シゲティのブラームス随想

「美は痙攣的なもので あるにちがいない。さもなくば存在しないであろう。」
(アンドレ・ブルトン著『ナジャ』)

この言葉はブルトンの「ナジャ」に出てくる言葉だ。

「痙攣的」という難しげな言葉の意味は、様々に解釈されているようだが、小生の勝手な解釈によれば、以下のようなものではないかと考えている。

痙攣は理由や意図なく突然起き、筋肉が緊張⇔弛緩を繰り返すことだ。

つまり意識も予想もできない突然の、肉体的精神的な、予期せぬ変化を痙攣という言葉で象徴したのではないか。

そしてこの場合、変化するのは自己の感性の成す技であるが、その瞬間今そこにある感性は、すぐに痙攣が治まるように喪失されてゆく。

人間は、そうした痙攣のような、緊張⇔弛緩の繰り返しによって、新しい美を発見する。

新しい美とは、既存の価値観や秩序を崩壊させる力を持つもので、既存の価値観や秩序とは、近代的「均衡」であり「調和」である。

スタンダードな価値観は、長い経験を積み重ね、人間の意識下に存在しているが、既存の価値観や秩序を崩壊させる原動力は、無意識下にある。

無意識が創りだすものとは、観念、意識、理性が介在できない状態、言い換えれば偶然の産物、夢のなかの出来事などであろう。

このような創作物は時として、既成概念を崩壊させるばかりか、それまでの価値観を革命的に変換する力ともなる。

シゲティはヴァイオリン演奏の既成概念を、おそらく彼の研ぎ澄まされた感性で、今あるべき演奏のスタイルとして、直感的に打ち破ってみせた。

それはシゲティと同時代の作曲家たちとの、交流による影響の賜物であったかも知れないが、現代風の演奏スタイルの確立は、シゲティの自然な感性のなせる技であったと思う。

改めてシゲティの演奏を聴いたとき、小生はブルトンの「美は痙攣的なもので あるにちがいない」の言葉が浮かんだ。

調和や均衡を図り、美しく奏でるといった従来の演奏の概念を超越した演奏、それがシゲティであるというように、今ブルトンとシゲティがリンクしたというわけであった。

シゲティを、シュールレアリズムと結びつけようとするものでは決してなく、それまでのヴァイオリニストとは、傾向の異なる演奏法を、シゲティが採用したことで、聴こえてくる音楽は奇異で音色も良いとは言えないが、そのような演奏法は、新しい音楽美を創造しているように思えたからだ。

その意味で、シゲティの演奏を、ヴァイオリン奏法の前衛といってもいいのではなかろうか。

小生はそのことの象徴として、ブルトンの「美は痙攣・・・・」を想起し持ちだした。


小生が年齢を加え、見方や聴き方が変化したからかも知れないが、演奏技術が上手い下手などは、どうでも良くなってきたとは、確かに言えることで、そんなものより「訴求力」と「味」のある演奏に強く惹かれる用になったのは、長い年月が流れてからであった。

そしてそういう演奏を、小生は何時の日からか、「音魂」「音霊」のある音楽と呼ぶことにした。

もっともシゲティのブラームスやベートーヴェンを、好きになれずにいた時代は相当長く、初めて接した学生時代から数えると、もう40年程になるが、ようやく還暦を過ぎた最近、シゲティの演奏を肯定的に捉えることができるようになった。

しかし枯淡の境地や悟りのようなものを、シゲティと自分に当てはめてのことではなく、純音楽的な見地からであることを、付け加えておかねばならない。

ぎこちないフレージング、強弓圧(言葉が適当でないが)のボウイング、掠れるような音色、不安定な音程、ままならない運弓、歌わない旋律、思わぬ箇所でのスタッカートなどなど同世代の有名バイオリニストと比較すると、シゲティの演奏は、初心者が弾くヴァイオリンのような感じさえ受けたものだった。

同時代のハイフェッツは、シゲティとは正反対で、そのふくよかで美しい音色と、高度なテクニックは、圧倒的なボリュームで迫ってくるような音楽であった。

このような正反対の演奏法が、同時代に出現したことも、興味のわくことである。

聴衆の支持は圧倒的にハイフェッツに傾いたと思われるが、そのような中でシゲティを認めたのは、当時の作曲家の面々であったといい、シゲティは積極的に彼らの作品、つまり近代現代音楽を積極的に取上げて演奏した。

しかしなぜ当時の作曲家たちがシゲティを支持したかは、多分シゲティの演奏法と、ドビュッシー、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、バルトーク、マルタン、アイヴス、ベルク、ラヴェル、オネゲル、ウェーベルン、ブロッホなどの作品が、シナジーを持った結果によるものではないだろうかと小生は推測している。

既存の音楽概念をうち破った音楽家たちの作品は、最早既存の演奏法で満足に表現することが困難となり、
新古典、印象派、新国民派、新ウイーン楽派、といった(後期)ロマン派を脱出した、革新的な作曲家たちの作品は、ロマン主義的な演奏手法とは反りが合わないということになる。

つまり19世紀的ロマン主義的演奏法では、自分の作曲の意図を十分反映できないと、作曲家自信が考えていて、楽譜を駆使して詳細な指示を書き込む作曲家も多かった。

その点シゲティの演奏は、ザッハリッヒカイト、つまり新即物主義的演奏法で、クライスラー以後のヴァイオリニストが培ってきた、メロディ楽器オンリーのヴァイオリンとは一線を画すものであったから、楽譜中心主義的な同時代の作曲家との相性はよかったと考えられる。

シゲティの演奏は、甘いメロディラインのレガートを使うことなく、ヴィブラートも大雑把だからそれが音の揺れを感じさせ、勿論ポルタメントもないし、ルバートもごく少なめだ。

だから鋭角的直線的に聴こえることが多いが、そのことでシゲティのヴァイオリンを、あまり上手でないとおっしゃる人は、それがシゲティの演奏法であることを理解してないようで、それまでの既存の演奏法の特徴とも言える優雅で流れるような、そしてヴィブラートタップリの甘い音色が、ヴァイオリンの持ち味だと思い込んでいる事が要因となっているように思う。

シゲティのヴァイオリンは、決して上手い下手で語れるものではないと思うが、かといってシゲティの演奏を、神がかり的だとか精神性が深いとか、そのような形容詞で語ってしまうのも、シゲティの演奏の本質を見失う危険性がある。

シゲティを神格化した思いは、小林多喜二のシゲティのコンサートでの感涙のエピソードで、太宰は逆に俗人の資質を加えたシゲティを、ダス・ゲマイネで取り上げたから、特にその読者は思い入れが強いのかも知れない。

「技術的衰えはあるが、精神性が深い」という言い方は、シゲティの演奏を評価する、多くの人の言い方の定型文の一つのようだ。

しかしこのような言い方は、「~の割には○○だ」・・・「安い割には美味しい」という特売品の評価によく似た所があり、常套句のようなもので、実は何も重要なことが語られていないと小生は思う。

問題は「精神性が深い」という言葉だが、その意味するところを明確に表現した記述を今まで読んだことがないのは、この言葉を使うことで、さもわかっているように、ごまかしてきたからではないのだろうか。

と言いながら、シゲティの演奏における精神性の実態を語れるレベルには、小生未だ至ってない。

しかし、技術的に衰えた人の演奏が精神的に深いという、演奏技術と表現結果、そして受ける印象の因果関係とは全く関係のない言い方の奥には、「何がどうしてなぜ」という疑問を挟みこむ余地が十分にある。

小生は、何故にシゲティの演奏が琴線に触れ得るのかを、少しばかり追求したい気分である。

ベートーヴェンの協奏曲も聴いたが、印象では非常に細かいことだが、ブラームス演奏とは少し違う演奏法をとったように小生には聴こえた。

そのことを深堀するなら、シゲティは楽譜という作曲家のメッセージを、この上なく綿密に判読するのが得意な人で、それを忠実に再現しようとしたその結果が、演奏法の違いとなったのではないかという推測も可能だ。

このことも考慮して今後の課題とすることにした。
d0063263_17432927.jpg

シゲティの晩年67歳の演奏録音
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲二長調 op.77
 ヨゼフ・シゲティ(ヴァイオリン)
 ロンドン交響楽団
 ハーバート・メンゲス(指揮)
 録音:1959年3月
[PR]

by noanoa1970 | 2011-06-10 14:03 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(4)

Commented by cyubaki3 at 2011-06-14 21:31 x
ショスタコーヴィチの第5というと、松田優作主演の角川映画「野獣死すべし」を思い出します。ショパンのピアノ協奏曲第1番とともに実に効果的に使われていました。

佐渡裕は自叙伝を読んだことがあるのですが、指揮は独学のようですね。
Commented by noanoa1970 at 2011-06-14 22:34
cyubakiさまこんばんは
小生はこの映画は見てないのですが、曲想が対局のように思いますので、激しいシーンと静かなシーンに使われたのでしょうか。

関西人ですとTVドラマ「部長刑事」で、ショスタコ5番の最終楽章が使われていたのを思い出すことでしょう。

独学であそこまで行けたことは、驚異的です。
逆に音楽大学の教え方が没個性的になっていると言えるかもしれません。
Commented by cyubaki3 at 2011-06-14 23:32 x
佐渡は芸術大学ではフルート専攻で、タングルウッドでバーンスタインに認められるまではママさんコーラスや学生オケ程度しか振ったことがなかったと書いてありました。そのタングルウッドもオーディションに当時は珍しかったホームビデオで撮影した映像を送ったことが幸いして(たまたまバーンスタインが見て気に入った)招待されたそうです。とてもではないが、タングルウッドに参加できるレベルではなかった(本人:談)。かなりの強運ですね。以上うろ憶えですが、大筋は間違えてないと思います。

「野獣死すべし」ですが、ショスタコは主人公の内面の狂気を象徴するようなシーンで、ショパンはヒロインの小林麻美との絡みのシーンで使われていました。
Commented by noanoa1970 at 2011-06-15 08:39
cyubaki3 さま
両音楽を劇伴音楽として使ったシーンの件了解しました
佐渡はバンスタの気まぐれのようなものがツキの始まりということになりますね。
実力の程は、どうあれ、今回BPOを振ったことで名声を獲得することになったと思うのですが、これからが本当のお試し期間でしょう。まだ大化けはしてい内容に思います。