シェルヒェンのベト5、リハーサル録音から「トスカニーニ」を巡って






いきなりyoutubeの動画を張り付けで恐縮ですが、HABABIさんがワルターのリハーサル音盤を紹介しておられたので、刺激を受け、シェルヒェンのリハーサルのCDがあることを思い出し、感想などを書きこむつもりで捜したのですが見つからなかったので、もしやと思いyoutubeを探してみると、ちゃんとあるではないか。
存在することを、再確認できたたようで、ありがたいと同時に嬉しい事だった。

(昼食後に改めてCDを探したところ、一番最後に捜した棚の一番右端にあるのを発見、こういうことが小生には多く、一瞬で見つからない場合は、何度探しても見つかりにくい)

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ベートーヴェンの交響曲第5番のリハーサルと本番。
1965.2.24~26.スイス・イタリア語放送管弦楽団

これからリハーサルに入りますとかなんとか言ってているのか、最初はボソボソとしゃべっている。
パンパンパンパーーン・・・・パンパンパンパーーンと2度、足を床に打ち付ける音で本格リハが始まる。
最後の音だろうか、シの音は「f」だとか何とか言っているようだ。
繰り返しのパンパンパンパーーンとパンパンパンパーーンに「間」があるのが面白い、コーダでもそうだからこれはシェルヒェンが意図してやっていることなのだろう。

ブゾーニ、モーツァルトと言っているらしいのも聴こえるガ、何をいおうとしているのかわからない。

所々で出る自ら歌うのを交えての音楽用語は、何とかわかるが、その言葉で何を伝えているのか、前後の脈絡がよくわからない。

いずれにしても、想像をたくましくさせる音源だということは間違いない。
リハというよりゲネプロかも知れないが、続く本番まで一気に聞き通してしまう、そんな魅力をこの音盤は持っている。

1楽章中間部を過ぎる頃から、だんだんシェルヘンの声が高くなり、終楽章に至るまで、まるで、レースを走る馬を、ムチで煽るような、凄いリハになっていく。
オケを煽りまくるシェルヒェンだが、何やら自分の主張らしきものをしゃべっているところがる。

一番の印象は、最初の方に出て来る「トスカニーニ云々・・・」たしかにそう聴こるが、イタリア語ともスイス語その他の言語とも判別がつきにくく(ミクスされているようなところもあって)、ましてや語学に疎い小生だから、最初聴いたときは、「トスカニーニ賛」、「トスカニーニのようにプレストで」演奏しろと言っているのかと思った。

しかし何度も聞くと、どうもそうではない、「パパパパーンと指揮棒でトスカニーニを思わせるように譜面台を叩き、どうも「俺はイタリア人のようなザッハリヒな指揮者ではない」というようなことを言っているようだ。
勿論イタリア人とはトスカニーニのことであろう。

考えてみれば、シェルヒェンの表現主義的演奏スタイルと、トスカニーニのザッハりヒな演奏スタイルとは、決して相容れないから、シェルヒェンがトスカニーニを尊敬したり、まして、トスカニーニのまねをするはずがない。

トスカニーニの音楽性を引き合いに出して批判していると考えていいだろう、もしそうであれば、そこがシェルヒェンらしくて、興味深い。

リハではそんな事まで語ることはないと思うが、拡大解釈をすれば、ザッハリッヒな演奏スタイルの芸術的バックグラウンドの「新古典主義」を批判していると想像すると、芸術的志向の違いが見え隠れし面白くなってくる。

シェルヒェンは、シェーンベルク、ヴェーベルン 、ベルクなど新ウイーン楽派の音楽の初演や、ヒンデミット、オネゲル作品の初演も行っている。
またノーノやクセナキス、シュトックハウゼンといった「前衛音楽」の初演にも積極的であった。

しかしそういった前衛的な側面のみならず、小生が所有している音源でも、バロック、バッハ、からロマン派、現代音楽まで幅広いレパートリーを持つが、割とオーソドックスな指揮をするものと、全く違う方向の破天荒なものが混在する(時代別変遷に言及するほど、自己統計が取れてない)指揮者だ。

これらの姿勢が示すように、表現主義:無調、12音そして前衛音楽の作曲家達との交流、さらには彼らの作品を積極的に取り込んだことが、指揮者としてのシェルヒェンに、それまでの指揮者にはない、楽譜の読み方と、革新的な演奏スタイル構築に寄与したのだろう。

そのことは「音楽とはかくあるべし」といった、音楽に対するシェルヒェンの情熱を感じさせる、大きな要因となったのではないだろうか。

シェエルヒェンの音楽的あるいは芸術的志向形成と時を同じくして、表現主義を志向する芸術家集団と、新古典主義者を標榜する集団が、激しい論争をしたことが影響したのか、音楽や演奏、そして指揮の分野においても、両者(単純には区分できるはずはないが、一応特徴から、シェルヒェンとトスカニーニを、それぞれ表現主義的な指揮者と、新古典主義的(ノイエザッハリヒカイト)指揮者としておこう)の、批判的対立が有ったことを思わせるものである。

以下の英文は、動画を投稿した外国人が、イタリア語とスイス語その他言語でシェルヒェンが、トスカニーニを引き合いにしてしゃべるのを聞きとって、英文にしたと思われる文章である。

これが正しいとすれば、小生の意訳では以下のようになる。

あまり自信がないので、英語が得意のベイさんに、よりよい訳をお願いしたいところだ。

He's talking about the different manners of interpretations before the first world war and after...blaming Toscanini for having introducted a way that is guilty of the distruction of creativity and originality in Art...

第一次世界大戦(1914-18)の前後で、音楽(楽曲の解釈)にはかなりの違いがある。
トスカニーニが示した方法は、藝術の創造性やオリジナリティを阻害するものだから、彼の罪は大きいといってトスカニーニを批判した。(小生の意訳)

「第一次世界対戦前後で藝術における主義主張、作品が変化した」というようなことを言っているが、それはまさに音楽において、後期ロマン派を経て、印象派、そして新ウイーン派の出現と、新古典主義音楽、さらにそれ以降の前衛音楽の出現を示唆しているように思われる。

そのこととシェルヒェンが批判したトスカニーニの音楽性とがどうして結びつくのかはわからないが、トスカニーニを大戦前の、いわば古い体質の指揮者であるということを言いたかったのだろうか。それとも大戦後出現する、新古典主義的傾向にある指揮者であるということを、言いたかったのだろうか。

大戦前の藝術は、いずれもロマン主義の亡霊であり、象徴主義の流れと平行して出現した表現主義は、ロマン主義の申し子という捉え方をシェルヒェンはしたのだろうか。

大戦後はというと、ロマン主義の亡霊に影響を受けながらも、否定するところに、不可思議さはあるが、反ロマン主義、反印象主義という立場の仏6人組やメシアン、ジョリベ、ブーレーズと続いていき、ドイツでは、新ウイーン派、すなわち調性の完全崩壊が出現することで、従来の音楽的価値観も崩壊することになった。

ロシアなど、各国でも時をほぼ同じくして同じような世代交代が行われ、中でもスクリアビンやストラヴィンスキーの出現は影響度も大きかったと思われる。

しかし一人の音楽家や演奏スタイルを、こうやって~主義というように括ってしまうことは、表面的な見方であることは、重々承知で、ドビュッシーを例にとっても、晩年は印象派とは呼べない作品を書いているし、作風がすごく変化した人もかなり存在する。

ではあるが、便宜上世紀末から20世紀へと時代が変わるときの、世界大戦があったからより激しく動いたと思うが、その変化過程を簡単に鳥瞰するためには致し方無い。

「第一次世界大戦前後の藝術、藝術思想・運動の変遷」という視点は、非常に奥が深から、これについては、もっと詳細な情報取得と整理が必要であろう。

中途半端な情報で恐縮だが、続けさせていただくとして、この時代の音楽の変化は、他の芸術運動の影響を多分に受けており、音楽が他の藝術ジャンルの思想や運動から、一番影響を受けた時代であったかも知れない。

物凄く大雑把に言ってしまえば、後期ロマン派音楽の亡霊が住み着いていたのが大戦前、大戦後にその残滓であるフランス印象主義音楽とドイツ表現主義音楽が出現し、それらを絡め取ろうとしたのが、新古典主義音楽であるが、奇しくも否定したロマン派の音楽的特徴を内包していたという摩訶不思議な世界だ。

時代は繰り返し、藝術も思想も繰り返していくのだろうか。
前衛はそれを断ち切りたいと願うところから始まったと小生は思う所がある。

シェルヒェンの表現主義的演奏は、ドイツロマン主義の流れから決してはみ出るものではない。
むしろトスカニーニのザッハリッヒな指揮のほうが、近代的≒反ロマン主義だが、実はロマン主義を内包する新古典主義的要素がある。
新しいようで古く、古いようで新しいのが新古典主義に内在する要素だ。

何故にシェルエンがトスカニーニの批判をしたかが、わからなくなりそうだが、それは多分主義主張といった物ではなく、音楽への取り組み姿勢ではなかったか。

トスカニーニは、米国に渡ってから特に、レコーディングによって、万人に音楽が聴けるように、積極的にスタジオに入って録音のために演奏した。
スタジオ8Hでの一連の録音は有名である。
くり返し聽かれることをも見越していたのか、作曲者の代わりに音楽を提供するべく、自己流の解釈を拒否した演奏で通している。

一方シェルヒェンは、録音よりもライブを重視したせいか、残された録音用音源は多くはない。
トスカニーニと違い、自分のベートーヴェンを聴いてもらいたいと言うような演奏だ。
しかも録音にもかかわらず、観客を録音スタジオに入れての録音演奏あるいはライブ演奏かと思うほどの感覚をいつも与えてくれる。

そういう例として、カラヤンとチェリヴィダッケの確執が取り沙汰されるが、音楽に対する姿勢を巡っての確執は、それ以前の少し古い時代から有ったのかも知れない。

このあたり、録音に対する演奏家の取り組み姿勢の変化や違いが明確に出ることになるのは、大戦を挟んでの録音技術の急速な発展に大きな要因があると思うが、(・・・戦争が科学技術発展の最大のファクターだから)そのことは、シェルヒェンの言うところの、大戦前後の変化の重要な1つになっているのだろう。

この録音でシェルヒェンの発する言葉が全て理解できたら、リハーサルは、こんなふうにやっているのだ、ということだけでなく、シェルヒェンの「解釈」を知るという事を含め、もっともっと広い見地から、いろいろなものが捉えられ理解が可能だろうが、残念なことに、小生の外国語の能力では、いかんともしがたいのが残念だ。

以前から小生には、音楽評論や音楽ジャーナリストを始め音楽を生業としている人に強い要求がある。
それは演奏家と聴衆の橋渡しをすることにあると、小生は思っている。
演奏表やCD評などは、今や多数の素人の耳の情報の方が圧倒的多数で、しかも様々な視点からのものが、ネットから入手可能だから、プロ個人の見方などは、なくても困ることはない。

何をやっていただきたいかというと、演奏会でも録音に置いても、演奏家がどのようにその楽曲に取り組んだか、如何に解釈したか、どういうところを重点に聴いて欲しいかなど、演奏家と聴衆を結びつけるための取材や、それができない過去の演奏家については、そのことをなるべく示せるような、有効な情報を集めて、教示して欲しいということだけである。

それを満足することが可能であれば、評論の視点はそこからたくさん導かれるはずだから。
今不足していること、それは演奏者と観客の情報共有のための橋渡しなのではないか。

今回聞いたリハの音源なんかは、シェルヒェンの音楽姿勢や解釈、人間性をも含めて、深く知るための格好の材料であるから、音源から読み取れる情報を精査した上で整理して提示していただくと、情報の価値はかつて無いほど高まると思うのだがいかがだろうか。

演奏者の音楽的姿勢や狙い、解釈の仕方などを知ることができれば、演奏の善し悪しなどは、単なる技術でしか無いことに気づくことも、大いに有り得ると小生は思っている。

また演奏者も、そのような自分の音楽的姿勢や考え方を、積極的に聴衆に知ってもらうこと、つまり情報発信することを、常に念頭に置いておくべきであろう。

いつまでも藝術の開かずの扉の内に、閉じこもって、「音楽を聞いてもらえばわかる」なんていうことを言っている時代は、20世紀末、イヤもっと昔、それこそ第一次大戦後で、とっくに終わってしまったことを、認識するべきではないだろうか。font>

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by noanoa1970 | 2011-06-29 11:00 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(9)

Commented by ベイ at 2011-06-30 00:08 x
noanoa1970さん

英文はnoanoaさんの意訳で間違いありません。

He's talking about the different manners of interpretations before the first world war and after...(彼は第一次大戦前とその後の解釈の違いについて話し、)blaming Toscanini for having introducted a way that is guilty of the distruction of creativity and originality in Art...(トスカニーニの導入した手法は芸術の創造性と独自性を破壊したと非難している)
having introducted はhaving introduced ではないでしょうか?

Commented by noanoa1970 at 2011-06-30 02:29
ベイさん
さすがです。
細かい点まで良く分かります。
有難うございました。
Commented by cyubaki3 at 2011-07-01 08:54 x
リハーサルと言えば、クナッパーツブッシュはリハーサル嫌いで有名だったんですよね。

私はこの曲をよく知っている。君たちもまたこの曲をよく知っている、よって練習する必要はない。さようなら。(ウィーン・フィルとのリハーサルで)

多分ご存知でしょうが。
Commented by noanoa1970 at 2011-07-01 14:41
cyubaki3さまこんにちは

いえいえ、初耳でした。
面白いエピソードですね。

アゴーギグの強力なクナですから、リハなしではあのような指揮に、ついていけないかと思えるので、しょっちゅう言ってたとは思えませんが、このお話は、特定の曲のリハでしょうか。そうであれば、(もしわかれば、)どの曲のリハなのかご教示いただけるとありがたいです。
Commented by cyubaki3 at 2011-07-01 20:53 x
>どの曲のリハなのかご教示いただけるとありがたいです。

このエピソードは昔読んだ本に書いてありました(本のタイトル、著者は失念しました)。私はブルックナーだと記憶していましたが、ネットで検索してみたところ、どうもリヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」のようです。下記のサイト以外にも同様の記述がありましたので間違いないと思います。

http://koshiro-m.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-c2b8.html
Commented by Abend at 2011-07-01 22:32 x
sawyer様、こんばんは。
指揮者のジャケット写真。その指揮者のリハーサル風景は、今でこそ映像で見ることができますが、昔は音声を聴くのみでした。

モントゥー/ロンドンSOの第九、フルトヴェングラー/ストックホルム放送SOのレオノーレ序曲第3番のレコード、そしてFM放送からカセットに録音したトスカニーニの怒号リハーサルが、私のリハーサル風景聴き始めです。モントゥーのものはCDも所有し、フルトヴェングラーのものは今も持っていますが、トスカニーニのリハーサル音声はカセットがなくなって困っていたところ、ニコニコ動画でUPしてくれている人がいて、PCに入れることができたのは喜ばしいことでした。

シェルヘンがバッハの曲を指揮しているリハーサル風景を。先日テレビで見たのですが、何の番組だったのか、思い出せないのです。
Commented by noanoa1970 at 2011-07-02 00:08
cyubaki3さま
早速ご教示ありがとうございます。
バラの騎士だったとは、少し意外でした。
ワーブナーかブルックナーと想像しいました。
Commented by noanoa1970 at 2011-07-02 00:24
Abendさま
リハの音源は、ウエストミンスター盤のモントーのベト9にカップリングされたものと、シェルヒェンのベト5しか持ていません。
言っていることが全て理解できたとしたら、きっと彼らの音楽に対する態度、楽曲の解釈などに多いに役立つと思うのですが。
もっと外国語をしっかりやっておくべきだったと、公開しているこのごろです。youtubeなどの動画配信サービス、かなり役に立ちます。フリッチャイの練習風景を発見し、興奮してしまいました。まだ調べてませんが、セルやライナーがあるといいと思います。シェルヒェンのバッハArt of the Fugue, BWV 1080のリハ、youtubeに有ります。http://www.youtube.com/watch?v=4s-coTlGgBU
Commented by Abend at 2011-07-03 00:12 x
sawyer様、ご教示ありがとうございます。
テレビで観たというのは私の勘違いでした。ご教示いただいたYouTubeの映像でシェルヘンのリハ風景を観たのでした。

YouTube、ニコニコ動画、また著作権切れの演奏がUPされているサイトは実に重宝します。欲しい映像や演奏はすぐにダウンロードできますし、便利です。UPされているリハ風景を集めてDVDにするのもいいと思います。
外国語を解する能力は極めて低い私ですが、指揮者の口三味線ならぬ口オケを聴くだけでも、何をオケに求めているのかがそれとなくわかります。その度に、指揮者というのは大変な職業だと感じます。私も何十人の前に立つ仕事を30年近くやっていますが、各パートのプロ達を統率する指揮者というのは、強靭な体力と精神力がないと務まらないでしょう。