カール・リヒターのモツレクを聴く

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レコード棚を整理していた時に見つけたリヒターのモツレク。

小生は1969年、リヒターが、ミュンヘンバッハ管とヘフリガーを引き連れて来日した、大阪フェスティバルホールで、「ロ短調ミサ」を観たことがあったが、鮮烈であったはずの演奏会の記憶が、時とともに薄れて行ってしまい、冒頭の合唱のハーモニーの美しかったこと以外は、途中休憩を挟む長い音楽だという感想しか今は残ってない。

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キングレコードの「テレフンケン」レーベル国内盤、K17C8337,1961年10月録音のアナログディスク。
テレフンケンは、今やテルデックになってしまい、威厳のあるレーベルが見られないのは残念なことである。
非常に中途半端な、1700円という価格のLPで、廉価盤なのかそうでないかは微妙だ。

聴かなくなってもうずいぶん経つが、聴欲を刺激するものが見つかったので、取り出しておいたものを、本当に久しぶりに・・・多分20数年振り、に聴いてみた。

このLP、以前の印象では、プレスの具合か、音響装置の問題か、音があまり良くなかったので、頻繁に聴いた音盤ではないのだが、調整の結果、音響装置のアナログ再生音が、かなり良くなってきたので、以前聴いた時との音の違い・・・オケと合唱の入ったアナログディスクで、どのような変化があるかを確認するチャンスでもあるし、そして勿論、忘れかけていた、リヒターのモツレク演奏の再検証を兼ねてのことは言うまでもない。

まず印象に残る特徴的なものは、入祭唱の出だしで、通常はバセットホルンとファゴットが、低くも柔らかい音色を奏でるのだが、リヒターはバセットホルンを外し、クラリネットに置き換えていて、いつも聴こえてくる低い音が醸しだす陰鬱さは少ない。

バセットホルンを外したもので小生が知るのは、他にラインスドルフ盤があるが、モツレクの特徴でもあるから、この楽器を外した演奏は極少数だと思われる。

リヒターのことだから、単にバセットホルンガ無いとか、奏者がいないという理由ではなく、他の何かがあるように思うが、音響から受けるものは、バセットホルン使用とは印象が異なり、バセットホルンとファゴットの組み合わせでは、「遠くから何かが1歩ずつ歩み寄って来る、あるいは何かに近づいてゆく」ような印象があるが、クラリネット使用は「何かと寄り添う意思」を強調したような感じを受ける。

何かとは、まさに「死者」であると、小生は言いたいが、言い過ぎになるだろうか。

バセットホルンのほうが、「死者のためのミサ」に相応しいかも知れないが、クラリネットも決して悪くはない。

入祭唱は4分台とかなり早めで、ピリオド系の指揮者とほぼ同等。

4分台の演奏で、小生が知っているものは、他にはフリッチャイ/RIAS、シューリヒト/VSPが4分台の速さであるが、実測値では遅いのだが、聴感的にはそれらより早く感じる。

これはおそらく、リヒターの指揮ぶりから受ける印象であろう。

60年代はロマンチックな演奏とザッハリヒな演奏の2つの潮流が、相まみれたように思うが、宗教音楽の権威で研究家でもあるリヒターは、この時すでに、来るべきピリオド演奏スタイルの先駆者であったかのように、相当ザッハリヒな演奏スタイルで、ヴィブラートはやはり抑えめである。

話は変わるが、最近N響がノリントンの指揮で、エルガーの交響曲を演奏したのをTVで観たが、徹底したノンヴィブラートでやっていて、以前N響がノリントンだったかアーノンクールだったかとやった、ノンヴィウラートのモーツァルトに比べ、相当技術が上がってていたのを確認したが、それでも長年培ってきたヴィブラートを忘れられないのか、低弦の一部の人が、思わずヴィブラートをかけていた。

やはりこういう奏法は、伝統と長い経験によって培ったものがないと、付け焼刃では難しい所がありそうだ。
シャイー&ゲヴァントハウス管では、N響のノンヴィブラート奏法と逆の光景が見られたのは面白いことであった。

独唱者は、マリア・シュターダー(ソプラノ)、ヘルタ・テッパー(アルト)・ヨーン・ヴァン・ケステレン(テノール)・カール・クリスティアン・コーン(バス)。

女性の2人が特に優秀で、ややヴィブラートを抑えた歌い方は、曲想に合っているし、リヒターの指揮ぶりにもピッタリ合っている。

リヒターのモツレクは、端正であるとか、バッハ的であるとか、禁欲的で厳しい、というように形容されることが多いが、これらはリヒターのザッハリヒな指揮ぶりから来るものではないだろうか。

バッハ以外、特にロマン派の音楽を聞くと、リヒターがザッハリッヒな指揮者である、そのことがはっきりするかも知れないが、小生は未聴である。
ブルックナーの4番、モーツァルト29番、ヴェルディ、ベートーヴェン、ブラームスの大型宗教曲の録音もあるというから、いずれ聴いてみたいが、なかでもブルックナーは意欲をそそる。

ヴィブラートを薄く掛けたことによって、輪郭が濃くなった弦群の音色は、透明感があり、明晰でよくとうり、楽器のような合唱とマッチングが良い。
合唱陣の和声の筋肉質な表現が、リヒターのモツレクの印象となり、上のような形容がされたのであろう。

つまり、リヒターのモツレクの特徴と、様々な形容の正体は、レスヴィブラートの弦パート、合唱の楽器的コントロール、ザッハリッヒな指揮ぶりの3点だということが出来る。

モダン楽器によるレスヴィブラート奏法の演奏は、大ホールを使った時の音響も満足させられるし、勿論教会の中でも通用する、しかも音楽の表情を醸しだすのに適しているから、デューナミクスの表現に冨み、音楽がより生命感を持つようになるのだろう。

宗教音楽の世界が長いリヒターが、ピリオド系にいかなかったのは、着目すべき点だと、小生は思っている。

それとともに、何も引かず何も足さない、リヒターのザッハリヒな演奏ぶりは、宗教音楽に長く携わって生まれたものだと思えるが、ライプツィヒ音楽大学出身、聖トーマス教会のオルガニストであったというのも、その大きなファクターであったかも知れない。

伝統的にレスヴィブラートを保守ってきた、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の存在もミュヘンバッハ室内管弦楽団の奏法に寄与したとも考えられる。

長い間このオーケストラ固有のトーンを持ち味としてきた、コンヴィチュニー時代のゲヴァントハウス管の聖トーマス教会での演奏を、リヒターは聞く機会が多かったはずである。

モダン楽器によるレスヴィブラート奏法は、モーツァルトの権威でもあった、ベルンハルト・パウムガルトナーの志向ととても良く似た所がある。

小生はこれらの少し古い音源を聞くとき、昨今流行病のように出現している、ピリオドアプローチ、ピリオド奏法の演奏を聴く気がしなくなる。

時代の進みに合わせた奏法の発達と真逆なものは、少しの間は物珍しさからもてはやされるが、時間と共に消えて行く運命にある・・そのように思っているからだ。

モダン楽器オケによるノンヴィブラート、またはレスヴィブラート奏法が、演奏史的観点からも自然なのではなかろうか。

勿論古楽器のピリオド奏法、音楽史的価値と、トーンの斬新なところは認めるのだが・・・
演奏技法の古典主義的発想は、どう考えても不自然で、小生は恣意的なものを感じてしまう。

カリスマ指揮者が不在の今日状況を、演奏の中身ではなく演奏方法(形式)で補っているかのようだ。

リヒターのモツレクは、時代が代わっても、変わらない評価を受け続け、モツレク演奏史に残る「名演」として、これからも聴き継がれていくことだろう。

こういう演奏録音が「名演」「名盤」と呼べるもので、そう滅多矢鱈とあるものではない、宝物的存在と言ってよいだろう。

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by noanoa1970 | 2011-06-06 12:14 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)