか、肥沃で安定した土地なので、入植後の生活の保証を得やすかったかという推理しか思い浮びません。

検索で見つけたサイトが参考になるやもしれません。
付録 旧約聖書成立の概要(その2)http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/old-testament3.htm
Commented by noanoa1970 at 2011-07-14 00:56
HABABIさんこんばんは
たしかに遊牧→農耕へという視点は歴史の一面を捉えるにすぎません。
むしろ、遊牧⇔農耕がランダム・・・支配階級の種族民族ごとに入れ替わったというほうがよいのでしょう。

アダムとイブの時代に農耕(作物を得て生活の糧にする)があったとすることの意味は、農耕を取り入れることの前奏曲で、神が与えたものは、罰としての肉体労働で、その目的は畑を耕すというよりは、荒れた土地を開墾し定住を促進し、その地で子孫繁栄をもくろむことにあったのではないかと想います。
イブを誘惑する「蛇」は、農耕の象徴だとする説があります。
従ってリンゴの話は、本格農耕への誘い、つまり追放されたその地への定住を促すものだったとよむ事も出来ます。

Commented by noanoa1970 at 2011-07-14 00:57
続きです
この時代は「労働は賤しいもの」という考え方が主流で、アダムの子カインとアベルの時代になると、遊牧と農耕の融合、すなわち遊牧民が農耕民を支配する構造が読み取れますが、神は農耕を未だに賤しく思っていたし、多神教化を恐れ、形式的には拒否の姿勢を見せたのだと考えられます。(新しい神を望む事につながるような気がします)三浦さんが信仰の有無といったのは、一神教の信仰にほかならず、カインが所属した農耕民の信仰は多神教であったから、一神教の象徴である神は、アベルを贔屓にせざるを得なかったた。後にカインは懺悔と改心あるいは改宗によって、一神教者となるにいたり、神から許され守られる存在になった。
遊牧民部族が農耕部族を支配下に置いた歴史は結構あり、かいんとアベルの話は、そういう背景があるエピソードであるように想います。

表面上はともかく神話や古代の歴史書には、その裏の歴史的文化的、社会的政治的背景が潜んでいることが多いと思います。
Commented by Abend at 2011-07-14 21:34 x
sawyer様、こんばんは。
神々が各々の職能を有する多神教は、必然的に特定の神を主とする分派を共同体にもたらし、その間における対立、闘争を生み出します。例えば、インドのヒンドゥー教はシヴァ信仰とヴィシュヌ信仰が二大宗派ですが、これは古代から他の信仰との闘争に勝利し、それを取り込んで来た結果です。

多神教から一神教への転換は、多様化し、相互に非親和的となった共同体を唯一絶対神の下に統一する、極めて政治的な事柄であると思います。これは、近代統一国家がキリスト教世界によって成立せしめられた遠因とも言えるでしょう。宗権から王権へ、王権から民権へと変遷して来たキリスト教世界の国家史も、唯一絶対神の意志を地上で実現させるべき者の歴史であると思います。
Commented by HABABI at 2011-07-14 22:13 x
sawyerさん、こんばんは

丁度、旧約聖書の成立等について、改めて勉強しなおしてみようと思っていた時なので、いろいろ書かさせて頂いております。

天地創造からノアの方舟やバベルの塔あたりまでは、「いつの時代」とは言い難い話だと思いますが、それでかえって歴史と結び付けていろいろ解釈することも出来るのかもしれません。
エデンの園では、木になっているものをアダムとイブは不自由なく食べていますが、焼肉を食べたような話は出て来ませんので、蛇も、今さら豊穣のシンボルとしては、出番はなかったように思います。
旧約聖書の中には、ヤコブの妻ラケルがラケルの父の守り神の像を盗んだ話や、別の個所では他の神のことがアカラサマに出て来ます。一方、他の神のことが書かれていない場面において、カインが他の神を信じているのに、なぜ旧約の神に献げものをし、自分が信じてもいない旧約の神が弟の方を祝福しているからといって逆恨みして弟を殺す、という話に発展するのか...これは、三浦綾子さんの書かれているように、カインの信仰の薄かったこととしておく方が、無理がないように思います。HABABI
Commented by HABABI at 2011-07-14 22:19 x
(つづきです)

表面上、というより部分的に捉えて他のこととつなげたように思える話というのは、別の視点で読んでいる人から見れば、失礼ながら「どうしようか、無視しようか」ということになってしまうのかもしれませんが、私には勉強しようと思っていたことを考えるよい機会となりました。
インターネット検索したり、ほとんど買ったままにしてあった聖書注解を見たりしました。
sawyerさんに本当に感謝します。まだ、いろいろ教えて頂けたらと思います。
HABABI
Commented by noanoa1970 at 2011-07-15 09:26
HABABI さんおはようございます。
宗教として語るのは多くの問題を抱えますから、ここでは「聖書の中に現れる歴史と文化」というような話に留めたいと思います。
といっても、かなりの大物ですから鳥瞰して語ることは出来ませんので、どうしても断片的になってしまいます。
また聖書の中のエピソードには矛盾点も多く、その矛盾を解釈することは無駄であるようにも思い始めています。古事記のように一人の作者によってかかれたものでなく、いろいろな見方の複合体と理解すれば当たり前のことです。
ただ、いろいろな人の解釈や見解を知って、自分なりの考え方を固めていくことも必用だと思います。なんでもありの社会ですから時にはとんでも話のようなものもありますが、それも含めて幅広く多方面からのアプローチを知ることで、リテラシーも感度アップするものと思っています。昨日ネットで見つけた「縄文への道」の森を嫌ったキリスト教・・旧約聖書の世界 ・・遊牧民と農耕民の抗争http://joumon-juku.com/mori&hito/061.htmlには、多神教→一神教、遊牧→農耕→遊牧の変遷課程の一こまを象徴する話として、アダムとイブ、カインとアベルが登場します。
Commented by noanoa1970 at 2011-07-15 09:29
続きです
浅野順一『旧約聖書を語る』の一部が紹介されていますが、聖書を歴史文化史的視点から見たもので小生は面白く拝見しました。
このほかの研究家や作家の見解が記載されています。
『カインとアベルの抗争は、農耕文化=カナン文化と遊牧文化=初期のヘブル文化との争いをあらわしていると解釈できるわけであります。つまり、遊牧文化は初め農耕文化に退けられてしまったけれども、のちにアブラハムによって復活し、しまいには農耕文化をも支配するようになった。そしてずっとのちになって、エジプトに渡ったヘブル人たちは、長期間の滞在の後、モーゼに率いられて圧制を受けたエジプトを脱出し、モーゼが荒野で死んでからは後継者ヨシュアによってヨルダンの川を越え、カナンに進入してその地を占領した。そこは神が先祖たちに約束された「乳と蜜の流れる」楽土であるとされています。カナンは、先ほど述べたように農耕文化ですから、アブラハム以後の遊牧文化は農耕文化を征服した形になるわけです。』 (後略)

Commented by noanoa1970 at 2011-07-15 10:08
Abend さま、おはようございます。
なるほど、説得力ある見解だと思います。
多神教にも、もともとそれを奉ずる民族の違い、(何をトーテムとするかは、民族の社会文化歴史政治的要素を多くはらんでいる)がありますから、多神教にその要因があると共に、民族の派遣抗争の様相を呈するものであるようにも思います。
異宗教からキリスト教、ユダヤ教からキリスト教、カトリックとプロテスタント等の宗教転換には、おっしゃるように多分に政治的な物、つまりある種族が領地拡大と統治のために、宗教と言語をコントロールすることで、支配しやすいように非統治者の文化や精神構造まで変えてしまうということでしょう。
ドルイド教のアイルランドケルトをキリスト教化したセント・パトリックの手法は評価されるので、これを学んだ人は多かったようです。>「多神教の分派抗争は必然」
一神教のユダヤ教からキリスト教の分派はどう捉えるべきなのでしょう。
多分宗教をつかさどる、例えば祭主のような人が民族の繁栄と共に多く必要とされ、彼らの中に考え方の相違が出てくることになり、信者獲得などの利権と相まって抗争が始まったともいえそうです。
Commented by Abend at 2011-07-15 22:39 x
sawyer様、こんばんは。京都は祇園さんの宵々山です。恒例の宵々山コンサートも、今年で最後となりました。

ユダヤ教も、イエスの時代には複数の宗派がありました。R.シュトラウスの『サロメ』で斬首されるバプテスマのヨハネは、イエスに洗礼を行った人物ですが、律法中心のユダヤ教において、バプテスマ(洗礼)という行法は極めて異質なものだったのではないでしょうか。これは、ユダヤ教内の一派ではなく、ヨハネを中心として建立された新教団だと思います。律法という「学」ではなく、洗礼という「行」によって神と繋がるのは、当時では非常に斬新なものであり、それゆえに強い弾圧を受けたことでしょう。斬首というヨハネの無惨な最期がそれを物語っていると思います。
イエスは、バプテスマのヨハネから強い影響を受けつつ、洗礼という「行」を超えて、神と繋がろうとしたのだと思います。
Commented by HABABI at 2011-07-15 22:54 x
sawyerさん、こんばんは
「縄文への道」は既に見ています。よく調べて書かれておられると思いますが、結論の根拠等、不明な箇所も多いと思います。特に、為政者と宗教の関係という観点に触れて頂ければ、分かり易くなると思いました。日本に関して、仏教に触れていないのも、不思議に思います。
浅野順一氏は、神学者、牧師だった方です。氏の図書は数冊、近くにありますが、『旧約聖書を語る』はなかったので、先ほど注文しました。引用されている箇所だけでは、理解が難しいです。ただ、引用箇所に限定して言えることは、文化間の争いについて触れていますが、「一神教と多神教」というようなことには触れていませんね。もし、本にそのようなことが書かれていたら、お知らせ致したく思います。
いろいろ、ありがとうございます。
HABABI
Commented by noanoa1970 at 2011-07-16 02:45
HABABI さんこんばんは
『旧約聖書を語る』発注されたとのこと、研究心あふれていますね。すばらしいと思います。

ご存知だと思いますが、「縄文への道」の中に以下のような著述引用があり、農耕と遊牧一神教と多神教についての一こまが記載されています。
 『旧約聖書のエデンの園の物語は、こうしたバール神とヤハウェ神の戦いの中で、唯一神ヤハウェに対する信仰心を強化し、純化するために書かれたものに他ならなかった。』
『旧約聖書のエデンの園の物語はそれまであった多神教(農耕の神々)を攻撃する物語なのである。』

安田喜憲『蛇と十字架』は、『アダムとイヴの寓話こそ、唯一神ヤハウェを奉じる遊牧民と、豊饒のシンボル「蛇」を自由にコントロール出来る天候神バールを奉じる、農耕民との争いを示しているのだ』と謂う。

Commented by noanoa1970 at 2011-07-16 02:45
続きです
鈴木秀夫『森林の思考・砂漠の思考』も、多神教から主神、そして一神教に移行する経緯を述べている。。
(あらましは小生が記述)乾燥化による森林の消滅が多神教から一神教への転換のきっかえであるという、自然科学的アプローチも興味が沸きます。
http://joumon-juku.com/mori&hito/books.html#06
上のURLに、作者が参考にした書物が記載されています。

和辻哲郎『風土』も紹介されていますが、小生昔読んだ本ですがこの記述の記憶がありませんでした。

聖書の中の逸話一つを題材にとっても、視点論点が多くなかなか一筋縄には行かないものですね。

「縄文への道」は、おっしゃるとおり偏ったものの見方であるように思うところがあります。
しかし小生と同じような視点も垣間見れ、ある程度まとまっていますから、非常に参考になりました。

キリスト教以前の古代文化は、森の消滅と共に新しい文化に取って代わられることとなったという仮説からかかれたもので、都合のよい著述の引用もありますが、ケルト、ドルイドに興味を持つ小生には親和性があるものでした。
Commented by noanoa1970 at 2011-07-16 04:04
Abendさまこんばんは
宵々山のコンサート終わってしまうのは残念なことです。
高石ともや の体力が衰えたのでしょうか。
小生は70年代しか知りませんが、京都フォークキャンプなど、中津川フォークジャンボリー、春一番コンサートから刺激を受けたイベントが多かった京都でした。北山のホンキートンクに出演していたのはバンジョーの岩井宏さんだったような記憶があります。
はしだのりひこは、時々キャンパスに来て明徳館の入り口で歌っていました。

「サロメ」は偶然ですが、おととい録画しておいたものを見ました。
メトロポリタン歌劇場での収録でしたが、演出がかなりきわどく、エロチックでグロテスク、ヨカナーンの首を抱いて血まみれになっているサロメを見て、思わず途中で止めてしまいました。

Commented by noanoa1970 at 2011-07-16 04:05
続きです
キリスト教が新興宗教だったという見方は、説得力がありますね。わが国の新興宗教でも既存宗教でも根っこは同じであることが多く、中には奉る者が同じであることもあるぐらいです。
新興宗教場合は、』教祖がある日突然神がかりになるとか、お筆先によって神のお告げを書き記すとか、神秘主義的な者があるようです。
しかしキリスト教にはそれに該当するものがありません。
ユダヤ教もキリスト教も祖は同じです。派生したという言葉が妥当でないのなら、キリスト教はユダヤ教の改革運動体であったというべきなのかもしれません。
宗教改革がユダヤ教の内部で行われ、改革に携わった人たちが、キリストを担ぎ上げたとも言えるのではないでしょうか。
ユダヤ教内部からのルネッサンスだと小生は考えています。
それを促すのがヨハネで、ユダヤ教の反主流派ヨハネは、堕落したユダヤ教を、昔に戻すことを考えてていたようです。キリストはヨハネに上手く利用されたともいえます。
Commented by HABABI at 2011-07-16 09:03 x
sawyerさん、おはようございます。

わざわざ、引用して書いて頂き、ありがとうございます。当該の文を含め、全体一とおり目を通した上で、昨日コメントを出しておりました。

>『旧約聖書のエデンの園の物語は、・・・
はっきり書いていませんが、これは、安田喜憲氏の著書からの引用の様ですね。氏は、文明や歴史を自然環境との関係で研究しておられる方の様ですので、きっといろいろな事実・事象をもとに書いておられるのだと思います。引用するなら、少しでもその様な部分の紹介が欲しかったですね。
『蛇と十字架』は、機会があったら見てみたいと思います。どのような論理構成で書かれているのかも関心のあるところです。

全体を通じ、古代の歴史の中で、”神”がどれだけ前面に出てきて争いになったのか、民族間の勢力争いの中で、ある意味で”神”が利用されたものなのか、あるいは多神教が特定のものなのか、不特定のものなのか等、もう少し視野を広げたお話があると、私の頭でも理解が進むように思います。
Commented by noanoa1970 at 2011-07-16 13:55
HABABI さんAbend さん、こんにちは
これまでの流れの中で、新たに興味を持ったことは、音楽に絡まる「モーゼとアロン」の逸話です。

特にアロンについては、活躍の割りに情報が少ないのは何故だろうか、彼らは実の兄弟だったのかという疑問と、かれらが主導したエクソダスの真相など、これだけでも相当難問ですが、これらに関する情報を収集しているところです。少し前に「エヴァンゲリオン」の影響もあってその名が知られるようになった「死海文書」の内容とその評価も興味がありますが、余り手を広げると混乱してしまうので、一点に絞って奮闘するつもりです。
新旧の聖書は奥が深すぎますね。大変興味を抱かせるのに、答えがいつも見つからない。
いずれにしても、結果はどうあれ普段考えても見ない題材を、少しでも深堀できたことを感謝いたします。
HABABIさんAbend さん、有意義なコメントの数々どうも有難うございます。
sawyer

Commented by HABABI at 2011-07-16 15:26 x
sawyerさん、こんにちは

少し離れた所にある図書館に行って、1冊の本を見つけました。その紹介等をここで書くとご迷惑になると思いますので、私のブログの方に書くことにします。モーゼの兄、アロンのことも調べてみようと思います。

旧約聖書のことを調べて考えるとてもいい機会だったため、すっかりsawyerさんのお時間を使ってしまいました。恐縮です。お付き合い頂いたこと、改めて、感謝致します。
HABABI