岡田暁生著「音楽の聴き方」重箱の隅的想い

2005年6月5日に開始したこのブログ、気が付いたら丁度6年が過ぎた。

わけあって、途中一ヶ月だけ更新をしなかったが、後はすべての月更新ができた。

しかし、毎日更新していた勢いは失せて、だんだん間延びするようになった。

自身の性格から言えば、日記でさえ続けたことがない小生だから、主に音楽に纏わるエッセイを書くことにしたこのブログ、こんなにも続くこととは、思いもしなかった。

やはり、音楽の持つ不思議なエネルギーのなせる技なのだろう。

話は変わるが、友人の勧めで、岡田暁生の「音楽の聴き方」なる著書を読み、重要な箇所はほぼ抑えたが、学生時代に徹夜で討論した事柄のいくつかと交差する所があって、思い出し懐かしくなった。

現代の音楽享受事情に置いて、かなり有意義な示唆をこの著作は含んでおり、単に音楽の聞き方という範疇では括れないほどの、深く広い内容にチャレンジしている。
ハウツー本なら、古今東西いろいろなものが出版されたが、この著書は「音楽との関わり合いかた」について、様々な角度から、様々な分野からの事象を捉えようとしたものである。

ありそうで実際にはかつて存在したことのない著書と言えるが、あまりにも多岐に渡る内容だから、まえがき、あとがき以外直接すぐに参考になるものは無い。

しかしながらこれらのことに興味が少しでもあれば、考えるヒント満載だから、後は自己鍛練で、本書は自己鍛練への引導の役割でしか無いのだろうが、小生にはそれで十分である。

小生はこのブログで書評というか感想というか、そのような類のもの書こうとして、今ようやくちょっとした形になったが、批判的になってしまった所がかなりあるから、さっきまでUPを躊躇していたが、覚悟を決めて投稿することにした。

ネット上では絶賛の声が多いから、重箱の隅的小生の言及が通用するワケはないし、逆批判も有ることと察するが、それでも3日間かけて綴ったものであるし、この著作を読んだことの記念でもあるので、勝手な言い分だが、著者へのさらなる期待を込めて、UPする決心をしたものである。

失礼な言い回しがあるやもしれませんが、気を悪くされないようにお願いいたします。

小生は少し前に、「音楽、聞き方接し方のちょっとした変遷」と題したブログ記事を書いたが、その時の内容と、友人の勧めのこの著作と重なる所が多く在った。

このような類の著作、古今東西の音楽研究者、音楽美学、社会学の立場で、あるいは演奏家が書いたものなどを読むのは、実に久しぶり、少ないながらも、市場にある音楽研究の、あらゆる書物を読もうとした学生時代以来のことである。

「音楽の聴き方」というテーマは、個人的にも興味が有り、それは、音楽を本格的に聴き始めてから足掛け50年の今、自分の音楽に対する接し方、つまり聴き方が、どのように始まって、どのように変遷しながら今に至ったかを、一度レヴューしなくてはならないと考えていたこと(その概略は先のブログにて書いた)。

さらには、愛好家諸氏のそれは一体どのようなものなのか、程良く記述されたものにお目にかかったことがないので、プロの立場で記述したこの著書は、自分との比較において、参考になるであろうと思ったからである。

読んでみて、この著作の内容と、自分の音楽の接し方は、かなりオーバーラップする所があるが、著者の話の前提で、少しだけどうしても気になる所がある。

それは、著者が、時代錯誤をしている所が見受けられ、それを前提にした上で、多岐にわたった話を展開するから、かなりの論点飛躍や時にかなり恣意的になることで、文脈に誤謬が散見されることだ。

彼の主張の前提となる「まえがき」には、以下のことが書かれている。

『コンサートにはいかず、ほとんど専らCDやPCからのダウンロードなどで音楽を聞くことを慣わしとしている人々の場合は違うかも知れないが、』
とした上で、以下の文章が続く。

『やはり大多数の人にとって、音楽を聴く最大の喜びは、他の人々と体験をを共有し、心を通わせ合うことにあるはずである。』

『例えば、素晴らしいコンサートを聴き終わった後、それについて誰かと語り合いたくて、うずうずしているところに、知人と会って「よかったね!」の一言が口をついてでてきたときのこと、互いの気持ちがピッタリと有ったことを、確信させてくれるコンサートの後のあの「一言」がもたらす喜びは、音楽を聴いている最中のそれに勝るとも劣らない感興を与えてくれると、私は信じている』

『自由闊達に語り合えるほど、やはり音楽は楽しい。
聴く喜びは、かなりの程度で、語り合える喜びに比例する。音楽の楽しみは聴くことだけではない。
「聞くこと」と「語り合うことが一体となってこそ音楽の喜びは生まれるのだ
。』


何度読んでも、著者の言う、大多数の人の分母が何であるのか、小生にはよくわからない。

「CDで専ら聞く人は違う」というのだから、「大多数の人にとって、音楽を聴く最大の喜びは・・・」、と続く文面からは、大多数の分母は音楽愛好家の全てを含んではいなくて、CDを専ら聞く人は含まないとみるべきなのか。

であるならば、「コンサートにはいかず専らCDなどで・・・・」音楽を聴いている人が愛好家に占める比率は、相当高いにもかかわらず、そういう愛好家を、「そういう人達は違うかも知れないが」とし、「やはり大多数の人にとっては・・」と、分母から除いて展開した、著者の現状認識は、かなりずれているとしか思えない。

さらに、コンサートに行った人のコンサート後の会話の楽しみを強調し、「音楽を聴いている最中のそれに勝るとも劣らない」とし、音楽について語り合うことが、音楽の楽しみ方の1つで、聞くことと語り合うことが一体となってこそ云々と、あたかもコンサート後の会話によって、音楽の喜びが達せられるという錯覚を与えてしまったこと。

著者は具体的には言及していないが、専らCD等によって音楽を聴く人を除いてしまったことを思うと、この著者、どうも「生」至上主義的な傾向の発想が根本にあるようだ。

生のコンサートと複製ソフトで聴く音楽に、聴くという行為における音楽本来の基本的な差はなく、有るのは付加価値である。

生のコンサートは、たしかに素晴らしい時もあるが、常に一回性だから、時間と共にその音楽の記憶は薄れていってしまう。

それに、生のコンサートにいくことが可能な人間は、著しく限定され、首都圏以外の住人には、頻繁なコンサート参加は、物理的経済的に非常に困難だし、聴きたい演奏家はいつも首都圏のホールでしか公演をしない。

しかし複製ソフトであれば、何人も同じ演奏録音を聴くチャンスがあるし、必要なら何回もくり返し聴くことが可能だから、その音楽や演奏について深く浸透していくことが出来るし、共通の話題となる絶対数は、はるかにコンサートのそれより多い。

そもそも1回ポッキリしか聴いてないのに、深みのある演奏評を書くことは相当困難だ。

小生は、音楽を聴くということにおいて、両者は等価であると思うのだが、生>複製ソフトという生偏重主義者の言動には碧々する所があって、小生はかなり懸念を持っている。

著者は、専らCDで音楽を聞く愛好家たちが、WEB上のSNSや掲示板やブログなどに、自分が聴いたCDの印象や軽い批評などを書き込み、それに対して不特定多数からコメントが寄せられ、またそれにお返しをするという、インターネット時代におけるコミュニケーションスタイルには一切触れることがない。

つまりコンサートに行く愛好家人口よりも、おそらく何倍もの人がいると思われる、複製音楽愛好家の存在という現代の音楽享受事情を考慮してないこと、そこに著者の時代感覚のズレが有るのを小生は強く感じるのである。

「CDやパソコンダウンロードなどで、音楽を聞く人は違うかも知れないが・・・」「大多数の人にとっては・・・」と、文章が続くから、口説いようだが、先に小生が述べた、現代の複製音楽享受状況を全く踏まえないことになり、学者としては現状の音楽享受事情に対する見方の偏重があるように思うのと、言い換えれば自分の話を都合よく展開できるものだけをチョイスするという、極めて恣意的な方法の文章に思えてならない。

およそプロの、しかも学者的立場の物書きが、音楽享受スタイルの多様化現状を無視し、言い換えれば都合の良い材料だけを抽出して、自分の考えの正当性をバックアップしながら話を展開をすることは、肯定できるものではない。

小生のように、主には自宅でLPやCDなどのソースで音楽を聴き、LDやDVD他で映像を観、時々コンサートという人間は、無視されるような少人数の音楽愛好家ではない。

作者の言う「大多数」の分母を、音楽を聞く人すべての人と解釈するしたいところだが、そうするには文章的難があり、前段の、「コンサートにはいかず専ら・・・」とわざわざ断りを入れて、「そのような人々は違うかもしれないが・・・」と帰結する文章展開からすれば、やはりこの文章は、家で専らCD他のソフトを主に聴いている人々を除いたもの、つまりコンサートに行った人を分母とするその中の大多数になる。

いや、著者の言いたいことは、こういうことなのかも知れない。

つまり、専らCDなどを聞く人は、コンサート後の会話のよかったね!を他人と共有するチャンスガ無いが、コンサートに通う「大多数の人にとって、音楽を聴く最大の喜びは、他の人々と体験をを共有し、心を通わせ合うことにあるはずである」・・・・・・と言う文章にしたかったのではないだろうか。

こういう文章であればかなりスッキリわかるが、それにしても内容には問題がある。

先に書いたように、同じ録音を聴いた愛好家たちの、WEB上でのコミュニケーションに一切言及しないのは非常な違和感がある。

直接顔を見ての会話か、素性の知れない誰か、しかし愛好家たちと、WEB上でコミュニケートするかの違いで、会話やコミュニケートの中味が、さして変わるものでもないと思うのだが、何故にそのような1つのカルチャーガ存在している事には言及しないのだろうか。

生偏重主義は、音楽を聴くという行為ばかりではなく、コミュニケーションにまで及んでいると思える著者、やはり時代錯誤感覚の持ち主だと言わざるを得ない。

文脈を逆に読めば、家で一人でCDなどで音楽を聴く人には、「音楽を聴く最大の喜びである、他の人々と体験を共有し、心を通わせ合うこと」ができない、ということを言っていると読め、そしてそれを逆補完するのが、例に出したコンサート後の「よかったね!」ということになるだろう。

WEB上の掲示板、MIXI、ブログなどの情報発信ツールと、そこでの会話の有ようは、無視も否定も出来るはずがなく、現代の立派なコミュニケーションツールとして最早確立されていることだし、機会的にはそちらの方に部があることでもある。

事実掲示板やブログ、SNSにコンサート評や感想をUPする愛好家が、相当数存在する。

以上のように、音楽愛好者の多くを占めるであろう、現代の音楽享受事情の典型、一人でCDなどで音楽を聞く人達の存在に、あえて触れてないことが、話の展開が恣意的であることの証と小生はみる。

素人の書いた文章ならば、決してこのような重箱の隅的に言わないが、出版という行為によって幾許かの収入を得、副次的に名前を売り出すことにも繋がるプロとしての社会的行為だから、批判はあってしかるべきで、しかもこの著作の大前提には、時代錯誤的欠落や間違い、言い換えれば現代の音楽享受事情を考慮すべき重要な点が欠落していること、論理展開がご都合主義的なことなど、何れにしてもプロの物書きの文章としては、あまり評価できるものではない。

内容のいくつかには、気づきを与えてくれるところや、はっとするところもあるのに、恣意的な言い回しや例の引き方が見受けられるのは、文章全体の品性を下げ話を難解にてしまうから非常に残念である。

恣意的なことの例はこれだけではない。

著者の知人である外国人の管楽器奏者が、「蝉の声がうるさくて楽器の練習ができない」といったことを例に出し、外国人とに日本人の聴覚の根本的な違いに言及する箇所がある。

『日本でかなり長い間ある邦楽器を学んでいたドイツ人の友人宅を訪問したときのことだ。うだるような夏の京都の昼下がり、いたるところでセミがかしましく鳴きたてている。その友人が苦々しくつぶやいた -- 「夏はセミがうるさいので楽器練習の邪魔になる」。私は仰天した。』
日本人の聴感と西洋人のそれとの違いを言うために持ちだしたのか、蝉の声がうるさいといった西洋人を見て仰天したというが、この著者の見方はすごく表面的すぎで、なぜそうなのかということを全くつかみきれてないまま、現象だけを捉えて例として出してしまった。
著者が如何に恣意的な人間であるかの理由は以下のとおりである。

小生の体験
夏の暑い日のこと、外ではセミが鳴いている。
窓を開けて風を入れながら音楽を聴くと、蝉の声がじゃまして音楽の細部が聞こえない。
それで音量を上げると、それにつれてセミも鳴き声を大きくするのだ。
結局は諦めて窓を閉めエアコンの世話になりながら音楽を聞くことになる。


そんな経験をしたことがあり、セミは音楽に激しく反応して、音楽が強い音では鳴き声が大きくなり、小さいとセミも小さく鳴き声を落とすことを知った。

おそらくこの外国人は、邦楽器を吹くと、楽器の強弱音に合わせたようにセミが鳴くのを、うるさいと思ったに違いない。
音に関して何かをしようとする時、それに反応し、妨げになるものは、西洋人東洋人問わず、やはり邪魔になり五月蝿いのである。

著者は東洋人と西洋人の聴感の違い、あるいは右脳で聞くか左脳で聞くかの違いの例として有名な「虫の音」の話を蝉の声に変えて、外国人の邦楽師に無理やり当てはめようとしたのではないか。

「ケージの東洋的思想の影響音楽を補完」する目的と西洋人の「人間中心的考え方」の典型として、この外国人邦楽者のセミの話を持ちだしたが、物凄く表面的でご都合主義の見方であり、恣意的なこの例の引用が、胡散臭いことは、夏の暑い日窓の外から聴こえてくる、セミの鳴き声を聴いた経験の持ち主であれば、誰でもわかってしまうことだ。

練習の楽器を吹くと、楽器の強弱と合わすように、鳴き声は大きくなったり小さくなったりするのだから、練習に支障を来すほど鬱陶しくて、五月蝿いに決まっている、それは何も西洋人に限ったことではない。

実情にそぐわないこのような例え話の引用は、ある目的をはたさんがための架空のつくり話と思われても致し方無い。

そう思われてしまうのは、実体験的物言いが少なすぎることが原因で、そのことは「音楽の聴き方」というテーマにも当てはまることだから、もう少し自身の聴き方を生の声で披露して欲しかったと小生は思っている。

音楽美学や社会学、そして哲学的知見からの言及引用は、それなりの著者の学習の成果による知見を表すものだが、ほとんど全てが自分の論理展開の都合の良い道具として引用されている。

著者は、テオドール・アドルノに傾倒していると思われるが、彼を含む古今東西の、音楽に物を言ってきた人たちの著作の文脈から、話の展開に都合の良い部分を引用することが多い。

そして、引用部分をまとめて見せることで、自分の意見の代用としてしまうというやり方に特徴を持つが、そしてそのことがこの著作を難解にしている。

まとめるのなら、わかりやすくが原則で、こ難しく云いたがるのは、自身がよくわかってない証拠だと先人が言ったが、この著者は、まさにそうなのかも知れない。

難しいながらも、この著作の良いところは、漫然と音楽を聴いている音楽愛好家、音楽を癒しとか慰めとか感動を与えるとかの範疇でしか捉えていなかった人に対しては、それらとは違う価値観があることを提示したことだ。

たまたま小生は、学生時代の音楽研究サークルで、音楽の聴き方について、「他人の音楽の聴き方には口をだすな」というタブーめいたものがあった中、音楽研究には必須の「音楽の聴き方」について、自分なりの考え方を確立する必要に迫られた経験があった。

音楽を聴くために、なぜハウツー本が必要なのかと、ベテランの愛好家程思うであろうが、この著書はハウツー本とは全く違う。
初心者がそう思って読むと完全に期待を裏切ってくれることだろう。

だがこの著作、著者はいったい誰を対象に描いて書いたものなのだろうか。

「音楽の聴き方」と言うタイトルにもかかわらず、初心者が参考書として読むには、あまりにも難しいし、聴き方の手ほどきなんて言うものは一切ないから、少しも読まないのに放り出してしまうことだろう。

かといって、コアな愛好家ほど、「聴き方などは自分の自由」と、最初から他人の聞き方など参考にする気がない人には、あまり読まれることはないだろう。

そういう意味からすると、この著書、タイトルのつけ方には大いに問題がありそうだ。

「音楽の聴き方」ではなく「音楽との接し方」「音楽がわかるということ」「音楽と言葉」ならば、強い関心がある愛好家は存在し、原題のままよりは読む気が起こるだろうが、そういう愛好家が大多数いるとは思えない。

だとすればこの書物の読者として丁度良いのは、音楽大学生や音楽研究者、演奏する人など、音楽に深く関わって従事する人たちのような気がする。

もしも、多くの音楽愛好家に対しての、ある種の啓蒙の狙いがあるのなら、著者のこれまでの音楽体験から出てきた「音楽の聴き方」、「音楽の接し方」などのスタートからその変遷を通じ今に至る、それこそ著者の言うところの、「現在の自分の型」のいくつかを紹介したほうが、良かったのではないか。

話の展開が分散化傾向にあるし、引用文がそもそも難しい内容で、著者のまとめがあってさえ難しいから、結局何が言いたいのかがわからなくなってしまう事になりがちだ。

啓蒙の本としては失格で、自身の音楽観と言うには実体験記述が、あまりにも少ない。

そもそもまえがきに有るこの著作の前提、あるいは必要条件とも言える事の、素晴らしいコンサートの後、知人たちと「よかったね!」といって言葉を交わすことより、小生はそういう感性の刺激を、一人で静かに噛み締め直すことのほうが性に合っている。

著者はよかったね!の共有や会話が大多数の愛好家の欲求というが、要するにそれらのことは、個人ごとに違いがあることだという認識が必要なのだ。

小生にとって、「よかったね!」の共有が、音楽を聴いての音楽的感性の揺さぶられと同等であるはずはない。

「よかったね!」の共有は、自己の感性が他人と同じであることで、「安心できるという特効薬・免罪符」を得た気持ちになるに等しいのにすぎない。

著者は、聴こうとする音楽の周辺の知識を多く持つことが、より深く音楽を楽しむことに繋がると言っているが、それはオールラウンドに当てはまることではなく、そうでない事をもって音楽に望んでも、楽しむことは可能だ。

ただし音楽の理解という事については、音楽周辺の知識はあったほうが良い場合が多いのは事実だろうが、しかし原点に戻ってしまうが、「音楽の理解」「音楽を楽しむ」とは何かという定義が再度問われることになる。

著者は言葉の概念定義を明確にした上で、もう少しテーマを絞って、平易な言葉を使って、自分の体験を加味した著作を書くべきではないだろうか。

例えば「音楽がわかることとは」どういうことなのかなど、いくつか考えられるテーマがあるはずだ。
しかもそれらのテーマは、その解決方法を導くのは、1つ1つがかなり難しいから、徹底し充実した中味が望まれる。

今回のように「音楽の聴き方」が、1つのテーマにとどまらなく、いくつかのテーマを含んだものになったのは、必然性があり、其々がとても厄介なテーマだけに、どうしても総花的になってしまい、結局著者の確個とした意見不明のままになってしまった。

たった6文字の「音楽の聴き方」は、実は巨大なテーマで、その中には、たくさんの個別テーマが含まれている。
著者の難解物に対してのチャレンジ精神は評価するが、まず個々のテーマにチャレンジし、そのあとでそれらを積み上げることが必要であろう。

観念→概念化、そして概念化された言葉の定義は、必要不可欠なことである。

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by noanoa1970 | 2011-06-15 08:49 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(15)

Commented by ベイ at 2011-06-19 22:25 x
noanoaさんのご指摘もわかるのですが、この本を読んでおすすめした身として、岡田暁生のような若手の学者がでてきてくれたこと自体がうれしいのです。吉田秀和さんや、海老沢敏さんばかりではない、新しい世代の発言は新鮮で、それは音楽評論家も同じです。宇野功芳さんだけではなく、渡辺和彦さんとか、宮澤淳一さんとか、片山杜秀とか、いい評論家や学者がどんどん出てきて、これまでとは違う視点で問題定義や意見を言ってもらうことが刺激的で面白いと思います。まずは、いろいろな見方や視点を知って、音楽の奥深い世界にどんどん入っていきましようよ。現時点での見方や聴き方というものも、いつかは変わっていくものです。「音楽の聴き方」は、紙数も限られているところへ、著者の書きたいことが多すぎて、やや統一感はないですが、それでもこの本から私は随分刺激を受けました。いま渡辺和彦さんの「クラシック極上ノート」(河出書房新社)を図書館から借りて読んでいますが、J.S.バッハのカンタータ全曲やハイドンの交響曲全曲を聴きなおすという話など、とても刺激的です。異論、反論、どんどん言い合っていいじゃないですか。とにかく毎日が勉強と体験と経験です。
Commented by Abend at 2011-06-19 23:21 x
sawyer様、こんばんは。
岡田氏の『音楽の聴き方』と『西洋音楽史』は読みました。ひとつの考え方として、面白く読めました。ナマ:レコという"クラシック分野の滑稽な対立図式"は何時まで続くのかと呆れます。多様性は多様のままで統一されるべきであって、どれかに決着されるべきものではないというのが、私の基本的な考えです。

岡田氏には、"多様性への苛立ち"があるのではないでしょうか。「楽しければいいではないか」という、「音楽」を地で行くことへの抵抗、言わば、金子みすずの「みんなちがって、みんないい。」が嫌だという"好みの問題"に収斂されるのではないかと。

私は、「音楽の聴き方」など存在しないと思っています。音楽は「聴く」という自力によるものではなく、音楽の力によって「聴かされる」ものと思っております。


Commented by noanoa1970 at 2011-06-20 09:36
ベイさんおはようございます。
そうですね。
若くて新しい感性を持つ音楽関係者が存在するということは、いいことです。
小生にとって、彼らは、自分の感性や知見と比べてどのような違いを持っているのか、という興味の対象の1つといったほうが良いと思います。大いに参考にした学生時代とはかなり違う受け止め方を今持っているのです。
小生はいわゆる音楽関係のプロ・・・たとえば音楽評論を生業とするような人たちの物言いより、アマチュアの感性豊かな人たちと、意見交換したり、時には意見を戦わせたりしながら、得る物こそ、大事にしたいと思っているのです。業界との関わりなど一切無い、実に素直で正直な自分の感性の表現があって、自分とは違うもの、それが刺激になったり、気づきになったりすることが多いのです。足掛け50年音楽と接してきたわけですから、昔のように、プロの物書きの意見は、もういらないと思うのです。レコ藝は購読しなくなってから15年過ぎました。・・・つづきます。
Commented by noanoa1970 at 2011-06-20 09:37
不思議なことですが金子健という音楽学者の著述内容と、小生が抱いた疑問のいくつかがオーバーラップしていること(これも掲示板で教えてもらったことですが)で、小生は彼の著書は一切読んだことがありませんが、素人ながら音楽を聴いての着眼では、プロと遜色が無いことがわかって、伊達に経験年数だけ多いのではないことを実感したものです。そのことは、音楽の聴き方に様々な要素が加わった証ではないかと思っています。偶然のようですが、小生今ハイドンの交響曲全曲ドラティ盤を逆順で聴き始め、半分まで来ました。誰かの著作を読んでのことではなく、これまであまり積極的に聞いてこなかったことからでしたが、ベートーヴェンが明らかに引用したと思われるフレーズの多さに驚いています。時には仰天するような展開があったり、恐るべしハイドンというのが今の心境です。未聴のバッハに入るのは、もう少し先になりますが、計画はしています。カンタータこそバッハの真髄という意見がありますが、それが事実かも確かめたいところです。こと音楽に関して、自然な欲求に従っても、悪い方向にはいかない、という自信が持てたことはありがたい事です。
Commented by noanoa1970 at 2011-06-20 10:03
Abend さま
コメントありがとうございます。

多分コアな愛好家の中に、Abend さまのような意見の持ち主が存在するということは予想していました。人から聞き方など教示されなくても、そんなことは自信で考え決めること、という意見ご最もだと思います。この著書、裏返してみれば、自分の音楽に対してのもろもろの考え方や知見は、こういう高尚なもので、一般の音楽愛好家とは次元が違うとでも言いたいのか。話を難しくして、すごい人(学者)だと思われたいのか。この著作には文章に愛情というものが全く感じられない。
Commented by noanoa1970 at 2011-06-20 10:03
>金子みすずの「みんなちがって、みんないい。」
自分の考え方が正しいことを、過去の音楽学者、哲学者、社会学者の意見を引っ張り出して、補完する著者には、この詩の心象はわからないだろうと思われます。「自分はこう思う」という一人称での著述が欲しかったと思います。
>音楽は「聴く」という自力によるものではなく、音楽の力によって「聴かされる」ものと思っております。
「聴かされる」は、人間は「生かされている」という禅の言葉のようで意味深長ですね。聴くという自分の行為ではなく、音楽が語りかけるのだという表現は、真摯に音楽と接すること、自分の感性に正直になれば、自ずから何かがわかるということにつながると思います。
聴くという能動性のことだけしか頭にありませんでしたが、作曲家や演奏家によって聞かされているという考え方、小生には新鮮に感じました。
Commented by Abend at 2011-06-20 23:23 x
sawyer様、こんばんは。
「音楽の聴き方」とは音楽を聴く作法のことですので、「音楽を聴く」という自力を暗黙の前提としなければ成立しません。しかし、よくよく考えてみますと、我々が音楽を聴く時、既に音楽は我々を包んでいます。「音楽に聴かされる」(「音楽を聴かされる」ではなく)
法悦に遊ぶことが全てであると思います。


Commented by cyubaki3 at 2011-06-21 01:40 x
noanoa1970さんの文章は音楽雑誌のやっつけ仕事のコラムなどよりはるかに面白いです。またコメント欄の常連投稿者の皆さんの意見も大変参考になります。私は今現在周囲にクラシック音楽について語れる人間がほとんどいないのでここは貴重な場です。
Commented by noanoa1970 at 2011-06-21 08:25
Abend さま
>「音楽の聴き方」とは音楽を聴く作法のこと
なるほど、そういう捉え方がありますか。「作法」を単にマナーというのでなく、音楽と接するとき、些細なことにまで神経を配り、音楽が語るものを掴むこと、また音楽への思いを表現することともいえましょう。

>「音楽に聴かされる」法悦に遊ぶことが全てである
そうです。我々は、そいう音楽や演奏を絶えなく求めているのかもしれませんね。そういう音楽や演奏にめぐり逢った時、至福の喜びが味わえるのでしょう。
Commented by noanoa1970 at 2011-06-21 08:42
cyubaki3さま
学生時代にはサークル活動などがそういう場所でした。また1900年代後半から2000年始めまでは、ネット上に専門の掲示板がありました。
しかし掲示板という優良コミュニケーションスタイルが、外敵圧力によって運営が困難になったのと、個人のボランティア的運営が限界に来たことで、相次いで有意義な掲示板が廃止になってしまいました。小生もそういう一人でしたが、ブログという発言媒体に移行した人はかなり多かったのではないでしょうか。
しかし小生は、ブログを、個人の発言の場としてしか運用しないのは、残念なことだと思っています。
ですから、こうして皆さんと、様々な音楽の考え方や見方、意見を交換しながら、感性の刺激を得ていきたいと思っています。
ですから、どうぞこれからも訪問くださることを願っています。
また何か思い当たるテーマで、みなさんの意見が欲しい場合はぜひおっしゃっていただければ、テーマとしてUPしますので遠慮なさらずにどうぞ。
Commented by Abend at 2011-06-21 22:25 x
sawer様、こんばんは。
クラシック音楽関係のまともなネット掲示板は、もう絶滅状態に近いのではないでしょうか。仰るとおり、愛好家は個人ブログにシフトしているように思われます。

高校、大学時代には、十字屋烏丸店の小石忠男クラシック・サロンにほぼ毎月参加していました。温厚篤実な評論家だった小石さんの解説によって、色々なレコードが聴けたことはうれしかったですね。朝比奈隆さんや宇野功労さんがゲストに来たことや、ロジェストヴェンスキー盤のチャイコフスキー交響曲全集を聴いたことなど、懐かしく思い出されます。
Commented by noanoa1970 at 2011-06-22 00:20
Abend さま
>高校、大学時代には、十字屋烏丸店の小石忠男クラシック・サロン・・・
ということは、京都ご出身でしょうか。
小生は専ら三条河原町店に行っていました。サークルの関係で、2割引でレコードが購入できたからです。サークルの先輩がバイトに行っていましたし、デーヤン(出谷啓)もまだ社員で働いていました。小石さんは大学祭に小生がいたサークル主催の「現代音楽」に関するパネルディスカッションを開催した時、講師として招いたのですが、惜しいことに用事ができて直前にキャンセルされました。外山雄三さんとサークルの大先輩の松本勝男さんとの対談となりましたが、テーマがテーマだけにあまり会話が盛り上がらなかった思い出があります。小石さんは小生の時代も、かなり評判が良かったです。宇野さんは好き嫌いがわかれたようでした。クラシックサロン、小生の当時(1967から1971あたり)も在ったのでしょうか、サークルの誰からもそのような情報はなかったので、全く知りませんでした。残念なことをしました。
Commented by Abend at 2011-06-22 00:52 x
sawyer様
はい。私は誕生以来京都から出たことはありません。
sawer様の時にサロンがあったかはわかりません。私が行っていたのは、1975年ぐらいからです。宇野さんは好きではありませんでした。ゲストで来られた時に、フルトヴェングラーについて質問した覚えがあります。因みに、私はsawser様の大学の北にある大学の出身です。学部がそこで、院が千北のあの大学です。

十字屋は、今も三条本店と烏丸店をハシゴします。それに寺町京極のAVISと三条東洞院のポコ・ア・ポコが加わります。出町の津田蓄音器が閉店したのは残念でした。河原町蛸薬師の清水屋はまだありますが、昔とはすっかり変わってしまいました。昔は奥がクラシックコーナーで、先代の店主と何時間もクラシック談義をしたものです。そういえば、昔の津田蓄音器の店主は、風貌がフルトヴェングラーに似ていました。
Commented by noanoa1970 at 2011-06-22 01:31
Abend さま
やはり京都人でしたか。それも生粋の。
ほぼ小生と同世代、少しだけ後輩になるのでしょうか。
ご出身の大学(院)分かりました。道理で「禅」に通じるものに、お詳しいはずですね。
>出町の津田蓄音器
通学の道筋にあったので、ちょくちょく顔を出していました。綺麗に整理整頓された店内とレコード棚は、主人の人柄を物語るようです。中年の女性がいつもいましたが、店主の奥さんだったのでしょうね。夏になると、打ち水がしてあったと記憶します。
>昔の津田蓄音器の店主は、風貌がフルトヴェングラーに似ていました。
ほとんど忘れかけていましたが、ボンヤリとですが思い出せました。
店の前で時々バーゲンセールをやっていましたので、バングラデシュ救済コンサートを購入した覚えがあります。しかしクラシックは20%OFFの十字屋オンリーでした。学生の身には高価なレコードが20%OFF、相当ありがたかったです。小生、いずれは京都に住みたいと思っているのですが、何時になることやら。修学院鷺ノ森神社近くに、相続した家内の実家があり、今は貸家にしているのですが、ゆくゆくはそこに住もうと思って計画してはいるのですが・・・。
Commented by Abend at 2011-06-23 00:03 x
sawyer様、こんばんは。
私は、sawyer様より10歳ぐらい下だと思います。所謂”三無世代”に属します。sawyer様が学生でいらしゃった頃は小・中学校時代で、下鴨に住んでおりました。津田蓄音器との縁も、そのことに因ります。修学院に住んだことはありませんが、赤山さんや曼殊院や武田薬品の植物園は行ったことがあります。鷺の森神社
や修学院離宮は、行ったことがないのです。
定年までまだ数年あるのですが、正直なところ早くリタイアしたいのです。働くこと自体に疲れています。音楽と読書と、あとは自転車で遠乗りをし、大学院の聴講生にもなりたいと思っています。私の出身大学と院は、sawyer様のご推察どおりですし、専攻もその方面です。高校時代は合唱部にいましたので、音大や芸大に進んだ者もいますが、プロになった者はいませんね。

中学校時代、出身小学校の校庭で京響の巡回コンサートを聴いたことを思い出しました。夏で、指揮は渡邉暁雄でした。