レコーデッドミュージックとライブ

多分100人中100人が、「生」に勝る音はない、そういうことだろう。

特にクラシック音楽愛好家には、コンサートホールで聴く、生演奏は、応えられないだろう。

しかし、小生はそのことについて、かねてからある疑問を感じてきた。

そのこととは、音楽を聴くのには「絶対に生のほうがよい」という、手放しで生を賛美することに対してのことだ。

素晴らしいコンサートというものは、条件がいくつか整わなければ、成り立たないし、半分以上は賭けみたいな所があって、良し悪しは結果論であることがほとんどだからだ。

勿論逆に、録音された音を再生して聞く音楽が、生より良いということは、通常では難しいことであるし、稀なことでもある。

しかし、所詮生といっても、そこで鳴り響く音は、楽器や声そのものの直接音と、ホールの、ホール特有の間接音の混合された結果の産物であり、加えて観客など、付帯されたものが生み出す混合音であるはずだ。

コンサートホールの音と、レコードの音の違いは、突き詰めて表現すれば、アコースティックな本物か、人工的な偽物かということになるが、果たしてそうなのか。

それに、コンサートホールなら常時良い音で音楽を享受できるかと言えば、絶対的な条件ではないことは、響き方や音の聞こえ方が、ホールのどの位置に自分がいるかによって、変化すること、○○ホールは、2Fの何番の席が一番良い音が聞こえるなど、言われることでもそのことの一部が言えそうだ。

何を言いたいかというと、無条件で「生のコンサートだから、録音再生に比べ音が絶対的に良い」、ということにはならないということだ。

しからば、音響装置を使って聞く、レコーデッドミュージック、(LP、CDがその代表だが、)ではどうかというと、生の音との直接比較においては、生の音響にかなうわけが無い事は周知の事実であろう。

オーディオの歴史において、「源音再生」という言葉が、麻薬となってゆき、良い音≒生の音≒源音、であると言う図式が出来上がってしまったのも、生音>録音再生音、という背景が常に存在したことによるものと考えてよさそうだ。

そしてかつては、生の音に近い音のする音響装置(音響装置だけで、決定されるわけがないから、実際には実際にそんなものはないのだが)が、良い装置といわれ、オーディオメーカーは、それを売り言葉に、オーディオ愛好家は、より生に近い音≒源音、を再生するのに血眼を揚げてきた。

ウイーンムジークフェラインでのウイーンフィルの音に近づけたい、などというオーディオ愛好家でクラシック音楽ファンがその昔存在した。

1966年ヴィクターだったと思うが、観客とオーケストラをいれたホールで、途中までは生音、そしてどこからかは、再生音に切り替える、という実験をしたが、いつ生からオーディオ装置の再生音に切り変わったかを、当てる人は誰もいなかったということがあった。

この例などは、いかに生の音に近づける事が出来たかという、音響技術の成果を示すもので、その当時1960年代中期以降のオーディオ志向を表すものであった。

しかし実際はそれ以前、1950から60年代初期に、生に近い音を録音再生することと並行して、そうではなく、よりリアル、いやヴァーチャルリアリティというほうが正確だが、実際にはそのような音ではないにもかかわらず、聴く側にとってみれば、音楽が生き生きしていて、よりリアリティのあると思わせるような録音が出現していた。

JAZZのバンゲルダー、クラシックのカルーショウなどの、録音エンジニア&プロデューサーがその代表だ。

彼等に共通してあったのは、生の音に近づく事が録音技師の使命などという、記録を通り越して、生まれた過去の録音コンセプトでなく、録音されたものを聴く人にとって、一番心地よい音を作り出すことに主眼があった。

そのために、楽器の近接位置、大胆なのは、ピアノの内部にマイクを入れて録音したり、ホールでは聞こえない音を強調したり、効果音まで入れるという、一昔前には考えられない方法で録音し、実際のホールで聞こえる音からはかなり遠いが、それが聴衆には評判となった。

いうなれば、ライブコンサート疑似体験のための録音でなく、録音そして再生という家庭内個人的過程における、快適さを求める方向が、付け加えられたといってよいだろう。

録音=演奏の記録(ドキュメント)を経験し、さらに、音楽における録音再生は、新しい表現法の重要な要素であることを、認識する演奏家も出現し、多様化された価値観を持つに至ったと言い換えてもよい。

録音再生技術の進歩によって、家庭で手軽に、ダイナミックで生々しいと感じられる音が、かなりの情報量を伴って聞こえ、音楽が個人の領域から、いつでもどこでも聴くことが可能な万人の領域へと、その範囲を広げた結果、演奏者や作曲家においては、再生芸術という言葉があるように、つまりコンサートホール以外に、家庭内で音楽を聴くことを睨んでの芸術好意を意識せざるを得なくなったということだ。

従って、良い音、本当の音、源音とは、コンサートホールの生の音響であると、何の疑いもなく信じ込んでいて、生に勝る音はないなどという、生絶対主義的にものをいう人は、相も変わらず存在するが、必ずしも生に近い音を目的としない録音があるということも、知っておくべきだろう。

録音ばかりではなく、そのようなことは、現代の作曲家や演奏家の前衛現代音楽には、コンサートホールで聴かれることを、前提としない、録音再生によって聴かれることを主眼に、造られているものが多く存在することでも明らかなことだ。

大きく分けて、2つの方向があるにもかかわらず、いやそのようなことはとにかく、録音再生音は、いずれにしろ全て人工だから、自然音である生より良いわけがない、という理屈があるが、現代において、そのような理屈は、最早成り立たなくなっている場面があることに気が付くべきだ。

生に近づこうとする録音再生コンセプトも消えたわけではないが、生に近づくことが目標では、端から生に勝てるわけはないし、努力の限界は確かにあるが、それとは異なる次元で、「生より良い音がする録音再生音がある」などというと、そんなことはあり得ないと、真っ向から否定してくる生絶対信者はいまだに存在する。

むかし、クラシックCDコレクションという掲示板で、「生より優れた録音」に関連した話題があった。
この掲示板はその名の通り、CDを中心とする、レコーデッドミュージックの感想や聴きどころ、録音状態、そして演奏の印象のQ&Aを通じ、購入の参考にしようとする人たち、それに対し、アドバイスする人たちで、たいそう賑わっていた。

そんな中、「生に匹敵する録音が、ありやなきや」という質問があって、生に勝るものはないから、質問が不適当という意見、そもそも生と録音されたものは別物と考えるべきだから、比較はナンセンスというもの、いや、優れたエンジニアによる優れた録音を優れたマスターリングによってCD化したものを、良い環境下で聞いた場合は、生に勝ることがあるとか、色々な意見があり、相当盛り上がったことがあった。

ある人の投稿で、生のコンサートの音と、それがCD化された時の再生音を比べ、生のほうがよいに決まっていることは、火を見るより明らかなことだというものがあり、補足には次のようなことが書いてあった。

人間の耳で聞く音楽は、マイクで音を拾うのとはわけが違う、耳とマイク、どちらが優れているかは、論ずるまでもない。
さらに、音声ミックス、マスターリング、デジアナ変換など、電気信号化されたものを扱うのだから、いかにデジタルといえども、その過程で音声の劣化がある、というより、余分な音がついてくるから、生の音の奥行、立体感、自然な広がりは、コンサートホールで聴くようにはなるわけがない。

本物の音楽や音、音響は、再生装置がいくら頑張ったところで、それは偽物である.
本物の音楽は、生でしか得る事が出来ない。

「生」絶対主義者は、おおよそ上のような論理展開をすることが多い。

要するに、ライブコンサートだから、本物の音楽が聞けるし、音は絶対に生のほうがよい。
録音再生された音は、本物に近づく目的で人工的に加工されたもの、だからいわば偽物の音を聴ていることになる。
偽物だからどんなに頑張っても本物には劣るから、生に勝るものはないという結論となる。

よく演奏会批評やその感想の記述を、いろいろな場面で見ることがあるが、自分が参加した数少ないコンサート以外の記述を、小生はほとんど参考にしない、今ではそれどころか、読みもしない傾向にある。

コンサートの話題は、その演奏会に行って演奏に接することができた少数の人以外には、共通の話題になりえなく、それを聴いていない人には、実感が伴わない。
そして、それを参考にして自分も同じ参加するというところまで発展することのT・P・Oは、殆ど無いと言える場合が多いから、あまり意味があることではない。

音盤なら、同じものを聴く機会は相当にあるが、コンサートになると、参加するにはいろいろな条件が伴うし、そもそも万人が体験できるものではない。
だから、その話題は参加できた非常に少数の人の、楽屋オチのような内輪の話に終始する。

しかも、コンサートの演奏批評や感想を、コンサートホールという、良い意味でもそうでない意味でも、独特の雰囲気を持つ空間で、たった1回しか聴かないで、まともな印象や評価が成り立つものかという疑問がある。

「1時間行列して、ようやく食べる、ちょっと有名なラーメン」、
小生はよくこの例を出すが、ラーメンの味そのものより、そのラーメンを、長い間行列して食べる事が出来た・・・つまり時間をかけて待ったという結果、ようやく食べることができたという、自己満足と、そのことによる付加価値が加えられ、それがラーメンの味に強く影響を与え、ラーメンの味を印象づけることがある。

一流の料亭で、会席をふるまうという企画に集まった10人の主婦、初めのほうに出された吸い物の印象を、やはり一流料亭の味は違う、などと全員が感想を漏らしたが、実はその吸い物は、小学生が作ったものであったという事実は、場所と名前と雰囲気によって、味覚が大きく変化することの証明であろう。

つまり、かなり主観的情緒に左右されやすいということになる。
主観でモノを言うことは当然のことだが、主観的情緒となると、話は違って来て、それが文章となって表現されることの影響による危険性は、プロの物書きなら余計にあるが、最近の傾向なのか、そういうプロの物書きが多いような気がする。

音楽の場合に重要なのは、聴覚であるが、その聴覚も同じように、視覚や触覚、嗅覚など他の五感、いや六感によって、感覚が鈍ることや、逆に感覚が鋭くなりすぎて、情報が加減されることがあるのではないか。

コンサートホールでのあの雰囲気は、思い込みや先入観なく演奏そのものを印象付け、しかもたった1回しか聴いてないにもかかわらず、出来上がってしまう演奏評、コンサート評などは、ありのまま正当に、正直に伝えられているものか。

リラックスして、必要な時に何回も繰り返して聴くことのできる再生音楽でさえ、その時々で、音も演奏も違うニュアンスで聴こえるのだから、何回も繰り返して聴くことで、ようやくその音楽演奏について、一定の感想評価が出来ることになるが、たった1回限りで、しかも聴覚を邪魔する要素が多いコンサート会場での視聴において、そもそもコンサート評というものが成り立つのか。

よほど耳を鍛錬し、耳に自信を持った人でも、瞬間的にすぐ消え去る音楽の印象評価は、そう簡単ではないし、まして、素人の音楽愛好家では、かなり困難なはずだ。

それに、集中したままで、すべての演奏品目を、2時間余りも聴くことは、そもそも困難である。

くり返し接することが出来るもの以外、特にその瞬間でしか無いものの評価は、相当あてにならない。
瞬間瞬間の「印象」による論評は、多分に情緒的すぎるからだ。

小生がコンサート評なるものをブログに書かないのは、そういった背景があるからで、同じ物を聴いて検証ができないものについて読む気がしないと、自分で思っているものを、書くことは不自然だからである。

その点、CDやLPなどのレコーデッド音楽であれば、自分でも同じ物を聴くチャンスは十分あるから、感性の共有や新しい気づき、他人の感性の多様性などを、実感できるとともに、自分の感性の刺激、さらには感受性の訓練にもなると思っている。

・・・・書きかけ、続かない可能性大
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by noanoa1970 | 2011-05-22 11:11 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(8)

Commented by HABABI at 2011-05-22 15:39 x
sawyerさん、こんにちは

1)音響の良し悪し、2)演奏の良し悪し、以上二つに分けてコメントします。二つに分けて送信します。

1)音響:ダイナミックレンジ(音の強弱の比)を見るだけでも、録音再生は生に敵わず、また、各録音再生装置の性能に従ってオリジナルの音は変質してしまいます。しかし、演奏会では会場の音響特性や聴く場所によって、直接音/間接音のバランスを含め、著しい差があります。音がはっきり聴こえる、という点では、会場・聴く場所に対する録音再生装置及び録音技術の性能の間での優劣比較となります。優劣は、各状況次第です。とても小さな会場での演奏の場合は、直接音の勝負、となりますが、これは議論の対象外とした方がいいと思います(例えば、ピアノの中に首を突っ込んで、あの大きな音に耐えられる人は稀で、これは近接マイクで録った音を音量調整して聴く方が現実的です。)
Commented by HABABI at 2011-05-22 15:40 x
(つづきです)
2)演奏:感動という点では、聴く側が持つ緊張感、集中力、それと演奏者に対する思い入れという主観が大きく影響しますので、個別の状況次第でしょう。
一期一会の緊張感、伝説的演奏家が目の前に演奏している感激、微妙な音色から伝わってくる演奏者の人柄、等々、生のいい演奏会の素晴らしさは特別で、その時の感激は、その場の雰囲気と共に長く記憶に残ります。一方、録音の方は、多くの場合、技術的に欠陥の少ない演奏が聴けます。そして、録音の最も素晴らしい点は、聴く側が聴きたくなった時に聴くことが出来ることです。仕事後の疲れた心身で演奏会に行き、その時特に聴きたいとは思わない曲を我慢して聴く必要はありません。以上、所詮、各人の状況次第です。
Commented by noanoa1970 at 2011-05-22 17:52
HABABIさんご指摘ありがとうございます。
なんだか書いているうちに論点がボケてきたようです。
この問題、論点が多すぎて展開ががかなり難しいのに、HABABIさんの整理のおかげで焦点が定まったように思います。
いずれ論点をハッキリしてから、再チャレンジします。
Commented by HABABI at 2011-05-22 20:22 x
sawyerさん、こんばんは
二つ、付け加えさせてください:
①録音再生、特に再生に関しては、聴き手がその人の理想とする響きを求める、ということが起こり、これが一つの(芸術とまでは言えないかもしれませんが)趣味となります。演奏会で、自分にとって良い席を確保するのとは違いますね。
②ほとんどの場合、演奏会での演奏はCDとはならず、演奏会場に足を運んで初めて聴くことが出来る訳で、我が家の次男坊の場合は、聴きに来て頂かないと、演奏する機会そのものが無くなってしまいます。録音は、古い貴重な演奏や、近くで聴く機会のない演奏、あるいは演奏されないようなものを聴くことが出来ます。一方、生では、そこ(演奏会場)でしか聴くことが出来ない演奏を聴くことが出来ますね。また、会場の音響条件に不備がなく、そばに態度の悪い聴衆がいない限り、音楽に集中するという特別な時間を長く持つことも出来ますし。

以上、演奏家を目指す息子を持ち、自らはLPやCDのコレクターである小生としては、sawyerさんの示されたテーマに大いに関心を持つところです。
Commented by Abend at 2011-05-22 23:36 x
aswyer様、こんばんは。
音響は作られるもので、生ではそれがホール(そして座席の場所)、録音では再生装置によって為されます。ただ、後者の場合は更に自分好みに調整できる点が特徴です。
昔は「ナマ・レコ論争」が音楽誌の投書欄を賑わせましたが、生=自然、録音=人工といった単純な図式はもう通用しないと思います。生を聴きに行くのも、家で録音を聴くのも、音楽を聴くこと以外の要素が聴き手に入り込んでいますし、詰まるところは、聴き手の聴力や感性、そして性格によって生か録音か、あるいは生も録音もかといった好みの多様性が形成されるのだと思います。
Commented by noanoa1970 at 2011-05-23 08:51
Abendさま
コメント並びに考え方のご教示有難うございます。

>昔は「ナマ・レコ論争」が音楽誌の投書欄を賑わ
せましたが、生=自然、録音=人工といった単純な図式はもう通用しないと思います・・・
ごく最近までの掲示板では、まだその名残が強かったようで、論争がありましたが、>詰まるところは、聴き手の聴力や感性、そして性格によって、・・・・好みの多様性が形成される。
という Abendさまの意見に集約されそうですね。
Commented by ベイ at 2011-05-23 13:54 x
sawyerさん、HABABIさん、Abendさん
みなさんのご意見それぞれに共感する点が多々あります。sawyerさんの総括のとおり、最終的には「好みの多様性」ということにつきると思います。一人の情報量は限られていますので、いろいろな人の「聴き方」「接し方」から刺激や情報を得て、自分がそれまで知らなかった世界に入っていくことは音楽の醍醐味のひとつではないでしょうか?
またコンサートにしても録音録画されたものにしても、数多く接することで見えてくるものもあると思います。
ところで「生のクラシックは本場(ヨーロッパ)で聴くものがより本物に近い」という命題があります。みなさんはこれに対してどう思われますか?私はこの意見にかなり近いのですが。
Commented by noanoa1970 at 2011-05-23 18:31
ベイ さん
コメント及び考え方のご教示有難うございます。
>「好みの多様性」ということにつきる
これはHABABIさんの意見を引用したので、オリジナルの意見はHABABIさんなのです。

「生のクラシックは本場(ヨーロッパ)で聴くものがより本物に近い」という、論点の分かれそうな、奥が深そうな問題定義をされましたので、そのことについて少し考えてみようと思います。

「本物」という、バクとした言葉の概念を規定しておく必要があるような気がしていますが、そんなことも含め、コメントの数の限界もありますし、新たにこの問題専用のコーナーを造りますので、そちらでお話ししましょう。昔の掲示板のようになってきて、胸が踊ります。